2023年:蜃気楼のような女の子 第五章
「よし、プールに行こう」
東京から帰ってきて一週間。ついに月が変わって八月となり、連日厳しい猛暑が続いていた。
盆地に位置するこの街は、冬は寒く、夏は暑い。根っからの地元民である俺にとっても、この厄介な気候には慣れることはなく、毎年困らされてきた。ついひと月前にここに引っ越して来た藤瀬姉妹であれば尚更だろう。であれば、ここは暑さを払拭する行事の一つもなければ、この夏を無事に越すことは出来まい。
そういった熟慮の上の発言が、冒頭のあの言葉である。我ながら、気配り名人としての本領発揮といったところか。
「その提案に反対するつもりはないですが、思念の奥に見え隠れする和人君の下心が薄気味悪くて、素直に頷くことが出来ません」
しかし、そんな困ったことを言い出すのは、藤瀬姉妹の姉の方。普通、こういった美少女が登場するゲームの場合、妹の方が照れ屋と相場が決まっているのだが、この姉妹についてはそれが当てはまらない。控え目とは言え、立派なものを二つも身に備えているのだから、照れる必要などまったくないと、個人的には思うのだが……
「ぶち殺しますよ。別に照れているわけではありません。警戒しているんです。東京の地に『遠慮』という言葉を置き忘れて来たとしか思えない行動の数々に、私はもはやハリネズミ状態です」
「そんな大袈裟な……一緒に寝たり、お風呂入ろうとしただけじゃないか」
「何が大袈裟なのか、自分の胸に良く聞いてみて下さい。通報されてもおかしくない所業の数々ですよ」
「でも、紫は嫌がらないよ?」
「あの子はそういう部分の神経が死んでいるんですから、基準にしないで下さい。むしろだからこそ、今その辺りの常識をつけさせてあげないと、今後危険なんじゃないですか」
「大丈夫だよ。他の男を近づけさせなければ済むだけの話だから」
「何ですかその逆転の発想は。いきなり恐ろしいことを言い出さないでください。それに、和人君がずっと近くにいられるわけではないでしょう?」
「む……厳しい現実を突きつけないでくれ。まぁそりゃ、夏休みが終わったら流石に家に帰らないとまずいとは思ってるけど……」
「……まぁ、それもなくはないですが……それでなくとも、私も紫も、いつまでもここにはいれないですからね。祥子の件が片付いたら、日本にいる理由も無くなるわけですし」
……すっかり忘れていた。東京のゴタゴタのせいですっかり存在感が薄くなっていたが、最初のきっかけはそれだったんだ。
「ようやく思い出しましたか。あなたも思いっきり当事者なんですから、そろそろ動き出さないと」
「そうは言っても手詰まりでしょ。相手も動く気配ないし」
「だからそれは、和人君を餌にすれば絶対向こうも動きますって」
「絶対嫌だ! てか、ついに餌って言っちゃったよ! 今までは多少オブラートに包んでくれてたのに!」
「和人君に対抗して、私も遠慮は捨てることにしたんです。わかりました。では、妥協しましょう。もし餌になってくれれば、プールに行くという提案、前向きに考えてあげないこともないです」
「え? 本当?」
思わず、声が上ずった。元より、駄目もとだったのだ。にもかかわらず、ここに来てそれが現実になる未来が見えてきた。興奮しない方がおかしい。
(いや……待てよ)
落ち着け和人。冷静に考えろ。その未来を手繰り寄せるためには、自身を囮にしなければいけないのだ。如何に藤瀬姉妹の水着姿と言えど、自分の命と引き換えにするのは――
「ちなみに、紫の水着は旧スクです」
「その条件、飲もう」
もはや議論の余地はない。紫のスク水姿、それも旧タイプだ。その思い出があれば、虎口にだって飛び込める。
「はぁ~。自分で言い出しておいて何ですが、和人君ってホント馬鹿ですよね」
「欲望に忠実なだけだ――いや、待てよ。しかし、そうなると二人の水着姿を他の奴に見られる可能性があるのか……まったく知らない奴ならともかく、クラスの連中に会ったら嫌だな。折角のアドバンテージがなくなってしまう」
「それなら、こんな妥協案は如何?」
その時、扉の方から声が聞こえて振り返る。
「あ、ソフィアさん」
いつの間にか部屋の入り口に立っていたのは、ソフィア・コズロフさん。俺の心的ケアをするとかで、二日前にISSAから派遣されて来た職員だ。俺が短い間に二度も悪質な霊に接触したことが理由らしい。変な影響を受けてしまっていないか、監視しているのだろう。
「倉庫を漁っていたら見つけたの。これ、まだ使えるのではないかしら?」
そう言ってその手に掲げたのは――
「ビニールプール……ですか」
「えぇ。ちょっと高校生三人では狭いかもしれないけれど、暑さ避けの水浴びくらいなら問題ないでしょう?」
確かにスペース的なことを言えば、まったく問題ない。むしろ小さい分、彼女たちと密着できて嬉しいくらいだ。しかし……
「折角だからソフィアさんも入りましょうよ。寒い国から来て、この暑さは堪えるでしょ?」
ロシア人美女の水着を見ることなくして、心から楽しめる訳がない。後悔という名の大津波が、俺の一時の幸せを押し流してしまうに違いなかろう。
「でも……私、水着なんて持って来てないわよ」
「大丈夫です。俺が持ってます」
「なぜ!?」
縁が隣で慄いているが、この千載一遇のチャンスを前に、いちいち相手にしていられない。
「そう……ならお言葉に甘えようかしら」
「そこ! 男性が女性ものの水着を持っているという事実に、何か言うことは無いんですか!?」
……うるさい縁だな。そんなこと言って、気が変わっちゃったらどうする。
「そう? 私の故郷では普通だったけど」
「ロシア怖すぎる!」
「なんて……冗談よ。流石にそんなことで人のお世話になれないもの。自分で買ってくるわ」
「いえ、別に全然気にしなくて良いんですよ?」
「あなたは少しは自重しなさい」
やいやいと、縁と騒がしく言い争う。それは、俺たちにとってはお決まりのやり取りだったが、ソフィアさんには新鮮に映ったらしい。「クスッ」と笑い声が聞こえて、揃って顔を向ける。
「あら、ごめんなさい。二人のやり取りがなんだか可笑しくて。でも、そうやって気兼ねなく言い合える仲間は貴重なのだから大切にしなさい。もう二度と、見つからないかもしれないのだしね」
それは、随分と大袈裟な物言いだった。だが、藤瀬姉妹の立場を知った今となっては、それが大袈裟ではないとわかる。
『紫には普通の青春を経験させてあげたい』という縁の言葉を思い出す。その気持ちは俺も同じだ。勿論、俺の場合は『縁も一緒に』と考えてはいるが。
これから先、どれだけ二人と一緒にいられるか正直分からない。でも……可能な限り何とかしてあげたい。この水浴びが、少しでもその役に立つのなら……
そんなことを考えながら、改めて隣にいる縁を見る。すると――
何着かの水着を取り出して、交互に眺めている縁の姿があった。
「え? 一体その水着……どこから?」
「ん? あぁ……」
一瞬、『しまった』という顔をする縁。でもすぐに諦めたのか、
「……そこの箪笥ですよ。仕事柄、潜入ミッションとかも多いので、色々なバリエーションの服を用意しているんです。一応鍵掛かってますけど……壊して勝手に中を見ないでくださいね?」
そんな風に念を押してくるが、もう耳には入っていない。
「マジで!?」
当たり前だ。もしそれが本当なら、縁を着せ替え人形にできる未来がこの先で待っていることになるのだ。それは、看過できない事態だった。
「いや、待っていませんから」
縁が呆れた顔で何やら言っているが、もうそれどころではない。
「一体どんな服があるんだろう? それって、希望を出せば新しく買って貰ったりも出来るのかな?」
何て言っても、国連を母体にしているような組織だ。新しい服の十着やニ十着、必要経費で何とでもなるに違いない。これは今すぐにでも、アニメ雑誌を買いに本屋さんに走る必要がありそうだった。
「先走り過ぎです。勝手に一人で走り出さないでください。そして、着せる衣装の参考に、アニメ雑誌をチョイスしないでください」
縁のツッコミが続けざまに聞こえて、ようやく意識を現実に戻した。どうやら、俺のプランに何やらケチをつけたいらしい。
「そもそも、仮に服を新調できたとして、私が素直にあなたの着せ替え人形になると思ったら大間違いです。それにあなたのことですから、どうせ胸元が大きく開いたりしている、エッチな服を要求したりするんでしょ? 水着だって、こんな感じのきわどいビキニを要求したりするんでしょ? 分かっているんですからね、私は」
そう言って、実際に布面積少なめのビキニを俺に向けて掲げてみせる。
それを見て、思わず溜息を漏らしてしまった。
「む……なんですか、その呆れたような態度は。図星を当てられて悔しいなら、素直に悔しそうな顔をすればいいじゃないですか」
不満そうに縁が何やら言っているが、見当違いも甚だしい。
「け……見当違い? 何がですか?」
思考を読んだのだろう。縁が、若干動揺した顔をする。どうやら俺が、演技ではなく本当に呆れていることを、理解したらしい。
「いいか、縁。胸元というのは、谷間が見えて初めて、そこに価値が生まれるんだ」
だから俺は、この分かっていない少女に真理を告げる。
「紫が着るならともかく、どんなに寄せて上げても谷間が出来ようがない縁がこういう服を着ても、それは宝の持ち腐れなんだよ。だから縁は、胸がなくとも着こなせる服で勝負しないと。人は短所を補うことよりも長所を伸ばすことで、より幸せになれるんだからさ」
我ながら、良いことを言った。
人はどうしても自分の足りない部分に目を向けがちだが、実際には良い部分にこそ、もっと目を向けるべきだ。全ての人には、必ず良い所がある。それに気付くことさえできれば、自分にも他人にも、もっと優しくなれるはずなのだから。
「…………ださい」
「え?」
けれど、奇妙なことが起こる。自分の名言に深く頷いていた俺の隣で、分からされたはずの少女が、俯いてプルプル震えていたのだ。
「? 縁、どうしたの? そんなチワワみたいに震えて」
「……でください」
「え?」
縁は、再び何かを口にしたようだったが、やはり聞き取れない。俺は、縁の口許に耳を寄せた。
その刹那――
「死ね!! 女の敵が!!」
それは、唐突と言っても良いだろう。
耳が爆発したかと思うほどの大音量が俺の鼓膜を突き破り、同時に岩のように重い一撃が、フリーになっていた左側腹部に深くめり込んだのだ。
「グフッ……」
潰された蛙のようなうめき声が、どこか遠くから聞こえた。けれど、その出所に考えを巡らす前に、まるで黒い布を頭から掛けられたように視界がブラックアウトし、同時に、何も感じなくなる。
「あらあら。普通なら死んじゃうわよ、それ」
でも最後に、どこからともなく、そんなソフィアさんの声が風に乗って流れてきて……
その一瞬後、俺は意識を手放した。
***
「すいません、全部準備を任せてしまって」
「気にしないで良いのよ。まだ体が痛いんでしょう? 無理をしなくて良いわ」
一人きりの部屋で目覚めた俺は、何故かずきずきと痛む腹を押さえながら、庭に出てプールの準備を進めてくれているソフィアさんに合流していた。
目の前には既に水を一杯に張ったビニールプールが鎮座している。思ったよりもサイズは大きく、三メートル角くらいはあるだろうか? 泳ぐのは厳しいが、四人で水と戯れるくらいは何とかなりそうだった。
「それにしても、その格好は中々魅力的ですね」
「そう? ありがとう」
涼しげに笑うソフィアさん。流石大人の女性、俺の言葉など意にも介していない。しかし、俺も決してお世辞で言ったわけではなく、れっきとした本心なのだ。
こういうことを言うと、軽薄なる諸兄は『あいつはまた女性の水着で興奮しているのか』とか考えるのだろうが、それはまったく異なる。人を馬鹿にするのも大概にして欲しい。ソフィアさんの水着を前にして『それにしても、その格好は中々魅力的ですね』なんて冷静なコメントを、発せられる訳ないではないか。
さて、ではそんなソフィアさんの格好だが、別にここまで引っ張ることでもない。水着の上に一枚白いシャツを羽織っているのだ。
しかし、中の水着が青いため、薄っすらとその輪郭が透けているのは高得点だ。それにやはりロシア人、色白で足が長いというのは、それだけで露出の多い服がよく似合う。次はロシアに生まれ変わろうと決意するくらいには、ロシア人が好きになってしまった。
「はぁ……さっきから好き放題考え過ぎですよ。家の中にいる時から聞こえてましたよ?」
不意にそんな声が聞こえて振り返ると、そこにいたのは藤瀬姉妹。当初の約束通り、旧スクに身を包んだ紫は言うに及ばず、露出ではなく可愛らしさに重点を置いたワンピース水着を着こなしている縁もかなり魅力的だ。水着になっても変わらず着けている鍵型のネックレスが、良いアクセントになっている。
縁と、その後ろをテコテコ付いて歩く紫。その二人に向けて、静かに親指を立てた。
「今度ご両親のお墓参り行く時、俺も連れてってね。二人を産んでくれたことに感謝したいから。次いでにご挨拶したいから」
「その発言だけを見れば殊勝な事言っているように聞こえますけど、水着姿を見た第一声がそれだと思うと、気持ち悪さしか覚えません。そして、次いでに挨拶しないで下さい。私たちのお世話になっている事実を、まず第一に報告して下さい」
「はぁ……」と深々と溜息を吐く縁。なんだか、少し疲れ気味のようだ。何かあったのか若干気になるところだが、それはそれとして、折角だから聞いておきたいことがある。
「ちなみになんだけど、ご両親に挨拶する場合、『娘さんたちを僕にください!』と『縁さんと紫さんを僕にください!』のどっちが良いかな?」
「一体何の話ですか!?」
あ、元気になった。
「いや、真面目な話。『娘さんたち』って言うと、二人を一緒くたにしているみたいでなんか違うし、かと言って名前で言うと、呼ぶ順番に差ができちゃうからなんだか嫌だし……最近ちょっと、悩んでるんだよね」
「ちょーーーどうでもいい!! てか、どちらにしろ駄目ですよ!! なんで姉妹揃ってものにしようとしてるんですか!! 私たちのお父さん、怒髪天を衝くどころの騒ぎじゃないですよ!!」
顔を真っ赤にして縁が叫ぶ。なんだか、ちょっと元気になり過ぎたみたいだ。いくらツッコミ役とは言え、ここまで怒涛のツッコミを見せたことは、未だかつてない。
なるほど。つまりは、そういうことか。
「縁の照れ隠し、斬新」
「照れ隠し!? これがあなたには、照れ隠しに見えると!?」
縁が、驚愕の表情を浮かべる。
「和人君、私、思うのだけれど」
だがその横では、いつも通りの無表情の紫が、口元に手を当てて考え込んでいた。
「お姉ちゃんの名前を先に出すのは、別に自然なことだと思う。姉、妹の順番で呼ぶ。多分そこに、愛情の多寡は関係ないし、何よりお父さんも、昔よく、その順番で私たちを呼んでいたから」
「紫!?」
冷静な妹の態度に、縁が目を剥く。
「なるほど。じゃあ俺もお父さんに倣って、『縁、紫』の順番で言わせてもらおうかな」
「うん、それが良いと思う」
満足そうに頷き合う俺と紫。縁は、しばらくの間目を見開いていたが、やがて――
「はぁ……もう何でも良いです」
と肩を落としてしまった。元気になったり、気落ちしたり、どうも今日の縁は安定していない。生理だろうか?
「あの……」
その時だ。俺の気遣いを読み取り、キッと顔を上げた縁が何か言葉を発するよりも前に、ソフィアさんがおずおずといった様子で、会話に割り込んできたのだ。
「お楽しみ中のところ悪いんだけど、そろそろ入らない? いい加減暑くて……」
恐らく、夏の日差しに耐えられなくなったのだろう。いつの間にか、ソフィアさんが水着姿になっている。
ふむ。確かに、ソフィアさんの提案は尤もだ。
しかし残念なことに、まだ重要なことに着手出来ていない。そう――藤瀬姉妹の水着姿を詳細に描写出来ていないのだ。それをやらずして、次のシーンに進めるわけが――
「はい、無視。紫、入るよ」
「うん」
だが、現実は非情だ。俺への仕返しだとでも言わんばかりに、縁がサッと身を翻し、紫の手を引いてプールの中へと入って行ってしまう。
あぁ……水着が水に隠れていく……
「てか、よく考えたらそれおかしくない!?」
「いきなりね。一体何のこと?」
楽しい水遊びの時間も終わり、プールの片付けをしているソフィアさんを眺めながら、ついに抱えていた不満を爆発させる。
「なんでプールの色、ピンクだったの!? お陰で全然みんなの水着姿見えなかったよ!」
「プール専用の入浴剤。知らなかった? 今日入れたのはローズマリーの香り。とても良い匂いだったでしょ?」
「確かに良い匂いでしたけど……でもプールにそんなものは求めていません! プールはもっと赤裸々であるべきだ!」
「そんなこと言わないの。私の水着姿はたくさん見れたんだから、それで満足しなさい」
ウッ……確かに。今も水着姿のまま目の前で作業をしてくれる姿は、秒単位で目に新たなエネルギーを注いでくれている。
だが……同級生の水着姿というのは、それとは全く違う魅力があるのだ。ロシア人美女と同列に並べられる筈がない。なぜなら、同級生の水着姿には生きた記憶が宿るからだ。彼女たちとの触れ合いを通して得られた体験が、何とも言えない情趣となって、何の変哲もない少女の体躯に他に類を見ない輝きを与える。それは単なる見た目の美しさを完全に超越した、一つの芸術作品と言って良い。そう、例えるならば、実物に迫る程の正確さと質感、鮮やかさを持って描かれた初期のピカソ作品と、肉眼で見える事実に囚われず、その内面や背景、さらには三次元的、四次元的情報までをも表現しようとした後年のピカソ作品との違いと言ったら良いだろうか。どちらが優れているかではない。そのどちらも愛でてこそ、真の愛好家というものなのだ。つまり、俺が何を言いたいかと言うと――
「どうしたの? いきなりボーとして」
そこで、思考が中断される。いきなり黙り込んだ俺を不思議そうに見つめるソフィアさんの顔。そのあどけない表情に、何とも言えない新鮮さを感じる。
(そうだよ、普通は考えてる内容にツッコミは入らないものなんだよ)
一人静かに感動していると、何の反応を示さない俺に対して、徐々にソフィアさんの顔に訝しげな色が混ざりだす。
そうだ、ツッコまれない代わりに、こちらから反応を返さなければ。
「いえ、すいません。幸せ過ぎてちょっとフリーズしてました」
そう返すと、ソフィアさんが小さく笑う。
「そう? なら良いのだけれど。でも、本当に普通の男の子なのね。あんな目にあったのだから、普通とは違う何かがあると思っていたわ」
「あんな目?」
「祥子と呼ばれる霊のことはもちろん、先日の東京の一件も。報告だと、ベリアルだったと聞いているけれど?」
「えぇ、俺はそう聞いたのですが。ただ、縁達は信じていないみたいで」
「まぁそうでしょうね。あまり日本に馴染みのある悪魔ではないから。でも、君は本人だったと考えているのでしょう? 何か覚えていることがあるのではなくて?」
そう言われても……俺も正直よく分からないのだ。ISSAの男を助けたと思ったら、いきなり縁が倒れて……確かに何となく違和感があるのだが、それが何かはわからない。気のせい……そんな言葉で片付けてしまっても問題ないと思える程度のもの。
「……やっぱり、報告した以上のことは分かりません」
だから、結局そう答えた。ソフィアさんも、「そう……」と言うだけで、それ以上問い詰めてこようとはしない。
「そう。じゃあ、また何か思い出したら教えて頂戴ね」
ほんの数秒だけ俺を見つめたソフィアさんは、その言葉だけを残して、俺に背を向け作業を再開した。その背中は……何故だろうか? ついさっきまでは、ただただ魅力的だったのに、今は少しだけ……遠くに感じる。
「そういうのも、ISSA――あなたの仕事なんですか?」
だからなのだろうか。唐突に、そんなことを口走っていた。まるで、ソフィアさんを問い詰めようとしているみたいに。
ソフィアさんも、作業の手を止める。
「そうよ。あなたの心的ケアが私の仕事。患者さんの正確な状況把握は、治療には必要不可欠ですもの」
「治療……どうも自分にはそんなものが必要だとは思えないのですが……」
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」
突然、ソフィアさんがとある有名な哲学者の言葉を引用する。
「有名な言葉だから、聞いたことくらいはあるでしょう? 深淵をのぞき、それに呑まれた男の言葉だから、含蓄があるわ。君も気をつけることね」
それだけ言うと、ソフィアさんはにこりと微笑み、また作業に戻ってしまう。どうもその背中に再度話しかける勇気が湧かず、家に戻ろうと背を向けた。
「和人君」
しかし逆に、ソフィアさんに呼び止められる。
「もし家に戻るのなら、これを書斎に戻しておいて貰っても良いかしら? ちょっとお借りしていたの」
「……これは?」
「知らないの? 『パイプ』って言うのよ。シャーロックホームズがよく吸っているでしょ?」
それを聞いて、やっとイメージと実物が結びつく。あのタバコを吸うやつだ。
「でも、何でそれをソフィアさんが?」
正直、あまりタバコとソフィアさんは結びつかない。最近の若者特有の偏見なのかもしれないが。
「私の父がパイプ愛好家でね。少し懐かしくなってしまったの。形状も父のものとよく似ていたものだから」
あぁ、なるほど。お父さんね。それならイメージ通りだ。何だか、髭とか生やしてそうだ。
「わかりました。でも俺……書斎ってどこかわからないんですけど」
「二階の一番奥の部屋よ」
あそこか。チラッと覗いたことがあるが、本とかが一杯並んでいた気がする。
「そこの机の上にパイプケースがあるから。そこに入れておいて欲しいの」
「わかりました。それくらいなら、全然構いませんよ。プールの片付け、お願いしちゃっている訳ですし」
先程の気まずさも手伝ってか、お安い御用とそのパイプを受け取る。
「ありがとう。お願いするわ」
薄く微笑むソフィアさん。そんな笑顔に見送られ、一人、その場を後にした。
書斎の中は、少しだけ埃っぽかった。定期的に手入れはされているが、人の出入りはまったくない。そんな印象を与える部屋。
目的の机はすぐに見つかった。割に雑多な印象を受けるその部屋の中で、そのやや小さな机の周りには物が少ない。目につく物と言えば、机の端に丁寧に置かれた本くらいだろうか。だが、困ったことに、ソフィアさんの話に出てきたパイプケースなるものは、机の上にはないようだった。その代わりと言って良いのかなんなのか、一冊のノートが、開かれた状態で机の真ん中に置かれている。
何の気無しに、その中に記された文字に目を走らせる。どうやら、それは日記のようだった。
娘の誕生を喜ぶ、父親の言葉――
二〇〇七年九月十日――ありがとう
『ありがとう』
今日ほど、そう思った日はない。何気ない日常が如何に有り難く、尊いものなのか――それを実感している。頑張ってくれた妻にありがとう。生まれてきてくれた子供にありがとう。貴い生命を預けてくれた神に、心からの感謝を。
今朝方、ずっと悩んでいた子供の名前がやっと決まった。結局、マナ(君も知っての通り、僕の妹だ)には連絡がつかず、吉凶を占って貰うことは出来なかったが……ただ今の私には、これ以外の名前は考えられない。
『ゆかり』
それが、子供達の名前だ。昨晩、祭壇横に置き忘れてしまった古今和歌集を見て、閃いた。
『紫の ひともとゆゑに 武蔵野の 草はみながら あはれとぞ見る』
詠人知らずの一句だ。一本の紫草のおかげで、武蔵野に生えるすべての草を愛おしく思う。そんな心情を詠った句。私は子供たちに、この紫草のようになって欲しい。
自らを愛するように、周り全ての人のことも愛せる子供に育って欲しい。そして、そんな彼女たちの人生が、それを見たすべての人にとって、命の尊さを伝える縁となりますように――そんな願いを込めて、『ゆかり』という言葉を二人に贈る。お姉ちゃんには『縁』という漢字を、妹には『紫』という漢字を。
『えにし』『さき』――我が藤瀬家に、ようこそ。
「縁と……紫?」
そこに記されていた名前を見てようやく、この日記が二人の父親のものであることを悟る。そしてそんなものが、ここにあるということは……
縁からは、この家はISSAに用意して貰ったと聞いていた。だからてっきり、単なる借家なのだと思っていたが……実はこの家は、二人の生家だったのかもしれない。
再び、日記を読み始める。そこに記載されていたのは、藤瀬家の幸せな日常だった。
二〇〇八年十月四日――「ママ」記念日
今日、紫が初めて言葉を発した。その言葉は「ママ」。とても、嬉しかった。「パパ」じゃなかったことは少しだけ残念ではあるけれど、妻の喜ぶ姿がそんな感情をあっという間に打ち消してしまった。きっと縁ももうすぐだろう。その時が、楽しみだ。
二〇一〇年七月七日――家族で七夕祭り
毎年恒例の七夕祭り。例年、この神代神社では祭りを開催するため、娘たちと過ごすことが出来なかった。しかし何と! 今年は違った!
祭りの後片付けを終え家に帰ると、もう寝てしまっているはずの縁と紫が玄関前に立っているではないか。何かあったのかと心配になり、慌てて駆け寄ると、二人は私の手を引いて裏庭に連れて行く。
そこで見た光景を、私は一生忘れないだろう。天を衝くほどに成長した見事な竹と、その横に立つ妻の優しげな姿。唖然とする私に向かって短冊を差し出す縁と紫。そして、縁が言うのだ。『パパと一緒に飾る』と。紫も、縁に負けじと必死に手を突き出している。
嬉しくて涙が出そうになった。願わくは、この幸せがいつまでも続きますように。
二〇一二年九月十日――友達を招いて誕生日会
今年は幼稚園の友達を招いた、娘の初めての誕生日会だった。縁と紫は今日で五歳になる。彼女たちと出逢って五年。一日として神に感謝しなかった日はない。二人の幸福が僕の願いであり、二人の未来が僕の夢だ。こうして毎年少しずつ夢が現実になっていく様は、僕の心を少年の日に戻す。希望の未来にワクワクして夜も眠れなかった、あの青春の日々に……
二人の成長は、僕にとって最大のアンチエイジングだ。
二〇一三年四月六日――城北小学校への入学。
ついにこの日がやってきた。娘たちの晴れ姿。無事にこの日を迎えられたことを、朝一番で神に感謝する。きっとこれから彼女たちは様々な問題に直面するだろう。しかし私は信じている。どんな困難をも自らの糧とし、教訓として、より大きく成長していってくれることを。そしてそんな彼女たちの健気な努力を、常に神が見守ってくれていることを。
ぺらぺらとページを捲っていく。ほぼすべての日記に、縁と紫の両者、もしくは一方が登場していた。このことからも、二人がいかに両親に愛されていたのかがわかる。
とても心温まる、日常の記録。
しかしそんな感傷も、ある単語を目にした途端、綺麗に霧散してしまった。
心臓が大きく跳ねる。
『家族旅行』
そこには、そう書いてあった。
二〇一四年八月五日――家族旅行
今日は待ちに待った家族旅行の日だ。楽しみのあまり、年甲斐もなく昨晩は寝付けず、お陰で机周りをすっかり整頓してしまった。まぁそれも数日もすれば元に戻るのだろうが。
おっと。みんなが僕を呼ぶ声が聞こえる。一際大きく聞こえるのは縁の声だ。縁は車が大好きで、すぐに助手席に座りたがる。今日も助手席に座らせてあげよう。諏訪から箱根まで二時間半程度。箱根の山道も含めて、きっと最高のアトラクションになる筈だ。
さて、ではそろそろ私も行こう。続きは帰って来た後に……
君よ、旅行の土産話、楽しみに待っていてくれ。
そこで、日記は終わっていた。
家族旅行。以前、紫から聞いていた。両親が亡くなったのは、この旅行の最中だったと。
結局このノートは土産話を聞くことができず、永遠に来ないその時を、一人待ち続けているのだろう。
「…………?」
ふと妙な違和感を覚えて、顔を上げた。何かがおかしい。何か……思い違いをしているような……そんな気がする。
改めて、日記に書かれていた内容を反芻する。何かが記憶との間に齟齬を起こしている。それがなんなのか、何故か無性に気になった。
だから、自分の記憶の糸を辿りながら、日記をもう一度読み返して、そして……
「あぁ……なんで気付かなかったんだろう……」
そう、一人呟いた。
記憶と齟齬を起こしていたのは、最後の日記――家族旅行について書かれた一文だった。
そこには、こう記されているのだ。
『縁は車が大好きで、すぐに助手席に座りたがる。今日も助手席に座らせてあげよう』
これだけ読めば、何の違和感もない普通の文章だ。縁のはしゃぐ姿が目に浮かぶ。
しかし、以前紫からこう聞かされていた。
『小学生の時に自動車事故で。家族旅行で箱根に行く途中だったの。助かったのは、私一人』
そう――紫の話によれば、助かったのは彼女一人だった筈なのだ。車に乗っていた他の家族は、一人残らず助からなかった。そして、その犠牲になった家族の中には当然……助手席に座っていた人間も含まれる。
(つまり……)
恐ろしい可能性が、頭をよぎる。
思えば、縁は日本支部の人と一切会話をしなかった。すべての対応を紫に任せ、支部長とすら話をしていなかった。
(つまり……つまり……)
思えば、縁は言っていた。紫は現象世界で、自分は精神世界で実力を見出されたと。でも普通に考えて、肉を纏った人間が精神世界の方に適正があるなんてこと、本当にあり得るのだろうか?
一度思い至ると、もう頭から離れない。圧倒的な説得力を伴って、俺の頭を支配していく。
(そういうことなのか? 縁……)
否定の言葉はどこを探しても見当たらなかった。だから、ただ頭を抱えて立ち竦む。
(おまえはもう…………十年も前に、死んでいたのか?)
「プルルル……プルルル……プルルル」
その時だ。突然背後から電話のコール音が聞こえて、顔を上げた。
「縁……」
振り返ると、そこには耳元にスマホを当てる仕草をした縁が立っていた。コール音は彼女の口から発せられたものだ。そして彼女は、スマホに出るよう身振りで示す。
俺は耳元に手を当てた。
「私……縁。今、あなたの前にいるの」
いつもの明るい顔の縁はそこにはない。まるで紫のように、でももっとずっと無機質に、そこに立っている。
「何の……冗談だ?」
声が震える。俺を支えてくれた縁。一緒に冗談を言い合った縁。いつの間にか隣にいるのが当然になっていた縁が、今はまったく知らない人のように思える。
縁の言葉は続く。
「私……縁。今、あなたの――――」
目の前の縁が、霧のように一瞬で消え失せた。
「――後ろにいるの」
首筋に、後ろから冷たい何かが押し付けられる。
「つ・か・ま・え・た」
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