2023年:蜃気楼のような女の子 第四章

 移動には、諏訪支部から車を出してもらうことになった。車の手配やらなんやらを、藤瀬さんと諏訪支部の人がしている間、俺と縁は、神社に繋がる階段の上で時間を潰す。

「そういえば、二人ってここに来るまではニューヨークにいたんだよね。何をしてたの?」

 さっきはISSAのことを聞いていたせいで有耶無耶になってしまったが、実はかなり気になっていた。まさか、ニューヨークで学生をしていたわけでもあるまい。

「そうですね。私たちが学校に通うのは、ここが初めてです。ニューヨークでは、主に悪魔退治の仕事をしてました。悪魔を祓える人が、ニューヨークには他にいませんでしたので」

「え?」

 その言葉に疑問を覚える。

「エクソシストって、悪魔祓いをするものじゃないの?」

 だが、縁は首を振った。

「残念ながら、〝悪霊〟祓いのレベルがほとんどです。悪魔は悪霊とは段違いに霊力が強くてしかも狡猾なので、大抵のエクソシストは返り討ちにあっちゃうんですよ。よく映画でもあるでしょう? 悪魔にエクソシストが負けるシーンって」

 確かに……

「だから、悪魔退治が出来るエクソシストは希少なんです。私たちがこっちに来るときも、結構ごねられて大変でした」

「ごねられたって、後任がいなかったから?」

「もちろん、それもありますけどね。ただ一番は、祥子退治には私たちは過分だっていう意見です。祥子はだいぶ強力にはなっていますが、それでも悪霊の域は出ていませんからね」

「あぁ……不成仏霊って言ってたもんね。でも……じゃあなんで、この任務を?」

「う~ん、それは……」

 少しだけ、縁が考える素振りを見せる。が、すぐに曖昧な笑みを浮かべて、こう答えた。

「紫に、高校生活を経験させてあげたかったからです」

「へ? 高校生活?」

 考えもしなかった答えに、『なんでわざわざそんなことを?』と一瞬思ったが、二人の境遇を思い出して納得がいく。縁も「そういうことです」と頷いた。

「紫から聞いていると思いますけど、私たちは自動車事故で両親を失ったんです。そしてISSAに引き取られました。もう十年くらい前のことです。それからの生活は、訓練と実戦の連続でした。紫は現象世界で、私は精神世界で、それぞれエクソシストとしての資質を見出され、ずっと戦い続けてきました。残念ながら、そこに普通の日常はありませんでした」

 続けて縁は「だから」と微笑む。

「せめて、仕事の合間でも、紫に学校生活ってものを一度は経験して貰いたかったんです。青春……って言うんですかね。凄い大事なものだって、本で読んだものですから」

「それで高校に……」

 教室での藤瀬さんの姿を思い出す。正直、あまり青春を満喫出来ているとは思えないが。

 考えを読んだのか、縁も僅かに苦笑した。

「みたいですね。ずっと友達なんかいなかったから、どうすれば良いかわからないんですよ。だから……出来れば和人君には、紫の友達になって欲しいんです」

 それは、唐突なお願いだった。驚いて縁を見ると、「駄目ですかね?」と、不安げな視線を俺に向けている。その様子は、いつになく真剣そのもので……単なる思い付きで言った言葉ではないことは、すぐに分かった。

 でもだからこそ……面食らう。あまりにも、彼女の表情が切実だったから。

 確かに偶然とは言え、俺たちは一つ屋根の下で暮らすことになった。それでも、俺は男子なのだ。しかも、自分で言うのもなんだが、あまり清廉潔白とは言い難い発言を繰り返している。妹想いであればあるほど、縁は俺を警戒しても不思議ではないはずだ。

「本当に自分で言うことではありませんね」

 呆れ顔の縁。でも、すぐにその顔は、はにかんだ笑みへと変化する。

「でも……うん、そういうことじゃないんです。私はもっと前から、和人君に紫の友達になって欲しいって、そう思っていたんですから」

「え? どういうこと?」

 その言葉に意表を突かれる。そもそも、縁と初めて会ったのはつい先日なのだ。『もっと前から』という言葉が使えるほど、その付き合いは長くない。

「実は違うんですよ」

 しかし、縁は首を振った。

「私は以前から、あなたのことを見ていたんです。紫に何度も話しかけてくれる、あなたのことを」

 そう言って、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「きっとあなたは気付かなかったでしょうが、私実は、何度も学校に行ったことがあるんです。紫がちゃんと高校生活を送れているのか、やっぱり心配でしたから。そしたら、紫はやっぱり孤立していて……何とかしてあげたかったですけど、部外者の私にはどうすることもできなくて……そんな時です。あなたを初めて見たのは。あなたは何度無視されても、来る日も来る日も紫に話しかけてくれました」

 その時のことを思い出すように、縁はそっと目を瞑る。

「本当に嬉しかった。あの学校に、紫を一人入学させて良かったのか……そんな後悔で一杯になっていましたから。そんな時、あなたが紫の前に現れて……私にとって、あなたは希望の光でした。『おまえは間違ってない』って、そんなことを囁いてくれているみたいでした。なにより……紫が家で、学校のことを話してくれるようになったんです。今日は和人君にこんなことを言われたって……楽しそうな笑みを浮かべて」

 しみじみとした様子でそう締めくくった縁は、ドキリとするほど可愛らしい笑みを浮かべて、上目遣いで俺を見る。

 少しだけ上気した頬と、潤んだ瞳。不覚にも、顔を背けてしまった。

「でも……全然そんな素振りなかったよ?」

 照れ隠しで、思わず口を突いて出た言葉だったが、本心からの疑問でもあった。俺のことを嬉しそうに話すようになったと言うが、正直、無視をされ続けた記憶しかないのだ。

「それは……仕方ないんです。同年代の友達なんていなかったから、友人との接し方はわからないし。何より紫は、親しい人は作らないようにしてましたから」

「? どうして?」

 青春を満喫するために学校に入学して、それで親しい人を作らないとは、随分矛盾している。

「私の思惑と、紫の考えは違うってことです」

 寂しそうに、縁は微笑む。

「紫はこれまで、親しい人を沢山亡くしてきました。最初は家族、次には仲間。そのせいで、誰かと仲良くしても意味なんてないって、心のどこかでそんなことを考えているのかもしれません。だから……」

 そして戻る。最初の言葉に。

「紫と……友達になってくれませんか?」

 改めて縁が口にした、その言葉。

 同じ言葉ではあったが、その内に潜む想いを知った今、意味合いはまったく異なっていた。

自分だって学校に通ったことはほとんど無い筈なのに……妹のためになんとかその機会を捻出し、彼女が楽しい日々を送れるように苦心する。そんな縁の切実な願いに応えない選択肢なんて、ある筈がない。

「了解。こちらこそ、友達として宜しく」

 だから、迷いなくそう答えて……その直後、縁の顔に花が咲いた。

パッと輝いたその笑みは、今まで見たどんな笑顔よりも光っていて……縁が妹を想う気持ちが、すべてそこに集約されているような気がした。

「ところで」

 でも、縁は縁だ。紫と違ってクルクルと変わるその表情は、今この瞬間でも同様で、何か悪戯でも思いついたような笑みが、早くもその顔には張り付いている。

「呼び方、変えてみましょうか」

「え? 呼び方?」

「そうです。友達なんですから、いつまでも『藤瀬さん』じゃあんまりです。私に対してみたいに、名前で呼んであげてください」

 名前……つまり『紫』か。簡単そうで、結構高いハードルがきた。縁みたいに最初からならまだ良いが、ずっと『苗字さん付け』で呼んでいた女子をいきなり『名前呼び捨て』にするのは、かなりの勇気を有するイベントだ。内気な男子であれば、清水の舞台から飛び降りるくらいの覚悟が必要だろう。

「実際に清水の舞台から飛び降りた人の生存率って、八十パーセントくらいあったらしいですよ? 大した覚悟は必要ありませんね」

 早速、縁が茶々を入れてくる。

「確かに意外な生存率の高さに驚きはしたけど、縁が求める覚悟への要求レベルの高さにはもっと驚いたよ。え? 死亡率二十パーセントでも、まだ満足出来ないの?」

「エクソシストの平均死亡率、教えてあげましょうか?」

 すると、笑顔の縁がそんな風に返してきた。普通に怖い。

「……分かりました。本人が嫌がらない限り、ふじ……紫のことは『さき』って呼ぶようにします」

「よろしい」

 満足げに頷く縁。だが、不意に遠い目をしたかと思うと、紫がいるだろう社務所の方へと視線を向けた。そして……

「でもまぁ……呼び方変えても、十中八九、気が付かないでしょうけどね……」

「…………え?」


 諸々の調整を済ませた紫がやってきたのは、それから約十分後のことだった。

「車はもう下に回して貰ったから。それで事件現場に行こう」

 開口一番、紫がそう言って階段の下を指さす。百段近くある石段の下で、確かに黒いセダンが待機しているのが見えた。

「そっか。じゃあ早いとこ行きましょうか」

 紫の話を聞いた縁がそう言って、これ見よがしに俺の脇腹を突いてくる。

「……分かったよ」

 呼び方の件で、早速急かしてきたのだろう。縁にしか聞こえないくらいの声量で答えると、深呼吸を一つ。紫に向き直り、口を開く。

「じゃ……じゃあ紫。早速、ホテル行こうか」

「おい、なんでちょっと卑猥な言い方をする」

 失敗した。緊張しすぎて、言葉のチョイスを間違えた。縁の言う通り、今のじゃただの援交おじさんだ。

「うん? うん。分かった」

 しかし紫は、そんなことを気に留めた風もなく、むしろ俺と縁のやり取りを不思議そうな顔で見つめて、階段を下って行ってしまった。勿論、名前呼びにもノーコメントだ。

「マジで気付かなかった……」

 遠ざかっていく紫の背中を見ながら、呆然と呟く。

「大丈夫。まずは友達からですよ。これからがんばりましょう」

 すると縁が、俺の背中をパンっと叩き、紫の後に続く。何故か俺が『告白に失敗した』みたいな雰囲気だけを残して。


 俺たちが住まわせてもらっている神代(かみしろ)神社から、車で十五分程度。諏訪インターへ行くには必ず通ることになる慣れた道を、車は進んでいた。

 見知った光景が続いている。でもその光景の中には、チラホラと奇妙な影も見え隠れしていた。最初は、単なる光の悪戯だろうと気にも留めていなかったが……次第に、その影の形がはっきりしてくるにつれ、もはやそれが、気のせいではないことが嫌でも分かってしまう。

「……なんだ? あれは」

 信号待ちのため、止まった交差点。そこで遂に堪えきれなくなり、そんな言葉が口から飛び出した。視界の先に、一人の女性が立っていたのだ。

 言うまでもなく、普通ではない。

 まず、身体中から黒い靄のようなものが立ち込めている。そして、その表情は壮絶。親の仇でも見つけたかのような凄まじい形相で、道行く人を睨みつけていた。

「あぁ……あれが見えますか。大分、今の状態にも慣れてきたみたいですね」

 俺の声が聞こえたのだろう。縁が不意にそう呟いて、佇む女性を指でさす。

「あれは、地縛霊と言います。きっと事故か何かであそこで亡くなったんでしょう。この世への執着が強すぎて、おまけに死後の世界を信じていなかったから、自分が死んだことにも気付くことが出来なくて……あの場所に止まり続けているんです」

 その時、信号が青に変わって車が動き出した。俺は、後ろへと流れていくその人影を改めて見つめる。

「害はあるのか?」

「あります」

 縁は即答する。

「同じような執着を持つ者、近い波長の人間を見つけては取り憑いて障(さわり)を起こします。流石に殺されることは滅多にありませんが、それでも精神と肉体に不調を来します」

「それは……エクソシストで何とかできないの? それが役目なんでしょ?」

 俺の言葉に、縁は悲しそうに首を振った。

「本当はそうなんですが……イタチごっこなんですよ。一体を処理する間に三体は新しく生まれてくる。供給源を断たないとキリが無いんです。そのためには、みんなが死後も悪霊にならないよう、生きている間に対処しなきゃいけないんですが……残念ながら、それだけの力と影響力を我々は持ちません。それでも、本当に悪質なものは排除しなければいけない」

「それが、縁たちの仕事か……」

「えぇ。それでも……実際のところ手が回りません。エクソシストは数が少ないんです、特にこの国では顕著に。この国の大多数の人にとって、ここは妄想か盲信の世界に過ぎませんから。特殊な事情が無い限り、こちらの世界に踏み込んでくることはありません。少なくとも、生きている間は」

 確かにそうだ。俺にとっても、つい最近まで、そんなものは怪しげなオカルトの世界か、精々ファンタジーの世界に過ぎなかった。自分がいざ放り込まれなければ、馬鹿にして相手にもしなかっただろう。

 何ともやり切れない思いを抱えたまま、窓から視線を外して前を見る。すると、古びた歩道橋が目に飛び込んできた。所々錆びつき、防錆塗料も剥がれ落ちているのがわかる。

 そんな歩道橋の上に、一人の男が立っていた。それだけなら、気にすることはなかっただろう。だが、その男が立っている場所が問題だった。なんとその男はフェンスを乗り越えて、片足を宙に浮かせた状態で立っていたのだ。

 そして、次の瞬間――

 声を出す間もなかった。車が激しく行き交う道路の上にその男が落ちていく。その姿は、あっという間にたくさんの車に埋もれて、見えなくなってしまった。

「縁! 今、人が落ちた! 助けないと!」

 慌てて叫ぶ。人が落ちたのに、どの車も止まる様子がない。例え落下の衝撃では助かっても、あんなに車に轢かれてしまったら、それが致命傷になるだろう。

「落ち着いてください。あれも霊です」

 しかし、縁の冷静な声が、焦る俺を我に帰らせた。

「……アレが? 全然区別が付かなかった……」

「そのうち、わかるようになりますよ」

「アレは……何をしていたんだ? 落ちたように見えたけど」

「自殺しているんですよ」

「自殺? もう死んでるのに?」

「えぇ、本人に死んだ自覚がないので。死んだら終わりだと思って飛び降りても、魂は残るので意識は消えないんです。だから自殺に失敗したんだと思って、ああやって死に続けているんです。多いですよ、ああいう人。人は自分の見たいようにしか、世界を見ませんから」

 あまりのことに怖気が走る。死んでもそれに気付かず、死に続ける。そんな苦しみがあるだろうか。彼らは楽になりたくて自殺したはずなのに……

「……慣れてください」

 俺の様子を見て、縁が冷たい声で言い放った。

「和人君がこれから過ごす世界はこういう世界です。あまり悪い霊に囚われ過ぎると、そちらに引っ張られますよ」

 それだけ言うと、また縁の顔が優しげなものに戻る。

「耐えてください。私たちは万能ではありません。助けられる命には限りがあります。だったら、より多くの救済に繋がる命を助けるべきです。それに――」

 縁の指が近付いてきて、俺の額の前で止まる。

「和人君が心配するのは自分のことですよ。あなたは目下のところ、この辺りで一番危険な霊に目をつけられてるんですからね」

 そして、小さい指から綺麗なデコピンが額に放たれる。

 ペシッ

 随分と可愛らしい音が骨を伝い、俺の心を揺さぶった。


 ラブホテルは一応開業しているようだったが、分かりやすく閑古鳥が鳴いていた。平日の昼間ということも関係しているのかもしれないが、二か月前の殺人事件も少なからず尾を引いているのだろう。

「運転手さん、ありがとうございました」

 ここまで運んでくれた運転手に一礼して、ラブホテルへと向かう。

 ちなみに、運転手からの返事は期待していない。この運転手が過度な人見知りなのか、あるいは職務規定なのかは知らないが、俺が何を話しかけても口を真一文字に結んだまま、一言も発しようとはしないのだ。仕事の依頼者である紫とは多少言葉を交わすものの、それも最低限。まさに、映画に出てくる『黒服』そのものと言った感じで、最終的に縁と苦笑を交換して、もう話しかけるのは止めてしまった。

 それでも、最後にお礼くらいは言う。日本人としての最低限の礼儀だ。心なしか、運転手も少しだけ頭を下げてくれたような気がした。

 ラブホテルに入るのはこれが初めてだったが、戸惑うことはなかった。幸い、このホテルは入室するのに従業員と顔を合わせる必要がない。今日は制服を脱いでいるから咎められることはないだろうが、それでも無用なリスクを冒さなくて良いのは有難い。

「さてと……行きましょうか」

 事故現場の四〇四号室。何のアクシデントにも見舞われずそこまで辿り着いた俺たちは、そんな縁の掛け声と共に、部屋に足を踏み入れた。

 まず、紫が先行する。躊躇なく扉を開き、スッと中へと入っていく。その後に、俺。縁に視線で促され、恐る恐る紫の後に続く。

「……普通だね」

 それが、入室した時の第一印象だった。まぁ当然と言えば当然なのだが、殺人事件があったことを思わせるようなものは何もなく、三人でも寝れるんじゃないかと思えるくらいのキングベッドを除けば、取り立てて珍しいものはない。こんなところに、本当に祥子の残滓が残っているのか、思わず首を傾げたくなった。

「ありますね」

 だが、縁の見解は違う。注意深く部屋の中を見渡して、とある一点に視線を定めた。

「巧妙に隠していますが、心象領域が作られてます」

 紫が首を傾げる。

「なら、殺された人はそこにいる?」

「多分ね」

 その後は、二人で何やら専門的な話を始めてしまう。残念ながら、一般人である俺はその内容についていけなかったため、早々に理解することは諦めて、部屋の探索を始めることにした。何と言っても、今回はラブホテルの部屋の内装を知る絶好の機会。これを逃すのは、あまりに短慮が過ぎるというものだ。

「そこ。人が真面目な話をしているときに、コンドームで水風船を作るのは止めてください」

 だが、すぐに邪魔が入った。とあるアニメで知った『コンドームは水筒代わりになる』という蘊蓄を試していただけなのだが……どうやら縁の目には、それが遊んでいるように映ってしまったらしい。

「どう考えても遊んでるでしょ……しかもそれ、封破ったらお金かかりますからね。つまり、経費から落ちるんですからね。てことはそれ、税金ですからね」

 畳みかけるような縁の言葉。そして、衝撃の事実。

「税金!? え!? ISSAの活動費って国費なの!?」

「国連の下部組織だって言ったじゃないですか。だから当然、その費用は国連の通常予算から出てるんです。その予算は加盟国の税金で成り立ってますから、元は当然国費です」

「そう……だったのか」

 一庶民として、俺も税金の無駄使いには憤りを覚える側の人間だ。まさか図らずも、自分がその無駄使いに加担してしまうとは……なんという不覚。せめてもの償いに、このコンドームは必ずみんなが納得する形で使用することを、この場を借りてお約束しよう。

「てことで、縁。ちょっと今から協力してもらっ――」

「死んでください」

 最後まで、喋らせても貰えなかった。一言で切って捨てられる。悲しい。

 だが、捨てる神の傍らには、拾う神ありだ。先程から興味深げな顔でこちらを眺めていた紫が、おもむろに切り出す。

「なんの協力か分からないけど、もし良かったら、私が協力しようか?」

「!?!?」

 首がねじ切れる勢いで紫を見る。穢れを知らない、純粋無垢な顔がそこにはあった。

「紫、あなたは黙ってなさい」

 しかし、そうは問屋がおろさない。穏やかではあるものの、確かな怒りを感じさせる縁の声が部屋に響き。紫だけでなく俺も、そのまま押し黙った。

「和人君」

 そして、死刑宣告。

畳の上で死ねないまでも、せめて、ラブホテル以外の場所で死にたかった。

「……はぁ」

 だが幸いなことに、恐れていた展開にはならなかった。深々と溜息をついた縁が、腰に手を当てて言う。

「紫は、純粋なんです。すれてないんです。だから、影響受けやすいんです。私が言いたいこと、分かりますか?」

「はい、分かります」

 即答する。往々にして無謀な選択肢を選びがちな俺だが、即デッドエンドに繋がるルート分岐で、自重するくらいの分別は持ち合わせている。これでも、嗅覚には自信がある方だ。

「はぁ……一度、耳鼻科に行った方が良いですよ?」

 改めて深々と溜息をついた縁は、やれやれと首を振って、この話題を終わりにした。俺も、水を抜いたコンドームをそっとポケットに忍ばせると、神妙な顔で縁に向き直る。

「……」

 一瞬、縁の視線が突き刺さった気がしたが、それ以上のツッコミはなかった。先ほどまで紫と話していた内容について、説明してくれる。

「ここには、現象世界と重なる形で、祥子が作り出した心象領域が展開しているんです。しかも、まだ作られて日が浅いため、比較的その解析が容易です。少し時間はかかりますが、問題なく侵入できるでしょうし、何より、他に存在する心象領域にもアクセスしやすくなるかもしれません」

「ふむふむ」

 なるほど。祥子の残滓を探すってのは、そういうことか。ようやく、今回の目的が見えてきた気がする。

 つまり、縁たちを警戒して隠れた祥子を炙り出すために、今度はこちらから、率先して陣地に侵入して破壊していこうということだ。そして、比較的容易に解析できるこの心象領域が、そのための足掛かりになると。

「そういうことです」

 満足そうに頷く縁。

「では、私は今から解析に入るので、少し――そうですね、三十分くらい待っていてください。もしその間に何かあったなら、紫経由で私に連絡を」

 その言葉だけを残すと、縁は近くのソファに腰掛けて、もうそれっきり動かなくなってしまった。

「解析中?」

 その横顔を眺めながら紫に尋ねると、「そう」という短い返事が返ってくる。

 ふむ。唐突に時間が出来てしまったが……その間、何をしてようか? 本当なら、さっきの探索の続きでもしたい気持ちもあるけれど、紫に変な影響を与えるなと言われた矢先、迂闊なことは出来ない。

 仕方ない。ここは大人しく、天井のシミでも数えて、時間を潰すことにしよう。


「えぇっと……今、どういう状況ですか」

 だいたい三十分後。目を開けた縁が、開口一番、そんなことを尋ねてきた。

「うん? 戦国乱世ごっこだけど」

 広々としたベッドをフィールドとした、手加減無用の領地の奪い合い。それも、既に佳境に入っていた。あと一押しで、紫をベッドの外に押し出すことが可能になる。

「気のせいですかね? 私には、寝ながらスマホを弄っている紫に、果敢にぐるぐると体当たりをし続ける、頭のイカれた男子高校生が見えているだけなんですが」

「おおむね、その理解で間違いはないね。いくつかの歪んだ主観的表現に、目を瞑ることさえできれば」

「あ……そうですか。おかしくなったのは私じゃなくて、世界の方でしたか……」

「え? 何それカッコいい。誰の言葉?」

「仕事を無事に果たして目を開けたら、可愛い妹が庇護対象の男の子にベッドの上で乱暴されているシーンを目撃してしまった、哀れなお姉さんの言葉です」

「許せないね。一人だけ仲間外れなんて」

「いえ、哀れな理由は決してそこじゃありません」

 そこで、哀れなお姉さんは「はぁ……」と溜息をつく。きっとこのお姉さん、今日一日で一年分の溜息を消費している。

「紫も、少しは抵抗しなさいよ」

 そんなお姉さんの呼びかけに、しかし肝心の妹は答えない。代わりに状況を説明した。

「世界中の猫の写真があがっているブログを教えてあげたら、それっきり動かなくなっちゃって。もうかれこれ二十分は、目と指以外の活動は観測されてないね」

「あぁ……それで、ちょっかいをかけてたと」

「そう。何かしらの反応を返してもらいたいけど、あまりセンシティブなことをすると関係各所に怒られる気がしたから、許されるギリギリのラインを攻めてみることにしたんだ」

「む……そう言われてみると確かに、あまりエロティックな感じはしませんでしたね」

 縁が難しい顔をする。当然だ。これは言わば〝おしくらまんじゅう〟。おしくらまんじゅうに性的興奮を覚えるのは、心が汚れてきた証拠だ。

「まぁそういうことなら、良いでしょう。この件は、不問にすることにします」

 お許しが出る。策士、策に溺れなかった瞬間だった。

 密かな達成感に浸っていると、縁がトコトコと歩いて来て、紫が持っていたスマホを奪い取る。

「あ!!」

 紫が、聞いたことのないくらい大きな声をあげた。

「お姉ちゃん! 酷い!!」

「休憩終わり。もう仕事に戻るよ」

 にべもなくそう言われ、紫がぷくっと頬を膨らませる。心底恨めしそうに縁を見つめる紫というのも、中々に珍しい構図だ。

「……?」

 だが、それも一瞬だった。幼い子供のような拗ねた表情が、瞬きした直後には変化している。鋭く、細められた目。サッとドアの方を一瞥すると、再び、姉に視線を戻す。

「お姉ちゃん」

「うん。私も感じた」

 言葉はそれだけ。何かを伝えるように頷き合うと、スッと紫は立ち上がり、縁は俺の手を取る。

「え? どういう――」

 口にできたのは、そこまでだった。唐突にドアが外側から開かれて、ベッドに座ったままの姿勢で呆然とそちらを見やる。ナイフを持った男が数人、視界に入ってきた。

「何? どういうこと?」

 混乱して固まる俺を、縁が引っ張り上げる。

「分かりませんが、死霊による奇襲です。信じられませんが、ここで解析していたことが、敵にバレました」

 その言葉と同時に、男が部屋に雪崩れ込んでくる。あっという間にナイフを持つ手が、紫のお腹を目掛けて飛び込んできた。

「紫!!」

 それでも、叫ぶことしか出来ない。体は動かないし、何より距離がある。とても、何とか出来る間合いではない。

「大丈夫」

 だが、その声は聞こえた。まるで、未来を予見したかのように……あるいは、未来を手繰り寄せたかのように。その言葉は空気を震わし、その直後、紫にナイフを向けた男が、呆気なく地面に倒れ伏した。いや……紫によって、投げ倒された。そのすぐ脇に立つ紫の身体には、当然のように、傷一つない。

「……すごい」

 一瞬のうちに男を無力化したその姿に、自然と口からついて出る感嘆文。

それくらい、目の前の光景に感嘆し――

 ごしゅ!!

 次の瞬間、我が目を疑った。

 聞こえてきたのは、聞き慣れない低音。その音を作り出した光景は、理解を超えた非現実。

 当たり前だ。それは、人体が破壊された音なのだから。目の前に広がるのは、首から噴出する赤い噴水なのだから。

 信じられないことに、無抵抗な男の首を――紫が目の前で掻き切ったのだ。

「……なん……で?」

 あまりのことに、瞬きもできない。その間に俺は、縁に引っ張られて部屋の隅へと移動させられていた。そしてその間に残り三人の男も、最初の男とまったく同じ運命を辿っている。

「殺す必要なんて……なかっただろう?」

 四人分の血液を浴びて、全身を真っ赤に染めた紫が、何かを払うように手を横に振る。いつの間にかその手には、武骨な一本の日本刀が握られていた。

「必要だったんです。彼らは、死霊ですから」

 振り返る。俺の手を握ったまま、縁が真っ直ぐ見つめていた。

「死霊とは、無理やり悪霊を憑依させることで、術者の傀儡に仕立て上げられた生者のなれの果てです。こうなったら最後、大脳皮質からの運動信号を遮断する以外に、止める方法はありません。つまり、最も効果的な方法は首を切断することです」

「それにしたって……」

 説明を聞いても、そう簡単に動揺は抑えられない。それくらい、目の前の光景は衝撃的だった。

「なんでも良いけど、急いで。早くしないと、心象領域を閉じられる」

 だが、ゆっくりと咀嚼している時間はないようだった。紫がそう口にした直後、第二陣が現れる。しかも今度は、銃器を所持していた。同時に三つの銃口が、紫に向けられる。

「和人君、行きますよ」

 そして、再度引っ張られる感覚。縁に手を引かれ、しかし体が動く代わりに、周囲の景色がぼやけていく。まるで霞がかかるように、急激に目の前の現実感が薄れて行って……

 紫が、放たれた銃弾を日本刀で弾いた瞬間――世界は、一変した。


「ここは……」

 辺りを見渡す。パッと見は、同じラブホテルの一室のようにも見えたが、まるで何年も放置された後のように、ありとあらゆる家具が傷んでいた。紫や、襲ってきた男たちの姿は、どこにもない。

「ここが、心象領域の中です」

 それでも、縁だけは変わらずそこにいた。手から伝わる縁の体温に、思わず安堵する。

「聞きたいことが沢山あると思いますが、時間がないので、一気に説明します。まず、紫は大丈夫です。紫には現実世界に残って、襲撃者の相手を継続して貰っています。彼女は、対人戦闘のエキスパート。グリーンベレーでも相手にしない限り、まず負けることはありませんから、安心してください」

 確信のこもった言葉。グリーンベレーというのが何なのかよく分からなかったが、恐らく強い人間の代名詞なのだろう。

「次に、ここの説明です。ここは、祥子の心象領域。彼女が殺した魂を封じた牢獄です。私たちのするべきことは、当初の予定通り、この領域を破壊すること。そうすれば、陣地を失った祥子はその分弱体化し、心理的圧力をかけることにも繋がります」

 それは、事前に説明を受けていた内容だった。どれも初めて聞く話ではない。心構えは、既に出来ている。いや……出来ていると思っていた。でも……

 躊躇なく人体を破壊していた紫の姿が、それを当然の如く眺めていた縁の姿が、脳裏に焼き付いて離れない。

「怖いですか?」

 だから、その言葉はきっと、俺の内心を的確に表していた。

 全てを見通そうとするかのような、そんな鋭い眼差しで縁が口にした、その言葉――

『怖いですか?』

(あぁそうか……俺は、怖かったのか)

 漠然としていた心の揺らぎに、一つの名前が与えられる。

 『恐怖』――では、一体なぜ? 

 言うまでもない。思っていた以上に、彼女たちが遠い存在であることを思い知ったからだ。自分を助け、今も寄り添ってくれている女の子が、異なる世界の住人であることを思い知らされたからだ。だからこそ、それを事実として受け入れざるをえないことに、名状しがたい恐怖を感じた。

 でも……この恐怖は忌避ではない。断じて、嫌忌ではない。俺は、見ず知らずの敵が死んだことに心を痛めるような、そんな殊勝な心の持ち主ではない。つまり……

 小さく息をつく。自分の恐怖の理由を知って、安堵していることを自覚する。

 その上で、縁の問いかけに、静かに答えた。

「怖いよ。でもだからこそ、教えて欲しい。俺を助けてくれた二人が、生きてきた世界を」

 俺は知った。目に見えている世界だけが、世界の全てではないことを。見たこともない未知の世界で、既知の世界で生きる人たちを守るために、戦っている少女がいることを。

 そしてその二人の少女は……血なまぐさい闘争とは似つかわしくない、可愛らしく優しい女の子であることを。

 だから、立ちたいと思った。彼女たちと同じ世界に。

 寄り添いたいと思った。彼女たちの隣に。

 故に、思う。願わくは……彼女たちの力になりたい。

「……」

 この想いは、きっと口に出すまでもなく、縁に届いたのだろう。唖然とした顔をして、じっと俺の顔を見つめる姿を見て、そのことを確信し、同時に少し、気恥ずかしくなる。

 あまりにも、青臭い想いだった。情熱的過ぎる告白だった。もし友人たちに聞かれようものなら、『知り合ったばかりの女の子に熱を上げ過ぎだ』と、揶揄われるのは間違いない。

 場合によっては、『キモい』と称する女友達もいるかもしれない。

「……驚きました」

 でも縁は、そうは言わなかった。その大きな目を驚きで見開いて、

「普通はこんな世界に関わりたいなんて思いません。『霊なんて、自分とは関係ない』って目を逸らし続けようとする。それなのに、あなたは……」

 言葉が、小さく萎んでいく。同時に、その頬には朱色が混じる。嬉しそうに顔が綻んで、でもすぐに、思い出したように変化する。

「それは、興味ですか? 同情ですか? それとも、下心ですか?」

 結局、そこに浮かんだのは悪戯っぽいニヤニヤ笑い。だから俺も、そんな彼女の言葉に乗って――

「さぁ? そんな記号化に意味はないと思うけど。でも敢えて言うなら、〝本心 〟かな」

 分かりやすく、煙に巻く。

「言葉遊びですね」

 縁も可笑しそうに体を揺すると、俺を残して二歩三歩とステップを踏み、部屋の中央で振り返る。

「じゃあ、見ていてください。特等席で、私たちのことを」

 彼女が浮かべた微笑みは、嬉しそうに輝いていて……

 まるで、暗く淀んだこの場所を輝かせる一等星のようだと――

そう思った。


 部屋の外に出ると、もうそこはホテルではなかった。

 まるで、中世ヨーロッパに建設された城のような雰囲気。石造りの廊下が続き、所々に設けられた窓からは、月明かりが差し込んでいる。ここは、インターの近くだから車の行き来が激しい場所なのだが……車の音が聞こえるどころの話ではない。外は一面、鬱蒼とした森に様変わりしていた。

「……奇妙ですね」

 初めて見る景色を珍しがっていると、難しい顔をした縁がポツリと呟く。

「心象領域の雰囲気が変わり過ぎです。しかもこの感じ……明らかに日本じゃない。日本どころか、同時代ですらない」

 言いながら、何かを確かめるように、廊下に置かれた石像にペタッと触れた。

「……やっぱり。祥子の波長にノイズが混じってる。どうやらこの領域には……別の何かが干渉しているみたいです」

「別の……何か?」

 それは、思いがけない言葉だった。

「祥子以外の悪霊が、ここにはいるってこと?」

「分かりません」

 縁は首を振った。

「ただ、さっきの死霊。てっきり祥子が死霊を作り出せるほどに力をつけたのかと思いましたが、それでも、流石に銃器は不自然です。本当に、別の霊存在が関係しているのかも」

 言いながら、縁は見聞するように色々な所を触って回る。しばらくは、そんな取り留めのない時間が続いたが、やがて、壁のとある部位を撫でていた縁が「ここです」と声を上げた。

「ここから、干渉波が漏れてきている。決して量は多くありませんが、波長が絶妙です。祥子の霊波が、簡単には気付けない程自然に組み替えられている」

「……つまり?」

「どうやら、予感は的中したみたいです。この先に、この心象領域に干渉している何者かがいます。しかも手口の巧妙さから考えて、恐らく祥子より遥かに上位の存在――悪魔と呼ばれる存在が」

「悪魔? なんでまたそんなのが…… 祥子の仲間ってこと?」

「あり得なくはないですが。ちょっと今の情報だけでは判断できません。ただいずれにせよ、放っておくと厄介です。祥子と対峙している時に現れても面倒ですし、この土地に根を張られるのも嬉しくない。出来ればここで、退治しておきたいところですが……」

 気遣わしげな視線を向けてくる。

「想定外なのは確かです。和人君と離れられない現状で、あまりリスクは背負いたくない」

「それ、は……」

 気にしないでと言いかけて、口を噤む。悔しいことに、それを言う資格はない。足手まといを引き連れて悪魔と戦うリスクも知らない俺が、口を挟める事柄ではない。

「まぁとりあえず、この干渉波を遮断するに留めます。上手くいけば、祥子に干渉するためのパイプを封じることになるかもしれません」

 まるで『気にしないで』とでも言うように、分かりやすく明るい口調でそう言った縁は、改めて壁に手を当てて、何事かを念じる。それだけで、劇的に状況が変化した。

 中世ヨーロッパを思わせる石造りの廊下が掻き消えて、代わりに極めて平凡な廊下が現れる。所々、実物よりは傷んではいるものの、このホテルの廊下で間違いなかった。

「さて。では一度、現象世界に帰って――」

 仕切り直しましょうと、縁は言いたかったのだろう。だが、それを最後まで口にする前に、異変は起こる。一度は元に戻った世界。それがぐにゃりと、形を崩したのだ。

 まるで、キャンパスを押しつぶしたように。直線だった廊下が、蛇のようにのたうつと、今度はインクを横に伸ばしたように、視界に映るすべてが横に広がり……直後、奈落に転落したかのような浮遊感と共に、世界が暗転した。

 この間、ほぼ瞬きの如く。気付いた時には世界に再び光が灯り、俺たちは、見知らぬ部屋で立ち竦んでいた。

 ドスッ……ドスッ……ドスッ

 そして聞こえる、重低音。目の前に座る、一人の男。

 〝騎士服〟とでも言うのだろうか? ファンタジー小説からそのまま抜け出たようなマント付きの服装に身を固めた男性が、机一面にナイフを並べ、壁に向かってそれらを気だるそうに投擲している真っ最中だった。

 ドスッ

 再び、ナイフが的に刺さる音がする。その音に誘われるように、音源へと視線を向けて……結果、一つの光景が視界に映し出された。

 それでも……目の前の光景を受け入れるのに、数秒を要した。

「五十点。やっと刺さりました。右目にはすぐに刺さったのに、左目には中々刺さらない。まぁお陰で、こうして貴方たちをお待ちする時間潰しにはなったので、決して不満を言うようなことではないのですが」

 その男は、人に向かってナイフを投げていた。しかも、一本や二本ではない。顔を中心に十本以上のナイフが刺さり、もはや正視に耐える状態ではない。

「どうして……彼が?」

 その時、声が聞こえた。

 か細く震えてはいるものの、紛れもなく縁の声。唖然とした表情で、目の前の惨状に釘付けになっている。

 ナイフを投擲していた男は、その声で、初めて俺たちに目を向けた。

「先ほど、拾ったのですよ」

 底冷えするような、冷たい表情。口角が上がっているのを見て、初めて笑っているのだと分かった。

「この空間にいた魂を壊し尽くし、そろそろ帰ろうかなと思っていた矢先、なんとエクソシストの気配がするではないですか。これは重畳とお待ちすることにした訳ですが、私は手持ち無沙汰が好きではありません。さてどうしようかと思った丁度その時、彼の魂が目に入ったのです。しかも見たところ、彼はISSAに属する人間。普通の人間よりも耐久力があると睨んだ私は、早速この空間にお招きすることにしたのです」

(……ISSA?)

 その言葉にまさかと思い、改めて『的』になっていた男を見る。顔が崩れ過ぎているせいで、さっきは気づかなかったが……今なら、流石に分かる。彼は――

 俺たちをここまで運んでくれた、ISSAの運転手だ。

「……あなたは、何者ですか?」

 一拍置いて、縁が目の前の男に問いかけた。男の言葉を聞いた直後に浮かべた苦しそうな表情は、もはや彼女の顔には浮かんでいない。あくまで、冷静に。感情を殺して、悪魔にその素性を問う。

『悪魔祓いをするためには、まずその悪魔の名前を知ること』――以前見た海外のエクソシスト映画で言っていた、そんな言葉が甦る。

「いくつかの名前を持ちますが……」

 だからこそ、隠すと思った。敵に弱点を知らせないためには、その方が余程理にかなった行動のはずだから。でも――

「昨今では、この名前が最も通りが良いでしょう。我が名は、ベリアル――神による圧政を覆し、人間性の解放を為す者です」

 悪魔――ベリアルは、ためらいもなくその名を口にした。宗教性に乏しい俺には、なんの意味も持たないその名前。だが、エクソシストである縁には、違った。

「ベリアル……ですって?」

 目に見えて、縁の顔が驚愕の色に染まる。

「何故異国の悪魔が……それも最高位階の悪魔が……こんな田舎に? しかも、こんな普通の人間を?」

 驚愕の次には、混乱が襲う。訳が分からないと、そのすべてで物語る。

「ちょっとした息抜きです」

 対して、ベリアルはごく普通に語る。

「為政者に憑依(はい)るのも、学者に憑依るのも、評論家に憑依るのも、勿論私の仕事の主要な一つですが、たまには息抜きもするのです。先日は『MeTuber』なる新人類にも憑依ってみましたが……」

 ベリアルが、ニヤリと頬を歪ませる。

「やはり肉体的な苦痛と恐怖は、現場でしか味わえない」

 ゾッとした。根源的な恐怖が、魂の底から湧き上がる。俺は本能的に、この男に恐怖していた。

「この……快楽主義者(サイコパス)が」

 縁が、汚らわしいとばかりに吐き捨てるが、ベリアルは、それすらも愉快とばかりに目を細める。

「良いですねぇ、その感情にはとても芳醇な香りが漂います。やはり男のすえた苦痛の感情よりも、麗しい女性の怒りや恐怖、苦痛の感情の方がよほど味わい深い。」

 言いながら、ベリアルはゆっくりと立ち上がった。

「どうか、貴女の魂のすべてを使って、私を愉しませて下さい」

 それが、開戦の狼煙だった。風の揺らめきを隣に感じ、しかし目を向ける時間もなく、今度は前方から音が聞こえる。

 気が付けば、縁の日本刀がベリアルのすぐ目の前に迫っていた。

「ほぅ……これは早い。少し……いやかなり、驚きました」

 しかし、ベリアルを斬るには至っていない。いつの間に取り出したのか、短刀のようなもの――恐らく、ダガーと呼ばれる短剣によって、縁の刃は阻まれたのだ。

「それに霊力も大したものです。いやはや、これなら並の悪魔では抗しきれないでしょう。なるほど、不思議だったんです。何故こんな所に少女が一人で……いや、役立たずを連れて来るのか。しかし、これで得心がいった」

 さも可笑しそうにクックッと笑うベリアル。比べて、縁の顔には余裕がない。

「ッ……」

 引き結んだ縁の唇から、苦しげな息遣いが漏れた。攻めている方は縁なのに、明らかに縁の方が消耗している。

「しかし、耐干渉性はそれほど高くなさそうです。突撃型の典型ですね、抑えられた時のことを、考えていない」

 その印象を裏付けるように、ベリアルが論評を始める。縁の攻撃など、まるで眼中にないかのように。

「こ……の……」

 縁も、勿論抵抗はしているようだった。ベリアルの守りを突破しようと、更に力を込めたのが、後方の俺からでも見て取れる。だが……目に見えた効果を発揮しているようには思えない。それどころか……唐突に男が、使っていなかった左手を上げた。

「ただ……少し傲慢が過ぎるでしょう。その対価は支払わなければいけません」


 ゴシュッ!!


 ……一瞬だった。ベリアルの言葉に答える間もなく、不快な音が部屋に響いた。

 それは、人体が奏でる三重奏。肉と血に、刃が加わることで生まれたその音は、ヘドロのような粘着性を持って鼓膜に張り付く。そのあまりの不快さに、耳を塞いで目を覆って、その場に蹲ってしまいたかった。

「カハッ……」

 それでも、否応なく目の前の惨状は現実を伝えてくる。苦しげに息を吐きだした縁のうめき声は、現実から目を逸らすなどという我儘を決して許さず、意識を逃避の世界から引き摺り下ろす。

だから、向き合いざるを得ない。悪夢のような、この現実に。

「え……にし?」

 目の前には、空中で磔にされた縁がいた。その下腹部からは小ぶりなレイピアが飛び出しており、その接点からは、ドバドバと滝のように血が流れている。

「良いですね。何とも柔らかい肉だ。きっと何度刺しても飽きが来ない」

 ゴシュッ!!

 本当に、悪夢のようだった。ベリアルはそんな訳の分からないことを言うが早いが、目にも止まらぬ速さでレイピアを引き抜くと、今度は右腕に突き入れる。

 その衝撃で、縁の右腕が根元から吹き飛んだ。

「縁!!」

 意味もなく、叫ぶ。すぐ横を掠めて行った縁の腕の感触は、ベリアルに感じていた恐怖を押し流し、呆けていた俺を動かすのには充分過ぎるほどの衝撃だった。

(縁を助けなければ)

 理屈ではなく、そう思った。

祥子から救ってくれた恩に報いるために、今度は俺が彼女を助ける――それが一応の理屈だったが、そんなことは関係なしに、体は独りでに動き出していた。

 果たして俺なんかに、彼女を助けるだけの力があるのか――それは当然、行動を起こす前に考えなければいけない事柄だったが、そんな考えは頭の片隅にも浮かばなかった。

彼女を助けたい。ただ、その一心だけが、頭の中すべてを満たす。

「馬鹿……逃げて……」

 だからこそ、弱弱しくも、けれど確かな意思の籠った縁の声が聞こえてきても、足が止まることはなかった。


「埃が舞うので、動かないでください」


 ――ドスッ。

 しかし、すぐに足は止まった。いや、厳密に言うと足はまだ動いていたが、それ以上前へは進めなくなった。

「……?」

 原因を確かめようと、視線を下げる。すると、体から生えている一本のレイピアが目に留まった。どうやら、そのレイピアが体の自由を奪い、それ以上の動きを妨げているらしい。

 働かない頭でも、一瞬のうちにそれくらいのことは理解して……

けれど、そこまでだった。

「――ッ!?」

 想像もしたことがない激しい痛みが腹部から一気に這い上がり、脳髄を支配したのだ。それは一瞬で、認識できる痛みの許容ラインを、容易く突破してみせる。

「が……あ……あ……」

 声にならない悲鳴が、喉を震わす。視界が明滅すし、意識が堕ちそうになる。それでも意識を保てたのは、目の前に、彼女がいたからだろう。

「え……にし」

 血と一緒に、彼女の名前が零れて落ちる。それを目で追う余裕なんてあるはずもなく、ただ、どうにか動かせる右手を彼女に向ける。

 ――スパッ。

 けれど、目の前で血の噴水が上がった。天井にも届かんばかりの勢いで上がったその血飛沫は、世界を一瞬で深紅に染めて、肉片になった腕が、床の上でのたうち回る。

(え……にし)

 赤い。赤い。

 まるで、瞳が灼眼になったかのよう。いや、灼眼でも、世界の色は、変わらないのか?

 分からない。分からない。

 これ以上の活動を放棄したのか、俺の脳はまともな思考を拒絶して……どんどん、意識が溶けていく。

 溶けて、溶けて、溶けて、溶けて。

 すべてが溶けてなくなる瞬間――レイピアが音もなく空を切り。

 縁の首が……宙へと飛んだのが見えた。


~~~~~~~


 突然、隣で縁が倒れた。いつの間に取り出したのか、『カラン』という音と共に日本刀が床に落ち、そのすぐ脇に、脱力した縁の体が横たわる。

「う……」

 突然のその出来事に驚く暇もなく、俺を襲ったのはとてつもない疲労感だった。まるでフルマラソンでも走った直後のように、体中から力が抜け、崩れるようにその場で膝をつく。

「……今のは……なんだ?」

 その時、上方から声が降ってきた。その声の主は、恐らくベリアル。だが、先ほどまで言葉の端々に漂っていた余裕がごっそり抜け落ちていて……思わず顔を上げて、その声の主を見てしまう。

 目を見開いたベリアルが、左手に持ったレイピアを見つめている。自分が、なぜレイピアを持っているのか分からない――まるで、そんなことでも考えているかのような表情を浮かべて。

「……そうか」

 やがて、ベリアルはそう呟いた。

「思念を認識する女と因果に干渉する小僧か……これは……随分と面白い」

「なにを――」

 口を開きかけたその時、激痛が体を突き抜けた。危うく叫びそうになったが、必死に声を押し殺し、痛みの元を目で追う。すると、足と手に一本ずつ。まるで床に縛りつけるように、ナイフが突き刺さっているのが見えた。

 カツン、カツン、カツン……

 ベリアルの靴の音。先ほどまで座っていた椅子からおもむろに立ち上がり、ゆっくりとこちらに近づいてくる。

「小僧。道徳の時間だ」

 目の前まで来たベリアルは、冷え切った目でこちらを見下ろすと……俺の足に刺さっていたナイフを、唐突に上から踏みつけた。

「ガッ……」

 視界の中心で火花が散る。それは、今まで経験したことのない痛み。無理やり傷口をこじ開けられるこの感触は、理性を削り取ろうとする。悲鳴を上げないだけで、精一杯だ。

「獲物を前に舌なめずり。貴様はこのような行動を、どう考える?」

 痛みを堪える俺に、一つの問いが降ってくる。見上げると、ベリアルが愉快そうに目を細めていた。

「無知で、傲慢な、愚か者の所業か? 敵に付け入る隙を与えるだけの、三流が為す杜撰な仕事か? 否。断じて否」

 ナイフの柄に置いた足はそのままに、ベリアルは続ける。

「何故なら殺人とは、この地上における最大の愉悦であり快楽だからだ。そのような贅沢を前に感慨に浸ろうともしない……それこそが、度し難いほどの愚か者の所業であり、獲物を仕留める資格も持たない、哀れな敗北者の姿に他ならない」

 ベリアルは語る。あたかも、台詞を朗読するように。

「しかれども、私は更に考える。今、目の前で朽ちようとしているこの果実は、熟れればどんな味がするのだろうかと。今はまだ青く、実も小さいが、良く成熟した暁には、さぞかし芳醇な香りを立ち上らせる魅力的な果実になるのだろう。ならば、それを愛でずして、どうしてこの地上の王を名乗れようか」

 そう語る姿は、まるで本物の王であるかの如く。

 優雅にマントをひるがえして、ベリアルは俺に背を向けた。

「故に、今は貴様たちを見逃そう。されど……追ってこい。より強く、美しく、気高くなって再び我の前に現れよ。我が真名はバアル。よくその心に刻みつけておけ」

 その言葉の直後、ベリアルの姿が揺らいだ。と同時に、周りの背景も歪む。そしてその変化は、一瞬のうちに視界全てを覆って……


 目を開けると、見知った女の子の顔があった。

「……?」

 頭がぼんやりとして、判然としない。何故、縁の隣で寝ているんだろうか?

 身を起こして、辺りを見渡す。

 場所は、例のラブホテル。祥子の心象領域に侵入するために訪れた、殺人事件のあった部屋の一室。どうやら知らない間に、この部屋に戻されていたらしい。

 改めて、隣で寝ていた縁に視線を戻す。すると、さっきは気付かなかったが、もう一人の女の子――紫も、縁のすぐ隣で横になっているのが分かった。二人して仲良く肩を寄せ合い、気持ちよさそうに眠っている。

(……こうして見ると、やっぱり似てるな)

 双子だから当然なのだが、顔のパーツは細部までとても良く似ている。性格がほぼ真逆であるため、いざ接するとあまり意識しないのだが、こうして黙って肩を並べているのを見ると、どっちがどっちだったか、分からなくなるレベルだ。

(いや……それは無いか……)

 内心で、前言を撤回する。

 いくら顔がそっくりでも、少し目を下に向ければ見えてくる二つの胸の膨らみが、隠しようもない残酷な真実をこれ見よがしに主張してくる。

 もちろん、主張してくるのは片方だけだ。

「……主張もできなくて、悪うございましたね」

「!?」

 予想していなかった返答に、体がビクリと反応する。見ると、寝ていたはずの縁の目が、ぱっちりと開かれていた。

「起きてたの……」

「ついさっきまでは寝てましたよ。でも、あなたのくだらない考えのせいで起きました。これまでにないくらい、最悪の寝起きです」

 本当に恨めしそうな顔でそう言った縁は、俺と同じように身を起こして、辺りを見渡す。

「それで……いつの間に私たちは、こっちに戻ってきたんですか? 心象領域の中で、ベリアルと対峙していたはずなんですが」

 言われて思い出す。確か、ベリアルが運転手にナイフを投げていて、そして……

「あれ? どうなったんだっけ?」

 記憶が、不自然に途切れている。その後の展開が、思い出せない。

「私も同じです。どうにも、記憶が混濁している。でも……祥子の心象領域が消滅しているのは、確かなようです」

「そうなの?」

 縁が頷く。そして、未だ寝ている紫の身体をゆさゆさと揺すった。

「紫、起きて」

「んぅ……」

 眠気眼をこすりながら、紫がのそっと起き上がる。

「あれ? 二人とも、帰ってきたの?」

 不思議そうな顔の紫。なんだか、気が抜けてしまった。

「ただいま。それで、紫は何で寝てるの?」

 縁も同じだったのだろう。その顔に苦笑を浮かべながら、紫にそう問いかける。

「一通り、敵が片付いたから、ベッドで二人を待ってたの。そしたら……」

 紫が、首を傾げる。

「いつの間にか……寝てた?」

 疑問形だ。相変わらず、マイペース過ぎる。

「二人ともお疲れ様。無事に、心象領域は破壊出来たんだね」

 それでも、紫はそれで良いと思う。いつもの無表情を少しだけ緩めて、優しく労ってくれる彼女を見ながら、俺は素直にそう思う。

「そう……ですね。詳しい状況は未だ不明ですが、取り敢えず、目的は果たしました。今は、それで良しとしましょう」

 縁も頷き、俺たちは同時に立ち上がる。

 床を覆うように倒れている大量の死霊の処理。そして、恐らく車の中で息を引き取っているだろう運転手の遺体の搬送。

 目的は果たしても、やらなければならないことは、まだ五万と残っていた。

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