2023年:蜃気楼のような女の子 第三章

 ゆさゆさゆさ……

 なんだか、体が揺れている。

 きっと、誰かが起こしに来たのだろう。推察するに、恐らく幼馴染の由依(ゆい)ちゃんだ。彼女は昔から大層世話好きで、高校生になった今でもこうして俺を起こしに来る。俺のことが大好きなのは良く分かるが、もう大人なのだから、いい加減俺離れをしないと――

 とそこまで考えを巡らせて、はたと気がつく。

(そう言えば、俺に幼馴染はいなかった……)


「あ……起きた」

 目を開くと、女の子が覗き込んでいた。由依ちゃんではない。

 肩に掛からないくらいで切られた、少し短めの綺麗な黒髪。陶磁のような白い肌。細められた物憂げな瞳と、控えめな小さい唇。

 毎日のように教室で見かけ、ほとんど話すことのなかった少女――藤瀬紫が、そこにいた。

「やっと起きた。もしかしたら、もう起きないかと思った」

 彼女はそれだけ言うと、黙り込む。正直、ちょっと状況がわからない。

(ここはどこだ? なぜ藤瀬さんがいる? そして、俺はなぜ寝ている?)

 首をめぐらすと、ここが見知らぬ部屋であることがわかった。純和風と言って良いほど、日本風の調度品しかない。正月に帰る祖父母の家みたいな、そんな部屋だった。

 もう一度、視線を藤瀬さんに戻す。先程と同じように、感情の見えない瞳でこちらをじっと見つめている。

 黙って女の子に見つめられているというのも、何とも居心地が悪い。俺はすぐにこの空気に耐えられなくなって、彼女に話しかけた。

「藤瀬さん?」

「……なに?」

 ちゃんと返事が返ってきた。この当たり前の事実に、安堵する。なんて言っても、学校ではこの程度の会話すら困難だったのだ。

「俺は、何でここで寝てたのかな?」

 藤瀬さんは少し首を傾ける。

「自分で、わからないの?」

 彼女が浮かべたのは、実に不思議そうな表情だった。一瞬、彼女は何も知らないのではと思いかけたが、状況的にそんなことはあり得ないだろうと思い直し、肩をすくめる。

「残念ながら。藤瀬さんは何か知ってる?」

 普通に聞いたつもりだった。別に、難しいことを言ったつもりも、解釈の余地があるような複雑な表現を使ったつもりはない。けれど藤瀬さんは――

「なに……か……」

 とそう一言だけ呟くと、そのまま俯いて押し黙り、何も反応しなくなってしまった。

 まさか今の会話が「なに……か……」の一言だけで終わるとは思ってなかったから、流石に戸惑いを隠せない。学校よりも話しやすそうだと感じたのは、やはり早とちりだったのだろうか?

「学校……で」

 しかし幸いなことに、それは杞憂だった。彼女が、再び口を開いたのだ。

「あなたが祥子に襲われていたところを……お姉ちゃんが助けた。それからお姉ちゃんと一緒に、私があなたをここに連れてきて、寝かせた」

 だがその内容は、俺に別の不安と戸惑いを感じさせるのに十分だった。

(祥子に襲われた? 何の話だ? お姉ちゃん? 誰だ、それは? ……いや、そうだ。確かあの日、俺はみんなと肝試しに行って……それで――)

 徐々に記憶が蘇ってくる。同級生五人と夜の学校に忍び込んだこと。突如暗くなった校舎で、俺は後ろから誰かに声を掛けられて……それで……

 何だろう……そこからの記憶が曖昧だ。まるで遥か昔の記憶を思い出そうとしてるみたいに、断片的な景色でしか思い出せない。

 ただ……思い出せるシーンはある。

 床に倒れた俺を見つめる葵さんの恐怖に歪んだ表情。悲鳴を上げながら、一目散に逃げていくみんなの後ろ姿。背後に現れた見知らぬ女子生徒の姿。血で真っ赤に染まった制服と変な方向に捻れた左手。右手に持った大きな包丁。

 そして、俺とその女子生徒の前に現れた、もう一人の女子生徒の姿――

「思い出した……アレは藤瀬さんだったのか」

「アレ?」

「いや……あの時、俺を助けてくれたのは」

「あぁ……いえ、それは違うわ」

「え?」

 そうなのか? ……じゃあアレは一体……

「それは私ですよ」

 不意に横から聞こえてきたその声に、思わず飛び上がる。慌てて声がした方に顔を向けると、いつの間にか、そこには一人の少女がちょこんと座っていた。

「藤瀬……さん?」

 しかも、その少女は藤瀬さんにそっくりだった。思わず顔の向きを元に戻すが、先程までそこにいた藤瀬さんは、当然のように同じ場所に座っている。だから改めて、真横に立つ藤瀬さん(?)に視線を戻す。

「……藤瀬さん?」

 もう一度問いかける。すると――

「藤瀬だよ♪」

 と、にこやかに笑いかけてくる。

 訳がわからず、二人の藤瀬さんを交互に見やると、元からいた藤瀬さんが口を開いた。

「この人は私のお姉ちゃんで双子の姉。それで? お姉ちゃん、どうしてここに?」

「いや、和人君が起きたみたいだったからさ。顔見ておこうと思って」

 そう答えて、『藤瀬さん(?)』改め、『藤瀬(姉)』が俺に向き直る。

「それで――調子はもう大丈夫ですか? ボーとしてたりしません? 何しろ三日も寝たきりだったんてすから」

「三日!?」

 少し落ち着き始めた矢先の衝撃。思わず声が大きくなるが、藤瀬(姉)は動じない。

「そりゃあビックリですよね。でも良かったじゃないですか、三日で。浦島太郎の驚きに比べれば全然大したことないですよ」

 謎の励まし方をされる。でも、妙に納得してしまった。そうか……確かにそう考えると、三日なんて大したことない。幸い、両親は考古学者で世界中を飛び回っているから、日本の家には滅多に帰ってこないし。学校も今は夏休み中だから、特に気にする必要はない。

 でも、そうなると気になるのはあいつらだ。みんな、あれからどうなったのだろう?

「もし知っていれば、なんだけど……俺と一緒に肝試しに行ってた連中、どうなったか知らない?」

「あぁ、その人たちなら、みんな無事に逃げられたみたいですよ。あなたが囮になったお陰ですかね」

 何の気なしに、藤瀬(姉)は答える。その答えに安心すると同時に、なんとも言えないモヤモヤが、心の中を支配した。

「それは……素直に喜べない話だな……みんな、あんなに薄情だとは思わなかった」

 お互い無事だと分かった途端にこれなのだから、現金なものだ。でも、置き去りにされた瞬間は、断片的な記憶の中でも確かな存在感を持って息づいている。笑おうとしても苦笑しか出てこないのは、仕方のないことだろう。

 それにしても……分からないことが多すぎる。一体アレは何なのか。そして、ここに居る二人の藤瀬さんは何者なのか……

「じゃあ、順に疑問を解消していきましょうか」

 すると、まるで心を読んだかのようなタイミングで、藤瀬(姉)が話し始めた。

「まず、あなたを襲った者の名は岩村祥子(いわむらさちこ)。昔、あの校舎で死んだ女性の幽霊ですね」

「……」

 初手から、言葉を失った。

 確かに、まったく考えもしていなかったと言えば、嘘になる。それでも、あっさりとそれを告げられて、幽霊の存在を肯定されて、「はい、そうですか」と、素直に受け入れることなんて出来る筈がない。あまりに……荒唐無稽過ぎる。

「幽霊って……そんな馬鹿な。アレは何かの……幻覚……あるいは夢……集団催眠とかっていう線もあるだろ?」

「なるほど。じゃあ今の状況はどう説明します? 私たちは幻覚ですか? それとも夢が続いている? 集団催眠説はかなり怪しいですよ? 私たちは、あの集団には含まれていないですし、夜の校舎に行く必然性もないので、たまたま巻き込まれたとも考えにくい」

 ……確かに、この子の言う通りだ。寝て起きて、場所が変わっても幻覚が続いているとも思えないから……あるとしたら明晰夢か? 明晰夢と幽霊の存在……確率的にどちらの方があり得るだろうか? ちょっと判断がつかない。

「明晰夢ですか……まぁこの現象世界自体が、広大な夢みたいなものかもしれませんから、あながち否定はしませんよ」

 思考を読まれた? いや、偶然か……まぁ、いずれにせよ――

「夢であれ現実であれ、今見えているこの世界で行動するしかないと思えば、そこに拘るのは無意味だな……だから、取り敢えずこの世界には幽霊がいる――そういう前提で考えることにするよ。それで? アレはどういう存在なの?」

「理性的なのに案外柔軟ですね。話が早くて助かります。では、簡単に説明しますが……アレは不成仏霊と言います。この世に執着を残した人間がそのまま地上に居着いちゃうと、ああなるんですよ。しかもその執着が――」

「……怨み」

 ポツリと藤瀬さんが呟く。

「そう。彼女は生前、自身を虐めていた人たちを殺しましたが、それでは怨み心は晴れなかったのでしょう。死後もあの世へと旅立つことができず、そのままこの世を彷徨い続けました。そして、自分と同じように誰かを怨んでいる人を見つけては取り憑き、その怨み心を増大させて吸収する。更には自分に絶望している人を見つけては唆し、彼らを自殺させました」

「自殺って……何のために?」

「自分の養分とするためです」

 藤瀬(姉)が答える。

「彼女は心象領域と呼ばれる閉鎖空間を作り出すと、殺した魂をそこに集め始めました。彼らから半永久的に悪想念を吸収し続けるためです。こうして力をつけ続けた彼女は、遂には現象世界――私たちが生きるこの世界に直接干渉できるほどになってしまいました。それが五年ほど前ですが、それから彼女によって殺された魂が急増しています」

「……具体的には、何人くらいが殺されたんだ?」

 智和からは、祥子に殺されたのは四人だと聞いていた。だが……恐らくそんな数ではない。

「そうですね。最初の十年で、既に四人を超えています。それからの八年で、更に十九人が彼女の犠牲になりました」

「……合わせて、二十三人か」

 とんでもない数だった。もし祥子が生きている人間なら、相当な凶悪犯罪者だ。警察という警察が、躍起になって犯人逮捕に動くだろう。

 でも、警察は動いていない。当然だ。死んだ人を捕まえる力も、根拠も、更にはそんな発想すら警察には無いのだから。どれだけ世の中にとって害悪が大きくとも、実在を信じられなければそれは無いも同然だ。結果、害悪だけが世界に残り続ける。

 しかし、そこで藤瀬(姉)が胸を張った。

「安心して下さい。現行システムで対応出来ないからこそ、私たちがいるんです」

 そんな得意げな彼女の姿を見て、唐突に、あることに気付いてしまった。

この姉妹、実は結構違うのだ。

 まず、髪の長さが違う。色は二人とも透き通るように綺麗な黒なのだが、姉の方が随分長くて、背中に流せる程度はある。更に、背丈も姉の方が高い。姉は百六十センチくらいで、妹は、そこからマイナス五センチと言ったところだろうか。服装は、少しだけ姉の方が垢抜けているようだ。薄い青を基調としたオフショルダーのワンピースとミニスカート。首筋には鍵の形をした金のネックレスが光っている。ちなみに、妹はネイビー色のワンピースだ。

 さて…………最後は、胸について。

 双子の容姿を語る上で、これだけは外せない要素だと、俺は声高に主張したい。俺のこの毅然とした主張に対し、軽薄なる諸兄が一様に頷いている姿が、今もはっきりと目に浮かぶ。

 わかっている。そう急かすな。

 まずは、結論から述べる。姉は胸が貧しい。妹と比較しようとすると、涙で視界がボヤけ、正確な判定に支障をきたすため、描写は困難を極めるが――

「……ぶち殺しますよ。突然長々と何が始まったかと思えば……貧乳バカにすんな」

「……」

 いやはや。どうやら軽薄なる諸兄の中には、チクリ癖のある困った紳士も含まれているらしい。大丈夫、怒らないから出ておいで。

「誰だよ、軽薄なる諸兄……心を読まれていることに対して、そんな見解に行き着いたのはあなたが初めてですよ……」

 ……ふむ。裏切り者はいないか……だとすると、どういうことだ? さっきから藤瀬(姉)が言っている言葉を容れろと? 幽霊に引き続き? 超能力?

 はぁ……どうやら俺は、少し寝ている間にとんでもない世界に迷い込んでしまったらしい。

「素晴らしい主人公展開じゃないですか。あなたの平凡だった人生に、遂に私という非日常の権化が舞い降りたんです」

「非日常の権化? 何その迷惑な存在……」

 そういうものはまったく求めていない。ちょっとスパイスが効いたくらいの、平凡な人生こそ至高だ。

 しかしそんな信念は、藤瀬(姉)の次の一言でぶち壊された。

「じゃあこう言い直しましょう。灰色の人生に舞い降りた非実在性美少女。それが私です」

「連絡先、交換してもらっても良いですか?」

 考えるより先に言葉が出ていた。思わず本音を零した俺を見て、彼女はニヤリと笑う。

「良いですね、素直な子は好きですよ。連絡先は交換しませんけど」

 上げて落とす……だと? ……ふむ、悪くない。

「う……今、ゾワッてきました。大抵の思念は問題ない筈なのに……和人君、やりますね」

 他人の心が読めるなんて、正直弱点以外のなにものでもないからな。藤瀬(姉)、既に攻略したも同然。

「あ、ちなみに私のことは縁(えにし)で良いですよ。いつまでも藤瀬(姉)じゃ、大変でしょ?」

「縁? 変わった名前だね」

「お父さんの趣味ですから、そこは突っ込まないでください。さて、では話を元に戻しましょう。先ほどから話している『祥子』と同じような悪霊は、実は世界中に数多く存在しているんです。だから彼らを放置すれば、世界はどんどん混乱していく。生者の魂が穢され、穢された魂がまた別の魂を貶める。幾何級数的に増える負の連鎖です。だからそれを断ち切るために、一つの組織がスイスのジュネーブに作られました。既に半世紀以上も前の話になります。彼らは悪霊悪魔をこの世界から放逐するためのプロフェッショナルを養成し、世界中に派遣しました。それが『エクソシスト』と呼ばれる人たちです」

 そこまで聞いたら、流石にわかる。俺は両脇に座る二人の女の子を交互に見つめた。

「もしかして……そのエクソシストっていうのが……」

「そうです」

 縁が頷く。

「私と紫は、国連機関ISSAから派遣されました。祥子を放逐するためにこの街にやって来た、エクソシストです」

 そう言って性懲りもなく、縁はその無い胸を、僅かに張った。


「お~、結構良い部屋だね」

「うん。一応元は客間だから」

 この神社(実はこの建物、立派な神社だったのだ)の二階に案内され、行き着いた先の部屋をぐるりと見渡して、そんな感想を漏らす。

 目覚めた部屋と同様に、ここも純和風の内装でベッドなんかも無いのだが、それがまた旅館みたいな雰囲気を出していて良い感じだ。きっとここでなら、快適に過ごすことができるだろう――と、何故、まるで宿泊先のホテルに入った旅行客の第一声みたいな事を言っているのかというと、ついさっき、こんなやり取りがあったからだ。


「エクソシストのお二方。どうも危ないところを助けてくださってありがとうございました。このご恩を胸に、これからは霊にも気をつけながら生きていこうと思います。では」

 腹に重い一撃を受け、一分ほど悶絶した後、ようやく動けるようになった俺は、二人に礼を述べて家に帰ろうとした。しかし、立ち上がったその足を、縁にガッシリと掴まれる。

「何帰ろうとしているんですか。和人君が帰るべき家は今日からここですよ? 和人君にはしばらくこの家で、私たちと一緒に生活して貰いますから」

「……は? 何それ? それ、なんてエロゲ?」

「安心して下さい。全年齢対象です」

 なん……だと? 今、何て言った?

「いや……そこに驚き過ぎでしょ……当たり前じゃないですか」

「と、冗談はそれくらいにして……いや、現実的にそれはまずいでしょ。てか、俺が帰るべき家は、一応諏訪湖の畔にあるんだけど」

「あぁ……あの家は、私がさっき爆破しておきました」

「嘘!?」

「嘘です」

「……」

 何が言いたいんだ? この女子は。

「お姉ちゃん。流石に説明が雑過ぎるよ」

 すると、今まで黙って俺と縁のやり取りを聞いていた藤瀬さんが、間に入ってくれる。

「和人君が祥子に目をつけられたから、放っておくと捕り殺されちゃうってことを、ちゃんと言わなきゃ」

 おっと……こっちの女子はこっちの女子で、無表情でとんでもないことを言い始めた。

「紫……折角私がオブラートに包みつつ、上手く話そうとしてたのに……」

 いや、そっちも上手く話せていたかどうかは、甚だ疑問だけどね?

「というか、どういうこと? 俺が祥子に目をつけられたって?」

「えぇ、残念ながら……何故か祥子は、あなたのことを気に入ってしまったみたいなんです。だから今でも、執拗にあなたのことを付け狙っています。私たちが守っているうちは大丈夫ですが、私たちから離れたら、きっと一日ともたないでしょう」

 それは……流石に想定外だった。祥子が、まだ俺を狙っている?

「……嘘だろ?」

「嘘なら私たちも楽で良かったんですけどね……私たちだって年頃の女の子ですから。四六時中異性が近くにいるのには、多少抵抗があるんですよ?」

 !? 四六時中、近くに!?

 今日一番の衝撃だった。今の縁の言葉で、俺はようやくこの状況を正しく認識する。

 だから俺は、深呼吸を繰り返して心を落ち着かせると、最終的な確認作業に移った。

「縁……」

「何ですか?」

「さっき、『あなたの家はここだ!』みたいなこと言ったよね?」

「言いましたね。そんな感嘆符を付けるほど、力強く言った記憶はありませんが」

「じゃあこれからこの家には、俺たち三人だけで住むと?」

「そうなりますね。安心してください。この家はISSAが用意してくれたので、簡単には悪霊に入られたりしませんから」

 なるほど。じゃあこの家は厳密に言えば藤瀬家ではないのか……まぁそんなこと、今はどうでも良い。大事なことはそんなことではない。

 大事なのは、これから一つ屋根の下で、常に二人と行動を共にすることになる未来だ。

「分かった……納得した。じゃあ最後に一つだけ。これは事前に確認しておくべきだと思うから今聞いちゃうんだけど……俺はお風呂にはタオル入れない派なんだけど、二人も同じと考えて良いかな?」

「は? 一体何の話ですか?」

 縁の首が四十五度の角度で傾く。

「いや、こういうことは事前に意思調整しておかないと。現場で問題が発生してからだと、対応が後手後手になるからね」

 共同生活で大事なのは、OK&NGの確認と細かな気配り。そして思い遣りだ。前に本で読んだ。

しかし――

「……まさか、和人君。私たちと一緒にお風呂入るつもりですか?」

 続くその言葉で、今度は俺の首が縁と同じくらいに傾く。

「? 『まさか』ってどういうこと? ちょっと言ってる意味がわからないな」

「私にはあなたの頭の中がわかりませんよ……言っておきますけど、私たちは和人君と一緒にお風呂にも入らなければ、一緒に寝ることもなく、ましては一緒にトイレをすることもありません」

「…………わ~お」

「何その反応!?」

「あ……いや、ちょっとショックが大きくて……え? 何どういうこと? 俺たち一緒に行動するんじゃなかったの?」

「常識の範囲内での話です。当たり前じゃないですか」

「常識って……この状況下でそんなこと言われても。既にこの世界の常識はとっくに崩壊してるんだけど」

「人としての常識です。この場合は、健全な羞恥心と言い換えても良いでしょう」

 中々難しいことを要求してくる。思春期男子に一体何を求めてるんだ? この女子は。

 まぁでも……ここが妥協ラインだろう。過ぎた欲は身を滅ぼす。ただでさえ、祥子に滅ぼされそうなのに、自らの手でそれを早める必要もあるまい。それに……

 俺を囲むようにして座っている、二人の少女を改めて見る。

 たとえ二人と一緒にお風呂に入れなかったとしても、こんな美少女たちと一つ屋根の下で夏休みを過ごせるというのは、得がたい幸運であることは間違いない。あまりに幸運過ぎて、もはや死亡フラグなんじゃないかと思えるレベルだ……絶対死なないけど。

 だが、いつまでも感傷に浸っていてはいけない。これから、ここでお世話になるのだ。ケジメはしっかりつけなくては。

「では、縁、藤瀬さん。これから宜しくお願いします」

「三つ指ついて、挨拶するな。気持ち悪い」

「……わ~お」


***


「行ってきます!」「行ってきます」

「はい、行ってらっしゃい」

 玄関まで俺たちを見送りに出てくれた縁に挨拶をして、家を後にする。隣には制服姿の藤瀬さん。まさか、藤瀬さんとこうして一緒に登校する日が来るなんて……生きていて良かったと、こういう時に思う。

「ところで、夏休み中に学校に何しに行くの?」

「? 知らなかったの?」

 藤瀬さんがちょっと驚いた顔をする。目が少しだけ大きくなった。

「うん、藤瀬さんと一緒に学校行ってくれって、縁に言われただけだから」

「そう……お姉ちゃんらしい」

 そう言って、そのまま黙り込んでしまう。でも、何となく分かってきた。これは多分、考えてるんだ。

「……昨日話したこと」

 たっぷり十秒ほど時間をおいて、藤瀬さんが話し出す。

「あなたのことを祥子が狙っている。だからあなたが学校に近づけば、また出てくるかもしれない」

 ……なんだ? つまり今日の俺は百パーセント囮ってこと?

「……じゃあ、また祥子と戦うの?」

「うまくいけば」

 そうか……正直うまくいって欲しくない気もするけど……

 記憶は曖昧だが、恐怖の感情だけは心に鮮明に焼き付いている。本音を言えば、暫く学校に近づきたくないくらいだが、そうすればいつまで経っても安全は確保されないのだろう。そう考えると、なんだか袋小路に追い詰められたネズミみたいな気分になってくる。せめてもの救いは、このネズミの近くには世界的な人気を誇るネズミ同様、ガールフレンドがいることだろう。それも二人も! 素晴らしい高待遇だ。

 だが一つだけ忘れてはいけないことがある。ネズミは所詮ネズミ。芸も出来なければ、戦うことも出来ない。何かを求められても、返せるものには限界がある。そのことだけは、念押ししておかなければいけない。

「でも、俺は何も出来ないよ? 戦うことはもちろん、祥子を誘き寄せるやり方だって、別に知らないし」

「大丈夫。特に何もしなくて良いから。私と一緒に歩いてて」

 ほぅ。どうやら撒き餌に加工は不要らしい。ただ居るだけで良いとは、我ながら随分優秀な餌だ。あとは簡単に引き負けないだけの実力が、釣り手にあることを祈るばかりだ。


 学校の正門に着いたところで、いきなり見知った人影が目の前に現れて、思わず藤瀬さんの影に隠れる。

「? どうしたの?」

 俺の不審な行動に、藤瀬さんが首を傾げた。

「ごめん、ちょっと動かないで」

 慌てて、振り向きそうになった藤瀬さんの耳元でそう囁く。

「ひゃっ!?」

 唐突に、藤瀬さんが可愛らしい声をあげた。

 先を歩く例の人影――葵さんもその声で振り返り、僅かに眉をひそめるが、幸い俺には気付かなかったようで、そのまま歩き去って行く。

 葵さんに見つからなかったことに安堵しつつ、藤瀬さんの方を見た。

「突然、どうしたの?」

 すると、消え入りそうなほど小さな声で、藤瀬さんが呟いた。

「……耳、弱いの……」

 その声に誘われるように、黒い髪に隠れた耳に目を向けると……確かに。熟れたりんごのように、それは真っ赤に染まっていた。

「くすぐったいから、もう止めてね……それで? なんで隠れたの?」

 早くも平常運転(無表情)となった藤瀬さんが、先程の行動の意味を尋ねてくる。この鉄面皮の硬さを考えると、さっきの出来事はかなり大きな収穫に違いない。

「いや……葵さんがいたから」

「葵さん……クラスの? あの日一緒にいた友達?」

 曖昧に頷く。

「そうなんだけど……あの日俺一人だけ置いてかれたことがちょっとモヤモヤしてて……」

 逃げる直前の、葵さんの表情を思い出す。恐怖に歪んだ顔――百年の恋も冷める思いだ。

「だから正直、顔を合わせ辛くて。それに向こうから心配して声を掛けてくるならともかく、こっちから声を掛けるのは何だか癪なんだよね」

 子供っぽい意地だとは思う。だけど、感情ってのはそんなものだ。それに、藤瀬姉妹とお近づきになれた今、彼女と仲良くなりたいというモチベーションは大きく下がっている。

「……そう。それなら良いわ」

 当の藤瀬さんはたった一言それだけ言うと、もう興味を失ったのか、さっさと校舎に向けて歩いて行ってしまった。

 それにしても……『それなら良い』とはどういうことだろう? 葵さんに話しかけることに、何か不都合でもあるのだろうか?

 首を傾げつつ、既に玄関をくぐろうとしている藤瀬さんの後を追った。


「ダメね」

 二時間ばかし、当てもなく学校中をさまよった結論が遂に降りた。さすが、無駄がない簡潔なお言葉だ。その言葉に、二時間にわたる不毛な労力に対する感情は一切表れていない。

「帰りましょう」

 それだけ言うと、藤瀬さんは一人トコトコと正門に向かって歩き出す。

「それで、結局どういうことになったの?」

 藤瀬さんに追いつき、横に並びながら問いかける。藤瀬さんはこちらに顔も向けずに、淡々と喋り出した。

「気配すら感じなかった。こっちの隙を窺ってるとかなら、気配くらいしても良いのに……だから、警戒されてる。きっと私がいたら、祥子は出てこない」

 そこまで言うと、藤瀬さんがじっと俺のことを見つめてくる。

「……なに?」

 若干、嫌な予感がする。

「やっぱり、あの日みたいに和人君を学校に放置するしかないかも」

「……絶対に嫌だ」

 もうあんな思いは、二度とごめんだ。

「でも……それじゃあ倒すことも出来ない」

「いくら倒せたって、その前に俺が殺されたら意味ないじゃないか」

 俺の言葉に、藤瀬さんはまたまた首を傾け、何事かを考えている。やがて――

「間に合う? かも? しれない?」

「たった一文の中にクエスチョンが三つも付いたけど……それって間に合わない可能性もあるんじゃないの?」

「……おおかたは」

「……駄目じゃん」

 もはや可能性レベルじゃない。ほぼ助からない作戦に、誰が身を投じるか。

「……残念」

 藤瀬さんが感情の見えない顔で呟く。正直、全然残念そうに見えない。

「ところで、何で藤瀬さんたちはこんなことをしてるの?」

「こんなことって?」

 藤瀬さんがまたこちらを見つめる。

「悪霊を倒す――みたいな仕事。エクソシストって言うんだっけ?」

「エクソシスト……そうね。それが私たちの仕事だから」

「仕事? 高校生なのに?」

「年齢は関係ない。私たちがやるべき事だから、やる。それだけ」

「だからって……結構危ない仕事でしょ? 親御さんだって心配するんじゃない?」

「私たちに両親はいないから」

「……」

 咄嗟に返す言葉が見つからない。あまりに不用意な発言だった。高校生でエクソシストなんてよく分からないことをやってるんだ。普通の家庭環境の訳がない。

「……それは、何て言ったら良いか……」

 だが、藤瀬さんは特に気にした様子もない。

「気にしないで。随分昔からだし、もう慣れちゃった」

「そんなに小さい頃から?」

「うん。小学生の時に自動車事故で。家族旅行で箱根に行く途中だったの。助かったのは、私一人」

 想像以上に重い内容が返ってきて、踏み込んだことを後悔する。両親が死に、自分だけ生き残るというのはどういう感覚だろう? 両親共に健在な俺に分かるはずもない。

「ごめん……簡単に聞いて良いことじゃなかった」

「だから、気にしないで。お姉ちゃんが一緒に居てくれたから、私は平気」

「そうか……」

 改めて、この姉妹の絆の強さを実感する。両親を亡くしてから、ずっと二人で支え合って生きてきたのだろう。

 それにしても、子供二人が生き残って、どういう経緯を辿ればエクソシストなんてものに行き着くのだろうか? キリスト教圏なら教会に預けられて――なんてこともあるのかもしれないが……

ヤバい、気になる……とはいえ、これ以上は流石に踏み込み過ぎな気もする。いくら藤瀬さんは気にしなさそうとは言っても、無闇に聞くべきじゃないとも思う。

さて、どうしたものか……と、そんな風に思い悩んでいると、じっと俺のことを見つめている藤瀬さんの視線に気が付いた。

「? なに?」

「そう言えば」

 おもむろに、藤瀬さんが口を開く。

「和人君もご両親がいないんだっけ? 前、クラスの誰かが話してた」

「は?」

 それは、あまりに突拍子がなかった。俺の両親――桐生翔太(きりゅうしょうた)と桐生真名は、普通に生きている。今も元気に、世界中を飛び回っていて、多分今頃は、東南アジアの密林の中にでも……

「あ……」

 だがそこで、思い至った。両親は生きているが、日本の家には基本的にいない。もしかしたら、そのことを友人の誰かが話しているのを小耳にはさんで、それで勘違いしたのかもしれない。

「多分それ、勘違いだよ。俺の父親が考古学者で、母親もその出張について回っているから、基本日本の家にいないってだけ」

 だから、そう訂正すると、納得したように頷いて、それから少しだけ目が大きくなった。

「お父さん……考古学者なんだ」

 しかし、すぐにその顔は不思議そうに傾く。

「あれ? でも、お母さんは巫女さんなんだよね? 巫女さんのお仕事は大丈夫なの?」

 今度は、流石に苦笑せざるを得ない。この情報源は、間違いなく智治だ。どうやら知らない間に、家族の個人情報が駄々洩れになっているらしい。

「昔ちょっとやってただけだよ。俺が産まれる前だから、よくは知らないけど」

「そう……なんだ……ちょっと残念」

「?」

 けれど、この反応は意外だった。何故、藤瀬さんが残念に思うんだろうか?

「私もエクソシストになってなかったら、お父さんの神社を継いで巫女さんになっていたと思うから。もし和人君のお母さんが巫女さんなら、話を聞いてみたかったなって」

 すると、藤瀬さんがどこか遠い目をして、そんなことを口にした。更に、言葉は続く。

「お姉ちゃんが神主さんで、私が巫女さん。それが、神代神社の代々の習わしだったんだって。お父さんの代には、巫女さんはいなかったみたいだけど」

「……」

 二人の両親の話を聞いた時以上に、言葉を失ってしまった。藤瀬さんの口から語られたその未来は、本来二人が辿るはずだった、普通の人生そのものだったからだ。

 姉妹二人で、仲良く神社を運営する――それは永遠に失われてしまった、けれど幻想だと切って捨てるにはあまりにも楽しげな、輝かしい未来の可能性だ。

 もしかしてそんなことを思うのは、俺がただの一般人だからかもしれない。エクソシストとして生きている彼女たちにしてみれば、きっとそんな感情は、余計なお世話以外のなにものでもないのだろう。けれど……

 それでも、どうしたってその未来は、あまりに眩し過ぎた。だからこそ、遠い目をしながら回顧する藤瀬さんの心の内を想像すると、身を引き裂かれるような寂寥に襲われた。

 両親を失い、約束された未来を奪われた彼女は、今、一体何を思っているのだろうか。

「……ものすごい顔してる」

「え?」

 けれどそんな感慨は、その一言で吹っ飛んだ。

「プッ」

 そして、その時――一瞬だけ、藤瀬さんが笑った。

「変な顔」

 それだけ言うと、もう藤瀬さんはいつもの無表情に戻り、目線も俺から逸らしてしまう。

 ほんの一瞬だ。普通の感覚では笑ったうちにも入らないかもしれない。それでも、初めて見た藤瀬さんの笑顔が嬉しくて、それ以外のことは、もうどうでも良くなってしまった。


「じゃあ、作戦会議といきましょうか」

 日本家屋の必須オプションと言っていい丸テーブルを囲んで、縁、藤瀬さん、俺が円形に座る。

「まず、和人君が襲われてからの手順ですけど」

「おい、ちょっと待て。それがファーストステップっておかしいだろ。むしろそれは緊急時に該当する事態のはずだ」

「人の話聞いてました? 和人君を一人にして釣るしかないって、さっき紫から聞きましたよね?」

「お前こそ人の話聞いてた? その案は提案直後に却下されている」

「紫は『残念』って言っただけで、却下してないですよ。むしろ今は二対一になって、形勢は決行の方に傾いています」

「そんな馬鹿な……もはやそれは合議制という名を借りた独裁じゃないか……この日本でそんな横暴が通るわけがない」

「人類の偉大な発明『多数決の原理』を否定してはいけません。民主主義の基本です」

「こんな操作された多数決は認めない! マイノリティの声に耳を傾けるべきだ」

「私は最近のそういった風潮を良しとしない側の人間ですから。まぁでも、和人君の気持ちは分かりました。じゃあ代替案を用意して下さい。批判するならアイディアを――社会の基本です」

 そう言われると黙るしかない。昨日幽霊の存在を知った人間が、そう簡単に幽霊の誘き出し方なんて分かるはずがない。

 しかし、ここは無理にでも代替案を出さねば。Dead or Alive――正にそういう局面だ。

「はい」

 その時、不意に俺の右から手が挙がった。真っ直ぐ上に向かって伸びた手は、天井に対して綺麗な直角を成しており、小学生のお手本として道徳の教科書に載せたいくらいだ。

「まさか、発案者であり、可愛い妹でもある紫に裏切られるとは……はい、紫さん。どうぞ」

 指名を受けた藤瀬さんはゆっくりと手を下ろす。まさか藤瀬さんからの援軍があるとは思っていなかったので、これは素直に嬉しい。専門家だろうから、俺よりよっぽど建設的な意見が期待できるだろう。

「和人君が逃げ出さないように、念のため両手両足を縛った方が良いと思います」

「何の話だ!!」

 思わず大声が出る。さっきまでの会話の流れをまったく聞いてない。どんだけマイペースなんだよ。てか、期待して損した!

「はい、採用」

 間髪入れずに、縁が今の発言を受け入れる。この姉妹、ホントにいい加減にして欲しい。

「二人が何と言おうと、俺は囮にはならんぞ」

「だから、それなら代替案を出して下さいよ。祥子を誘き寄せる方法」

 縁が困ったような顔をする。おかしい……これだとまるで、俺が駄々をこねているみたいではないか……

「はい」

 と、そこで再び手が挙がる。先程と寸分違わず、見事な挙手だ。

「はい、紫さん」

 一体今度は何を言うつもりなのか……思わず身構える。

「そろそろお客さんが来る時間なので、本題に入った方が良いと思います」

 しかし、藤瀬さんの口から発された言葉は、想像のどれにも当てはまらなかった。

「え!? もうそんな時間? もう少し遊べると思ったのになぁ……残念」

「うん? どういうこと?」

 首を傾げる。すると縁が、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「まず前提として、一般人であるあなたを囮にする筈ないじゃないですか。そんなことしたら、私たち二人とも始末書ものですよ」

 紫も、隣でコクンと頷く。なんだか混乱してきた。

「えと……じゃあ、つまり?」

「揶揄って遊んでいただけです。本命の方法は別にあって、その下調べをISSAの諏訪支部に依頼していたんです」

「諏訪支部? そんなのがあるの?」

「あるんですよ。この土地には諏訪大社がある関係で、昔から霊的な影響を受けやすいんです。だから、特別に支部が設けられていて。今回はそこに、少し働いてもらいました」

 成程……と理解するが、若干気になる表現も混じっていた。

「『働いてもらった』って……二人はその諏訪支部の指示で動いてるんでしょ? なんだか、それだと力関係が逆な気がするんだけど」

 そう尋ねると、縁は暫し「あぁ……」と視線を泳がせる。だが、やがて考えが纏まったのか、再び俺に視線を合わせた。

「まず、一つ誤解を正させてください。私たちは、諏訪支部の指示で動いているわけではないんです。その更にずっと上。『評議会』というISSA内の最高意思決定機関に私たちは所属していて……だからこそ、私と紫の権限は、諏訪支部のそれを超越してるんです」

「……てことは?」

 おおよそ何を言わんとしているかは理解できたが、それでも確認してしまう。

「私と紫は、諏訪支部に指示を出せる立場で、決して指示を受ける側の人間ではないんです」

 返ってきたのは、案の定の答え。思わず、聞き返した。

「女子高生なのに?」

「あくまでも〝今は〟ですよ。ここに来るまでは、ニューヨークにいましたから」

 よく分からないが、凄そうなのは伝わってきた。思っていた以上に、この二人は偉い人たちなのかもしれない。

「さて……じゃあ紫、諏訪支部の人の相手を宜しく。私は、和人君に残りを説明してるから」

「わかった」

 縁の言葉に、藤瀬さんが小さく頷くと、風のように音もなく、部屋から出て行く。

「任せちゃって大丈夫なの?」

 その後ろ姿を見送ってから、残った縁に尋ねた。

「藤瀬さんって、あんまり対人の仕事に向いているようには思えないんだけど」

「そんなことないですよ」

 だが、縁は首を振る。

「それに、諸々の理由で私よりは少なくとも適任なんです。だから、外部とのやり取りは基本的には紫の担当。安心してください」

「はぁ……」

 学校での様子を見ていると、安心できる要素は皆無だが……一体どんな理由があれば、愛想の良い縁より、藤瀬さんが適任なんてことになるんだろうか。

「そんなことより」

 縁が、俺の思考をぶった切る。

「本題を進めましょう。これからの私たちの動き方についてです。和人君が私たちの側から離れられない以上、あなたにも一緒に動いてもらう必要がありますからね」

「うぐ……」

 予想はしてたけど、やはりそうなるのか……果たして、一体何をさせられるのか。

「では、次の作戦ですが――」

「ちょっと待って」

 説明を始めようとする縁。だが、それを遮った。具体的なことを聞く前に、まだ最も基本的なことを教えて貰っていない。

「何ですか?」

「まずは、ISSAについて詳しく教えて貰える? まだ、エクソシストの組織ってことくらいしか、知らないんだけど」

 今までの調子から、聞けばすぐにでも教えて貰えると思っての質問だった。でも意外にも、縁は困った顔をする。

「あぁ……やっぱり気になります?」

「?」

 何やら、渋っている様子だ。その理由が分からず首を傾げる俺に、

「ISSAについての詳細については、対外的には守秘なんですよ」

 縁はそう説明した。

「だから、今後の動き方とかなら問題ないんですが、ISSAについて教えるとなると、評議会に許可を取る必要があって……でも……う~ん」

 何事かを考え込み始める縁。だがやがて、「決めた」というように一つ頷いた。

「でもまぁ、もう和人君は部外者ではありませんしね。私が持つ現場裁量権の範囲で処理しちゃっても問題な……くはないけど、何とかしちゃいましょう」

 悪戯っぽく微笑んで、そんなことを言ってくれる。何とも柔軟な考えだ。さすがは神社の縁子(フチコ)ちゃん。

「……はい? 今なんて? フチコとか聞こえたんですけど」

 思考を読んだのだろう。縁がぽかんと口を開ける。対し俺は、既に考えを読まれることにも慣れっこだ。落ち着いて、祥子探索の途中に編み出した縁の愛称を披露する。

「神社に住んでる縁だから、神社の縁子ちゃん。キャッチフレーズは、神社のフチに舞い降りた天使」

「……その天使、どう考えても舞い降りる所、間違えてますよね? 百歩譲って神社は良いとしても、せめて本殿に舞い降りて下さい。フチって……人を救う気ゼロじゃないですか」

「……縁のことだよ?」

「違います。人に変な属性を付与するのはやめて下さい」

 ジト目の縁が可愛らしい。

「それに、私は天使なんていう大層なものではありませんよ。生きた人間が運営する組織に雇われた、単なるエクソシストです」

 なんて思っていたら、『単なるエクソシスト』とかいう聞き慣れないフレーズが聞こえてきて、当初の目的を思い出す。

 聞く体制に移行して襟を正すと、縁も「わかりました」と一つ頷き、話し出した。

「まずさっき、和人君はISSAのことを、『エクソシストの組織』って言いましたけど、厳密には違います。確かにエクソシストを多数抱えていますが、それ以外の人も沢山所属していますから。そもそも名前からも分かる通り、悪魔退治だけが目的ではないんです」

「名前?」

「あ、すいません。ISSAは略称なんです。正式名称は『International Spiritual Science Association』。ですから、心霊現象の科学転用とかもしています。他にも心霊現象に苦しめられている人の心のケアとかも。要するに、スピリチュアル全般を扱ってるんです」

「なるほど……昨日は国連機関の一つだって言ってたし、かなり大規模な組織だってことは分かったよ。でも、その割に知名度がないから……一般には隠されてるの?」

「そうですね。一般の市民には公表はされていません」

「どうして? 公表した方が色々と動きやすいでしょ?」

 俺たち一般市民も、知っていた方が注意もできるだろうし……と思った上での質問だったが、そんなに簡単な話ではないらしい。途端に縁が、眉間にしわを寄せた。

「そうですね……それに関しては色々と理由がありますが。一言で言えば、混乱を防ぐためですね」

「混乱?」

「えぇ。この世界には色々な人がいるんです。日本だと無神論が主体ですが、宗教だって色々な宗派があります。ですが、それはお互いにあまり仲が良くありません。そして、ISSAはイギリス主導で作られました。その意味が分かりますか?」

「つまり……ISSAはキリスト教?」

「厳密に言えば、イングランド国教会です。そしてそうなると、当然反発する人が出てきます。しかもその異教の集団を自分たちの政府が受け入れていたと知られれば……最悪、国が倒れます」

 確かに、それは宗教に疎い俺でも何となく想像できる。

「それだけではありません。人間には、基本霊は見えないんです。見えないのに存在だけが公表される。そこに生まれるのは疑心暗鬼です。更には、そこに付け込んだ詐欺集団まで出てきたら……それこそ、悪魔の思う壺です」

「なるほど……そうかもしれない」

「はい。だから結局、まだ人間がそこまで成熟していないんです。霊の存在も大事ですが、要はそれらから悪影響を受けないことが一番で、それは単(ひとえ)に心の在り方次第なんです。だから、それだけの啓蒙を先にしない限り、霊の存在だけが公になっても、逆に悪霊の影響を広げることになりかねません」

 ふむ……

 中々難しい話だ。自分の今までの世界観や常識とは大きくかけ離れているから、余計にそう感じるのだろう。お陰で段々と退屈になってきた。

 そろそろ終わらないかな……この話。

「……おい。私はあなたの質問に答えてるんですけど」

「いや、もっと短く――三行くらいで終わる話かと思ってたから」

「三行って……小学生の日記か。その程度の分量で事足りる説明って、私たちの組織を何だと思ってるんですか」

「そうは言っても……最近沢山の文字を見てると目がシバシバしてきて……」

「ご老体か。てか、文字を見てるって何だ。和人君は私の話を聞いているんです。文字を見ている訳ではありません。変なことは言わないように」

 そうだった。うっかりしていた。

「まったく、しっかりしてくださいよ」

 と、縁が呆れたようにため息を吐き、やれやれと首を振る。

「じゃあ、もうこの話は良いですね? 本題に入りますよ」

「……お願いします」

 実際のところ、もう真面目な話には飽きていたが、ISSAの説明は自分から振ったのだ。流石にそれが理由で飽きが来て、本題をパスしたいなんて言えない。大人しく、縁の説明に耳を傾ける。

「……はぁ、仕方ないですね」

 だが、そんな思いも、当然縁には筒抜けなわけで。

「それなら、少し趣向を変えましょうか……行きますよ」

「行きますって……どこに?」

 首を傾げると、縁がニヤリと口角を上げる。

「社会科見学です。楽しいですよ」

 縁は行先を明言せず、ただそれだけを言うと手を引く。俺はされるがままに、彼女の後に従った。


「紫様、お目にかかれて光栄です」

「えぇ」

 ここは、応接室に隣接した廊下の一画。壁一枚隔てた向こうから、藤瀬さんと誰かの話し声が聞こえる。

 そう――これが、社会科見学の正体。

 俺たちは、藤瀬さんと諏訪支部の人の会話を盗み聞きしていた。

「……なんで、こんなことになったんだっけ?」

「ただ説明を聞くだけより、こっちの方が退屈しないと思いまして」

 当たり前のように答える。盗み聞きに対する罪悪感みたいなものは一切なく、清々しいばかりの堂々ぶり。当事者である縁がこの様子なら、俺も気兼ねする必要はないのだろう。

(わ〜い、盗み聞きだぁ)

「……」

 だが、無理やりにテンションを上げてみても、内容が内容だけに面白くもなんともない。反動で少しだけブルーになりつつ、静かなのは寂しいので縁に話を振る。

「でも、二人って本当に偉いんだね」

 声の様子から察するに、諏訪支部の人は明らかに大人だ。だが紫に対する挨拶は、完全に目上の人に対するそれだった。

「ん〜。上位の部署に属してるだけで、実際のところ、私たちが偉いわけではないんですけどね。だから、もっと年相応の関係性で接してくれても全然構わないんですが……私たちの名前って結構広まってるので、それで畏れられちゃうことが多いんですよね」

「名前が広まってるって……二人って有名人なの? なんで?」

 すると、縁は自分で自分を指さす。

「私と紫のこと、どう見えます?」

「え?」

 唐突な問いかけ。しばらく考えて、見たままを答える。

「……高校生?」

 縁が、大きく頷いた。

「そうです。世界中探しても、こんなに美人で、しかも双子で、しかも未成年のエクソシストなんて中々見つかりません。だからでしょう」

「なるほど……『そうです』とか言っておきながら、今の言葉の中に俺が発したフレーズが一ミリも含まれていなかったことは気になるけど、まぁ言わんとしていることは理解した」

「ふっ。そんな簡単に、理解出来るとは思わないことです」

「なぜに!? 理解させたかったんじゃないの!?」

「あ、いえ。ただ単に言ってみたかっただけです」

「……」

 そんな馬鹿話をしている間にも、向こうの会話は進行していく。

「それで……例の女性と接触は出来ましたか?」

「はい、未だ精神が錯乱しておりましたので、あまり有意義な情報は得られませんでしたが。ただ連れ込まれたラブホテルで、血塗れの女子高生を見たと証言していましたので、やはり彼らが、二十一・二十二人目の犠牲者で、間違いないかと思います」

「そうですか……そのホテルの所在や殺害現場の部屋番号は分かりましたか?」

「はい、すべて確認済みです」

 物騒な単語がいくつも出てくる。しかも、この話の内容から察するに……

「もしかして……二か月前に起こった『ラブホテル殺人事件』のこと、話してる?」

「あ、良く分かりましたね」

 縁が目を丸くする。だが、別に驚くようなことではない。この事件のことを、この辺りで知らぬ人などいないだろうから。

 願わくは、卒業までに一度はお世話になりたいと思っていた商業施設。その部屋の一室で、二人分の惨殺死体が見つかったのだ。それだけでも話題性は十分なのだが、この事件が更に大きな脚光を浴びたのは、一人の女性の存在があったからだ。

 バラバラ死体の中で、全身に血液を浴びながら放心状態になっていた女性。とある週刊誌が、彼女は殺された男性二人に無理やり連れ込まれた性的被害者であったことをすっぱ抜き、この事件は昼のワイドショーで連日放送されるに至った。しかもその報道から数日後、その女性が殺人罪で起訴されたのだから尚更だ。

 色々な意味で、本当に胸糞が悪くなるような事件だった。

(でも……じゃあ、もしかして……)

「あの事件も、祥子の仕業なの?」

「そう睨んで調査してもらった結果、案の定でした」

 重々しく頷いた縁は、

「恐らく最初は、男性のレイプ願望を祥子が増幅したのでしょう。その結果、男性は嫌がる女性を無理やりホテルに連れ込んだ。その上で、今度はその女性に祥子は憑りついて……その後の展開は、報道にある通りです」

 あの事件の真相を明らかにした。常識だけでは、決して辿り着けない真相を。

「そんなの……祥子のマッチポンプじゃないか。レイプをさせて、その上でその加害者を殺させて……一体何がしたいんだ?」

「簡単です。自分と同じ思いをする人間を増やしたいんです」

 疑問に対する答えは、恐ろしい動機。思わず、身が凍りつく。

「和人君も分かるでしょう? 自分が苦しい時、他の人も苦しんでいると安心する気持ち。自分と同じように、他の人も不幸になると胸がスカッとする気持ち。人間として最低の感情ですが、決して否定できないこの感情。すべての悪霊に、共通したモチベーションです」

 言われると、確かにそんな感情に心当たりがあった。テストで点数が低い時、友人も同じく低いと安心する。あるいは、自分が部活の試合で勝てない時に、他の人が勝つと胸がざわつく。当たり前の感情過ぎて、特に気にかけたこともなかったが……でも、それこそが悪霊の共通項だと言う。

「はい。だから、世の中には悪霊に取り憑かれる人が後を絶たないんです」

 突き放すような、縁の言葉。でも縁は……エクソシストだ。

「ただ、その影響を食い止めることは出来ます。生きている人に取り憑く悪霊を、この世から放逐することは出来ます。だから――」

 縁が下す。この社会科見学の結論を。 

「祥子による直近の殺人現場。あのインター沿いに立つラブホテルに潜入して、まずは祥子の残滓を探ります」

 それが、次の作戦。祥子を追い詰め、あの世へと追放するために選ばれた、第一手だった。

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