2023年:蜃気楼のような女の子 第二章
「和人(かずと)、肝試ししようぜ」
友人の智治(ともはる)にそんな誘いを受けたのは、高校に入学して半年、最初の夏休み前の終業式の日だった。
「いいけど……いつ、どこで、誰とやるの?」
やや警戒しながら、そう尋ねる。智治は良い奴だが、わりに思い付きで話をすることがある。下手に乗り気になってしまった後に、それが単なる智治の思い付きであったことがわかり、結局すべてのお膳立てをこちらが整える……なんてことが何回かあった。
他の友人にこの話をすると、「なら、お前が準備する必要ないじゃん」と言われてしまい、それはまったくその通りなのだが、一度乗り気になってしまった以上、自分の気持ちに引っ込みがつかず、結局やってしまうのだ。
「難儀な奴だな」
と、その友人は笑う。だが、こればっかしは自分の性格だから仕方ない。だから今は、せめてもの防衛策として、乗り気になる前に、どの程度煮詰まった話なのかを確認するようにしている。
「来週火曜日の夜にこの校舎に忍び込もうかと思ってる。メンバーは俺と剛(つよし)と公彦(きみひこ)と葵(あおい)さんと由香里(ゆかり)さん。あと、お前」
……驚いた。意外に細かく決まっている。それに――
「怪しげな企画なのに、よく二人も女子が集まったな。門限とかは大丈夫そうだったのか?」
すると、智治が親指を立てた。
「友達の家で勉強会をして、メシもご馳走になるって話で乗り切ったらしい。お前みたいな一人暮らしと違って、その辺はみんな経験済みだからな。上手く誤魔化すことくらいは出来るんだよ。まぁそれにしても、めんどくさいのは変わらないけど」
そう言って、智治が羨ましそうな顔をする。
「てか、本当に羨ましいよな。おまえって普段は親いないし、それに母親……真名(まな)さんだっけ? 確かまだ、三十六歳なんだろ? かなりの美人で、しかも元は神社の巫女さんだったって話だし……クソッ、マジで妬ましいな。今度その辺の高僧にでも頼んで、お前を呪い殺してもらおうかな……」
本人を目の前にして唐突に呪詛を並べ立て始める。だが、マイペースが服を着て歩いているような男だ。すぐに「あれ?」と何かに気付いたような声を出して、俺を見た。
「そういえばお前の親って二人とも、この学校のOBなんだっけ?」
一気に話が飛んだ。それとも、両親の歳の若さをそんな方向から追求したいのだろうか?
眉根を寄せつつ、一応答える。
「……あぁ、そうだよ。三年間同じクラスだったらしい。そんで卒業してからたった二年で結婚したから、確かに他の親よりは若いよ……でも、所詮〝比較的〟だぞ?」
それに相手は母親だ。若いから一体何だと言うのか。
しかし智治は、「いや、もうその話はどうだって良いんだ」と手を振った。
「それより、その頃にこの高校の生徒だったんなら、祥子(さちこ)とも被ってるんじゃないかと思ってさ」
「は? 祥子? 誰だそれは?」
首を傾げる。
すると、いきなり厳かな雰囲気を醸し出した智治が、その手のテレビ番組に出てくる語り部のような顔をして、今回の肝試しの主役――この学校に纏わる怪談話を教えてくれた。
それは、十数年前のことになるらしい。
『祥子』という女の子がいた。彼女は勉強ができ、スポーツも万能で、おまけに美人――という、天が二物どころか三物まで与えたような完璧超人だったらしい。
そんな非の打ち所がないような女の子だったが、それでも彼女にとって悲劇だったのは、他にもう一つ、最も大事な要素が欠けていたことだ。
『性格?』
いや違う。性格なんて、偽ろうと思えばいくらでも偽れる。
じゃあ、一体何が欠けていたのか。
彼女には『運』がなかった。彼女の人生全般そうであったかはわからない。ただ、あの瞬間。高校三年生の夏に限っては、間違いなく運がなかった。
彼女はクラスの不良に目をつけられた。きっかけは簡単。三角関係だ。とある不良の女子が好意を寄せていた男子が、祥子のことを好きになった。祥子はその男子に告白されたが、断った。断った理由はわからない。他に好きな人がいたのか、それともその男子にそもそも興味がなかったのか。もしかしたら、お高く留まっていたのかもしれない。本当のところはわからない。
ただ、振られた男子はプライドを傷つけられた。そもそも、そんな完璧超人に夏休み前に告白するような奴だ。自分の容姿に自信があり、しかも高校最後の一夏を遊びたい、と考えているような軽い奴に決まっている。
当然、性格も悪い。その男子は、祥子がお高く留まっていると考えた。許せないと思った。
だから、その自分のことを好いていた不良に、あることないことを吹聴した。
いや……その表現は正しくない。ないことばかりを吹聴した。
結果、嫉妬に狂った不良は、しかも自分が正しいという免罪符まで手に入れて、壮絶な祥子いじめを始めた。その内容は、細かく話そうとするとその手の年齢制限に抵触してしまうほどの内容なので、ここでは割愛する。
とにかく、その酷いいじめの結末は、それと同じくらい酷いものになった。
七月も終わりに近づいたある日の夕暮れ。仕事から帰ってきた真面目なサラリーマンが目にしたのは、息子を含む三人の少年と少女二人の惨殺死体だった。
一夜明けた翌朝。朝一番に学校に通勤した校長先生が、中庭に倒れた女子生徒の死体を発見した。死体の状況から、飛び降り自殺だと判断された。
敢えて言うまでもないだろうが、飛び降り自殺した女子生徒は、いじめを受けていた祥子であり、殺された五人の少年少女は、彼女をいじめていた不良とその仲間たちだった。
この凄惨な事件は俺の住む街を大いに騒がせたようだが、なにぶん昔の話だ。俺もそういった事件が昔あったことはなんとなく聞いたことはあったが、詳細はもちろん知らないし、それが自分の通う高校を舞台にした事件だとは思いもしなかった。
当然、両親からは何も聞いたことはない。
だから、その事件の説明を終えて期待交じりの目を向けてくる智治に、「残念ながら」と前置きをつけた上で、ありのままを話す。案の定、智治は露骨に残念そうな顔をした。
「そっか……じゃあやっぱり関係ないのかな……電話で聞いてみたりもできない?」
「無理だな」
尚も食い下がる智治を、一言で切って捨てる。
「うちの両親は海外の僻地にいることが多いんだ。電話はまず繋がらないんだよ」
「そっか……」
沈む智治。だが、勝手に沈んでもらっては困る。まだ過去の事件の概要を聞いただけで、肝心の怪談話を聞いていないのだ。
「あぁ……怪談ね。でも、さっきの話でほぼ全てだよ。あとは後日談で、その後からこの学校の生徒が自殺や事故死するようになったって話。今までで……確か四人かな? そんで、彼らが死んだ時に決まって目撃されるのが、血まみれの祥子の幽霊なんだと」
「おい。普通にそっちの話の方がヤバいだろ」
何の気なしに言っているが、十数年でその人数だと、三、四年に一人は死んでいることになる。偶然にしては多すぎる数だ。
しかし、智治はそうは思っていないみたいだった。
「そうか? 四人って微妙だろ? これが百人とかなら『うえっ』ってなるけど」
「百人ってお前……」
常識の斜め上をいく数字が出てきた。やはり智治の基準はどこかズレている。
(まぁでも、何でも良いか。どうせ嘘だし)
結論から言うと、俺は霊を信じていない。だから当然、女子生徒の幽霊も信じない。だからそんな真偽不明の死者の数よりも、大事なことは別にあった。
それは、参加予定者の中に葵さんがいることだ。実は、少し前から葵さんのことは気になっていたのだ。この機会に彼女と仲良くなれるなら、正直こんなに美味しい話はない。
「とにかく分かった。まぁ俺も暇だし、折角だから参加するよ」
出来るだけ気のない風を装って、参加の意向を智治に伝える。途端に、智治の顔が一転して喜びに染まった。
「よっしゃ! じゃあこれで決まりだな。お前が居てくれると色々と心強いからな」
「おまえがいつも考え無さ過ぎなんだよ。今回だって、どうやって校舎に入るのか、とか考えてるのか?」
「あ……」
智治の予想通りの反応に、思わず苦笑する。
「だと思ったよ。まぁその辺はこっちで何とかしとく」
「マジか!? ありがとう! さすが和人だな」
今にも抱きつかんばかりの様子の智治を手で制する。
「良いよ、それくらい。それより、ちゃんと他のメンバーを逃さないようにしとけよ?」
「おう! 任せとけ」
景気の良い言葉を残して、智治は去っていく。どこに行くのかと思ったが、そのまま廊下に出て行ったところを見ると、あらかたトイレにでも行ったんだろう。相変わらず、自由な性格をしている。
「ねぇ……」
だが、気前良く請け負ったのは良いものの、どうやって校舎に侵入しようか。基本出入口は全部、鍵がかかっちゃうからな……
「……ちょっと」
それに問題は校門だ。当然夜は鍵が閉まるし、周囲は全部フェンスで囲まれてるから、男子ならいざ知らず、女子が入るのはかなり厳しい。
「…………」
ゆさゆさゆさ。
? 肩が揺らされてる。誰だ?
肩を見る。すると、可愛らしい手が肩に乗っかっていた。その手に沿って視線を上げていくと……
「……藤瀬(ふじせ)……さん?」
驚いた。そこにいたのは、転入以来誰とも話をしていない女子生徒。藤瀬紫(ふじせさき)だった。というか、今、初めて声を聞いた気さえする。
「どう……したの?」
あまりに驚いて声が上手く出てこない。だって今まで何度もアプローチして、その度に無視されてきたのだ。それが向こうから話しかけてくるなんて……
「止めた方が良い」
?? 何のことか分からない。何を止めた方が良いって?
「肝試しは、止めた方が良い」
その言葉でやっとわかった。さっきの話を聞いていたのか。
「あぁ肝試しね。まさか、藤瀬さんも行きたいの?」
藤瀬さんはフルフルと首を横に振る。
「この校舎は危険。祥子が、出てくるかもしれない。だから、止めた方が良い」
……この子は何を言ってるんだ? 前から変なところがあるなとは思っていたけど、まさか本当にオカルトが入っているとは思わなかった。
というか、俺に言わせれば、眼鏡でオカッパな地味子ではなく、こんなに可愛い女の子がオカルトに傾倒しているという事実の方がよっぽどオカルトだ。事実は小説より奇なりとは、よく言ったものである。
そんなことを考えて、一人で感心していた俺だったが、当の藤瀬さんは、
「じゃあ、行かないでね」
と、そんな言葉だけを残し、さっさと自分の席に戻って行ってしまった。
藤瀬さんの意外な一面を見た気がする。案外と彼女、面白い子なのかもしれない。
(これは少し、夏休み中にオカルトの勉強をしてみるのも悪くない気がするな)
席に座り、ぼーっと中空を眺めている彼女の横顔を観察しながら、そんなことを考える。
取り敢えず、今回の肝試しの話をネタに、夏休み明けにもう一度話しかけてみよう。それが彼女とのコミュニケーションを実現する、突破口になるかもしれない。
そんなことを考えて、一学期最後の日は過ぎていった。
***
決行日当日。俺たちは夜の八時に校門前に集合していた。
集合時間五分前、俺が校門前に着いた時には、意外なことに既に全員が集まっていた。女性陣はともかく、男性陣はそんなに時間に正確とも思えないから、今日という日を相当楽しみにしていたのだろう。これだから、男子という生き物は現金で困る。
そんなことを考えながらみんなに近づく俺に真っ先に気付いたのは、智治だった。
「お! 遅いぞ、和人。おまえ、後でジュース全員分。決定な」
「コーヒーなら奢ってやる」
智治の嫌いなコーヒーを盾に、奴のウザイ絡みを躱しつつ、みんなと合流する。
それにしても、今日は参加して本当に良かった。こんな機会で無ければ、私服の葵さんを拝むことはきっと出来なかっただろう。少なくとも、この夏は無理だった。
それが今日上手く事を進めれば、もしかしたら、葵さんの浴衣姿まで拝める機会まで訪れるかもしれない。いや、もしかしたらそれ以上も……
俄然、やる気が湧いてきた。
「じゃあ、チャッチャと行きましょうか」
早速、移動を開始する。この辺りは人通りがないとは言っても、校門前でたむろしているのは、それだけで充分なリスクだ。
「でも和人君。まだ聞いてないけど、どこから学校に入るの? 裏門も、開いてないよね?」
俺の後についてきながら、葵さんが首を傾ける。他のみんなも同様だ。
「大丈夫。ついて来て」
目的地は、学校の山側側面だ。学校をぐるりと囲むように建てられているフェンスに沿って、ものの数分で移動する。
「ここか? さすがに女子がいるのに、ここを乗り越えるのは無理だろ?」
二メートルは優に超えるだろうフェンスの一画。その前で立ち止まった俺を見て、公彦が露骨に眉根を寄せた。女子二人も、不安げな顔で頷いている。
「分かってるよ。そんなことさせる訳ないだろ? ここだよ、ここ」
そんな彼らに、とある箇所を指差した。
「……あ、切れてる」
最初に気付いたのは由香里さんだった。俺が指差した場所に手を伸ばし、そっと触れる。
「意外に気がつかないでしょ? ここの草、結構丈が長くて、しかもフェンスが緑だから。隠れてよく分かんなくなるんだよね」
これを見つけられたのは偶然だった。女子も安全に、そして痕跡を残さずに敷地内に侵入する――つまり、門かフェンスを突破する方法を求めて、炎天下の中彷徨い続けた結果だ。絶妙なタイミングで解けた靴紐に、MVPを贈りたい。
「すごい……よく知ってたね、こんな所」
驚きと関心が入り混じった声で、葵さんが溜息を吐く。それだけで、苦労のほとんどは報われた気になった。
「偶然ね、運が良かったんだよ。それより、早く中に入ろう。こんなところ、誰かに見られても厄介だから」
穴を手で押し広げ、人が通れる程度まで大きくしたところで、先行して中に入る。その後は、後ろから続くみんなに手を貸して、無事にみんなが穴を通るアシストに徹した。
ここまでは予定通り、順調だ。
だがここだけの話、本当に校舎内に入れるかどうかは、半分以上賭けだった。
フェンスについては既に切れていたものがずっと放置されている訳だから、まず復旧されないだろうと予想していた。だからあまり心配はしていなかったわけだが、今回、校舎への侵入経路に選んだ一階男子トイレの窓については、以前先生から『良く鍵の閉め忘れが発生する場所』という情報を得ていたものの、夜の巡回時に閉められてしまう可能性は十分にあった。
実際に閉め忘れは頻繁に発生するのかどうか、事前に確認することも考えたが、そのせいで無用な警戒感を与えてしまう可能性もある。そう考えると、下手なことは出来なかった。
だから、今回がある意味ぶっつけ本番だった訳だが……幸運の女神は俺に微笑んだ。
恐る恐る手をかけた窓は、なんの抵抗もなく横にスライドし、思わず安堵の息を吐く。
「和人君? 大丈夫?」
しかし、そんな俺の変化に目ざとく気づいた由香里さんが、心配そうな顔で首を傾ける。
「え? 全然大丈夫だよ。さぁ、行こう」
(危ない……)
すぐに表情を元に戻し、何事もないことをアピールする。俺が不安そうにしていれば、後ろから付いてきている人たち、主に葵さんと由香里さんは当然不安になる。
〝頼れる男性〟としての評価を得るためにも、迂闊な言動は慎まなければいけない。
校舎の中は、思ったよりも明るかった。
今日が晴れていることも大きいのだろう。空には月がしっかりと昇っており、その月光のお陰で、ライトなしでもなんとか周囲を見渡すことができる。
念のためペンライトは持参してきていたのだが、不自然な灯りは見つかるリスクを上げるため、極力使いたくなかったのだ。
「うわっ……夜の学校って暗いんだな」
だがそんな校舎の中も、智治にとっては十分暗く映ったらしい。まぁこいつのことだから、比較対象を昼の校舎に設定している可能性もあるが……要は、何も考えていないのだ。
――トントン
智治の能天気さに呆れていると、誰かが肩を叩いたのを感じて、意識を戻した。
「どうする? 肝試しらしく、グループを二つに分けるか?」
剛だった。この後の行動計画について、確認したいらしい。
この段階で、この場の主導権を完璧に掌握したことを自覚する。
「悪くないけど、今は見つかるリスクを上げたくない。多分大丈夫だけど、もしかすると一人くらい見回りの先生がいるかもしれないからさ。ここは安全策を取ろうよ」
その自覚を裏付けるように、俺の主張に誰からも反対意見は挙がらなかった。勿論、学校側にバレることを恐れているという理由もあるとは思うが。
この肝試しで一番怖いのは、万に一つも出てこないお化けよりも、ひょっとしたら出てくる可能性がある、学校の先生かもしれない。
俺たちは周囲の物音と明かりの存在に気を配りながら、目的地である屋上に向かって静かに進み始める。適度な緊張感が場を支配し、ようやく肝試しらしい雰囲気になってくる。みんなの意識が、徐々に暗闇へと集中し始めている証拠だった。
「俺、すごいことに気がついてしまった」
だが、その空気を唐突にぶち壊したのは……言うまでもなく、智治だった。恐怖心も緊張感もまるでない、あたかも教室での雑談のようなその口調が、夜の校舎という非日常を、日常の延長線上へと引き摺り下ろす。
「……唐突に、何?」
辟易としながらも、反応しなければ益々事態が悪化することを経験則から知っていた俺は、仕方なく、聞いてあげる。この肝試しの言い出しっぺに対する義理は、これで使い果たしたと言っても過言ではない。
「幽霊って、実は蜃気楼なんじゃないか?」
「……」
一瞬、義理の使い所を間違えたのではないかと後悔した。それくらい、智治が突然言い放った言葉は俺の理解を超えていた。
当然、他の面々も一様に首を傾げている。
「いや、だってそうだろ?」
その反応の薄さには、さしもの智治も気付いたのだろう。焦ったように早口で、その根拠を説明し始める。
「蜃気楼って、ありもしない幻影を見せて旅人を惑わすんだろ? それって、幽霊とすごい似てるじゃん。本当には存在しないって意味で」
(あぁ……そういう……)
何となく、智治の言いたいことは理解した。そしてその勘違いも。
「多分誤解してるけど、蜃気楼はありもしない幻影を見せる訳じゃないぞ?」
「……へ?」
智治がキョトンとした顔をする。
「蜃気楼って、単に光の屈折現象だから。遠い所にある景色が近くに見えてるだけ。だから、蜃気楼で見えるものって、実際にあるものなんだよ。例え肉眼では見えてなくても」
「「そうなの?」」
いくつもの声が重なる。それは智治だけでなく、この場にいる全員の言葉だった。
「……そうなんだよ。それよりも、さっさと上に行こう」
智治だけでなく、この場にいる全員が蜃気楼の原理を知らなかったことに若干戸惑いを覚えつつ、それを誤魔化すように、目の前に現れた階段を指で示した。
みんなも、異論を挟まない。
結局その後、三階に足を踏み入れた葵さんが心細げな声を上げるまで、誰も、何の言葉も発さなかった。
「アレ? ……なんだか、暗くなってない?」
久々の第一声は、そんな言葉だった。そしてそれは、事実だった。
一階を歩いていた時は随分明るかったのに……階段を上っている間に、どうやら月が陰ったらしい。ペンライトを使わないと足元も覚束ないほど、暗くなってしまっていた。
仕方なくペンライトを点灯させた俺は、みんなを先導するために再び歩き出す。
でも……続く足音はなかった。振り返ると、みんな窓に張り付き、外を眺めている。
「うわ。月が完全に隠れちゃってるよ。いつの間にか雲がめっちゃ出てきてる」
「ホントだ。ここまで暗いとやっぱり少し怖いね」
その中でも特に目についたのは、公彦と葵さんの姿だ。
肩を寄せ合うように仲良く並び、空を見上げ話す様子は、まるで本物のカップルのよう。どうやらこの月明かりの悪戯が、上手い感じにドキドキ感を演出してしまっているらしい。
(まずいな……あれは放置すると危険だ)
素早い現状認識。自分のすべきことを悟った俺は、一団のリーダーという立場を一時的に放棄して、二人のもとへと踵を返す。
――その時だった。
「……ねぇ、あれ……何? 和人君の後ろに、誰か立ってない?」
それは、由香里さんの声だった。か細く、僅かに震えたその声は、夜の校舎――夏の肝試しの現場には相応しいもののようにも思えたが、その言葉が表す内容を考えると、あまり愉快とは言えない。
出鼻を挫かれた俺は、仕方なくその場で足を止め、苦笑しつつ彼女の言葉を窘める。
「由香里さん、いくら何でもその冗談は……」
しかし、最後まで言うことは出来なかった。その時の、みんなの表情が見えてしまったからだ。由香里さんは勿論、葵さんも公彦も剛も、そして智治さえも、皆一様に同じ表情を浮かべている。
『恐怖』――まさにその形容詞が相応しい。俺の……いや、俺の背後に釘付けになっているその五つの表情からは、それ以外の感情はすっぽりと抜け落ちてしまっていた。
何故、彼らはそこまで恐怖しているのだろう? 彼らは、一体何に恐怖しているのだろう?
そんな疑問が頭をよぎる。だが、それも一瞬のことだ。
なぜなら、気づいてしまったから。俺の後ろに、誰かが立っていることに。そしてその誰かが、首筋に手を回してきたことに。そして――
「……ッ!?」
聞こえてしまった。聞いてしまった。その誰かの声を。その誰かが語り掛けた、呪いのフレーズを。
それは、たったの四文字で構成されたおぞましい音の連なり。ひび割れ、かすれ、しかし決して耳から離れまいとしがみついてくる粘着音。
とても、耐えることなんてできない。
だから……堕ちていく。意識が深い闇の中へと。まるで地獄の底へと飛び降りたみたいに。一瞬で、あっという間に、何の猶予も残さず。
それでも……結局最後まで離れることはなかった。意識を失うその瞬間まで、その声が途切れることは決してなかった。何度も、何度も、何度も、何度も。
その声は、繰り返し、語り掛ける。
『見つけた……見つけた……見つけた……見つけた……見つけた……見つけた……見つけた……見つけ――タ…………………………………………………………………………………………………………………………………………………やっと……ミツケタ』
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