第3話 彼女の部屋

 天野アイリは先輩の彼女である。恋人がいる女の子である。だからぼくは彼女に近づいてはいけない。だけど、ずっと好きだったんだ。ずっと彼女を守りたかったんだ。

 だからウチ来るって言われた時に、ぼくの体は硬直して彼女の瞳を見つめて、それが恥ずかしくて視線を逸らして、でも彼女は先輩と付き合っていて、……でもこのチャンスを逃したら2度と彼女に近づけないと思って、逸らした視線をアイリに戻して、ぼくは頷いた。


「ツトム、ちょっと離れて歩いて」

 と彼女が言うから、アイリの2歩ほど後を歩く。

「もっと離れて」

 とアイリが言う。

「なんで?」

「だって」

 とアイリが辺りをキョロキョロと見渡した。


 彼女は先輩に見つかることを恐れているっぽい。先輩に見つからなくても先輩の友人に見つかったら先輩にバレてしまう。彼女はぼくではない誰かの恋人だった。

 ぼくは立ち止まり、アイリの背中が小さくなるのを見守った。そして、だいぶ離れて彼女を追った。


 彼女の家は15階建てのマンションで、アイリはロビーで待っていた。

 内側からしか開かないオートロックの扉を、中にいたアイリが開けた。

「ツトムがウチに来るの久しぶりだよね」と彼女が言った。

 久しぶりというか、小学生の時に1度しか来たことがない。

「うん」とぼくは頷いた。


 アイリはエレベーターのボタンを押す。

 何を喋っていいかわからなくて、エレベーターが上の階から降りて来るのがわかるオレンジ色のランプを見上げていた。


「ツトムが悪いんだからね」

 と彼女が言った。

「えっ?」


 ぼく、なにか悪いことしたっけ? と思ったけど、今が悪いことしている最中のような気がした。


「ツトムが天野さんって呼ぶから、アイリは先輩と付き合ったんだからね」

 と彼女が言う。


 彼女の言葉の意味がわからなかった。スマホで説明を求めたかった。『好きな女の子 苗字で呼ぶ 先輩と付き合う』。AIが搭載されていても答えは出してくれないような気がする。

 ぼくが『天野さん』と呼んだから彼女が先輩と付き合った。

 どう捻じ曲がって物語が進行したかわからないけど、アイリの目は潤んでいて、きっとぼくは悪いことをしたんだろう。ぼくは間違ってしまったんだろう。


「アイリ」

 とぼくは言った。

 久しぶりに声に出して彼女を下の名前で呼んでみると体が熱くなるぐらいに恥ずかしくて、言わなければよかったと後悔した。……だけど、彼女のことを天野さんと呼んだことの方がもっともっと後悔していた。彼女を苗字で呼ばなければ、アイリは先輩と付き合わなかったんだ。


「遅いよ」

 と彼女が言って、ぼくの脇腹を軽くグーパンチした。

 グヘッ、と少し大げさに痛がってみる。

「そんなに痛くないでしょ?」

 と彼女が言った。

 痛かった。心臓が悪魔に掴まれたみたいに痛かった。

 

 チンと音がしてエレベーターの扉が開いた。

「行こう」

 と彼女が言って、エレベーターに入った。

 ぼくも後を追う。



 玄関には何も置かれていなかった。

「こっち」

 と彼女は言って、家の中に入って行く。

 そして部屋の扉を開けた。


 ぼくは靴を脱いで、彼女を追いかけるように家の中に入った。

 ドキンドキン、と聞こえるほど心臓が鳴っている。


 彼女に誘導されて、アイリの部屋に入った。桃の香り? 女の子特有の甘い匂いがした。ピンク色が多い部屋は小学生の時と変わっていない。ピンクのベッドの上にはクマのぬいぐるみが置かれていて、壁にはゲームのキャラクターのポスターが貼られていた。


 ぼくの肩甲骨らへんに、ナニカが触れる感触がした。振り向くとアイリがニコッと笑ってコッチを見ていた。

「肩甲骨、指で触っていい?」

 とアイリが尋ねた。

 尋ねる前に触ってるじゃん。

「なんで?」

「ツトムは昔から、ココが弱かったから」

「やめて」とぼくは言った。

「ケチ」

「そんな」

 とぼくは言って、続きの言葉を飲み込んだ。勘違いさせることやめろよ。

「そんな?」

 とアイリが首を傾げた。

「なんでもない」

「ヤリマンみたいなことはするな? って言いたかったの?」とアイリが尋ねた。

「えっ? なにマンって?」

「肉まん」

「なんで肉まん?」

「なんでもない」と彼女が言った。


「好きなところに座りなよ。お茶持って来てあげる」と彼女が言った。


 そして彼女はキッチンへ。

 ぼくは部屋に取り残されて、どこに座っていいかわからないくて、ベッドを見つめた。

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