第33話 花火大会②

花火大会が中盤に差し掛かった頃、ベテラン看護師が何か思い出したかのように声を上げた。


「あらそうだったわ。三〇三号室の吉岡さんのとこ、今から見回りに行かなければならないこと、すっかり忘れてたわ」


そう言ってベテラン看護師は、僕と渡辺の顔を交互に見てきた。それほど焦っている様子が感じられないのは気のせいであろうか。


「ちょっと五分……いや十分くらいしたら戻ってくるから、ね?」


最後の「ね?」のところは完全に僕の方を向いて言ってきた。ベテラン看護師が何を意図しているのかはわかっている。おまけに去り際、ベテラン看護師は僕に向かってグッドサインをしてきた。


病院の屋上。夜景。花火。付き合って半年以上の彼女。二人きり。舞台は完全に整ってしまった。このタイミングで出来なければ、おそらく僕は一生、男になれない。


さてさて、どう切り出そうか。もう花火を愛でる余裕はなくなっていた。隣に立つ渡辺は、真っ直ぐな眼差しで花火の方に顔を向けている。やっぱりこういう時のためにも、恋愛漫画に目を通しておくべきだった。


何も行動出来ないまま、時間だけが経過していく。このままだと、ベテラン看護師が戻ってきてしまうではないか。僕は覚悟を決めた。


「京香――」


僕は彼女の方を向いて、初めて彼女を下の名前で呼んだ。彼女は気づいていないのか、じっと花火のほうを見ている。


「京香――」


僕は彼女の腕を掴んで、無理やりにでも気づかせようとした。彼女は少しよろけたが、ようやく僕の方に体を向けてくれた。


「――聞こえてる」


彼女の声は何だか怒っているようにも聞こえた。目線は僕の足元に落としている。


花火の音がこだましても、そちらの方に見向きもしなくなった。


「目、つぶって」


彼女は素直に従ってくれた。僕は彼女の肩に手をやって、恐る恐る顔を近づけていく。息を止めて、そっと彼女と唇を合わせる。柔らかな感触が微かに伝わってきた。


彼女から顔を離し、彼女を見つめる。彼女は頬を赤らめていた。僕も彼女と同じところに熱を感じていた。


ただ、彼女はそれだけではなかった。目に涙を浮かべていたのだ。


「もしかして、嫌だった……?」


僕は不安に思ってそう聞いた。


彼女はブンブンと首を横に振って答えた。


「い……嫌じゃないよ」


その時初めて、彼女は僕に対して、あの真っ直ぐな眼差しを向けてくれた。彼女の澄んだ瞳に見つめられて、僕は思わず息を呑んだ。そのまま吸い込まれるように彼女を抱きしめていた。浴衣の肌触り、香り、すべてが心地良かった。


サッカーのこと、進路のこと、そんなのどうでも良いではないか。僕にとって彼女のそばにいることが一番幸せなのだ。二回目のキスは、彼女のぬくもりを感じられるものだった。



花火大会が終わり、僕は京香を病院の玄関まで見送りに行った。


「遅いから親に迎えに来てもらえばいいのに」


そう言ったのだが、京香は一人で帰るらしい。


「気をつけてね」僕が手を振ると、「末永君こそ、お大事に」京香も手を振り返してくれた。


やっぱり僕に対しては末永君のままか。ちょっぴり残念にも思ったが、そういうところも彼女らしい。


京香が帰った後、僕はベテラン看護師のもとに再度お礼を言いに行った。


「そんなことより、私からのパス、ちゃんと決めてくれた?」


ベテラン看護師はボールを蹴る仕草をして、僕にそう聞いてきた。


「一応、サッカー部なんで」


僕がそう答えると、ベテラン看護師は恥ずかしそうに口に手を当てて微笑んでいた。



退院の日、ベテラン看護師は本当に自身の高校時代の卒アル写真を僕に見せてきた。


「これが私で、これが……」


同じクラス写真に写る男の顔を指さす。


「これが、私の旦那ね」


ベテラン看護師は少し照れた感じで、僕にそう教えてくれた。


「あなたも京香ちゃんのこと、大切にしてあげるのよ」


そう言って、僕を病院から送り出してくれた。

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