第26話 どん底
看護師さんに車椅子を押してもらい、僕と母は診察室を後にした。廊下に出たところで、長椅子に座るジャージ姿の男が目に入った。サッカー部の監督だ。わきには部室に置いてきた僕の通学リュックが見える。
「末永――」
監督も僕の姿に気付いたようだ。立ち上がってこちらの方に近づいてくる。僕に話しかけようとする前に、隣に立っているのが母だと認識したらしい。お互いに挨拶を交わしている。母と監督が話しているのを聞いて、僕がとりあえず今日から数日は入院することがわかった。
二人の話が一区切りついたようで、監督が僕の目の前にやってきた。車椅子に乗った僕の目線の高さに色黒の顔が現れる。僕は同情顔の監督を予想していたが、それは外れた。監督は僕を励まそうと、明るい顔をしてみせた。
「末永、何暗い顔しているんだ。お前まさか、選手権予選は諦めたように思っているんじゃなかろうな。確かに、九月の予選トーナメントには間に合わないかもしれない。だけどお前も知っている通り、選手権予選は期間が長いんだ。決勝トーナメントは十月に入ってから、ベスト四まで勝ち上れば十一月に試合がある。全国大会は十二月からだが、末永がチームにいなければ全国にはいけない。大事な局面で必ず、お前の力が必要になるんだ。だから、決して諦めてはいけない。『諦めたらそこで試合終了』これは俺の座右の銘だ」
そう言って僕の肩を掴んだ。たしか監督は、四十代の半ばを過ぎた年齢、スラムダンクに影響を受けた世代なのであろう。この年代は、情熱的な人が多い気がする。
監督に指摘されたことは図星であった。僕は選手権予選を、もう諦めたものと捉えていた。怪我自体が治っても、そこから元通りにプレーできる状態に戻すまでにはどのくらいの時間が必要か。一週間やそこらでは到底足りない。最低でも一か月は要するだろう。そうなってくると、実践復帰までは三から四か月かかると計算できる。つまりそれは、十月から十一月辺り……
たしかに、決勝トーナメントには間に合うかもしれない。監督が言ったことは、僕を単に元気付けるためのでたらめではなかったのだ。
諦めたらそこで試合終了。自分が諦めない限り、可能性はまだ残されている。スラムダンクを読んだことのない僕であるが、その言葉に気持ちが救われた。
「寝る時もコルセットってつけた方が良いの?」
ベッドの横で着替えの整理をしている母親に尋ねる。
「寝る時と入浴する時は外すようにって、先生おっしゃってたわよ。聞いてなかったの?」
「正直、何言われてたか全然覚えてないや」
僕は腰に装着したコルセットを外そうとした。
「伊織は頑張りすぎちゃったのね。先生がおっしゃってた。この怪我はオーバーユース、つまりは練習のし過ぎが原因でなりやすいって」
母は僕がコルセットを外すのを手伝ってくれた。僕のせいで病院と家を行ったり来たりさせている。
「手術、受けた方が良いのかな?」
「そのことは、また明日になってから考えましょ。とりあえず今晩は、ゆっくり休むことが最優先よ」
母は僕が横になると、寝られそうか聞いてきた。横向きの体勢だと、痛みも感じない。ただ寝返りを打つのは危ない気がする。
母は今日のところは一旦帰るそうだ。明日はお父さんも一緒に来るから、そう言って病室を後にした。
病室の消灯時間まではまだ時間がある。ベッドの脇にはテレビが置かれているが、電源を点ける気にはならなかった。目を閉じることもせず、ぼんやりとパーテーションを見つめていた。
監督の言葉で持ち直しかけていた僕の気持ちは、ここにきて再び急降下している。あれだけ頑張ってきた左足でのシュート練習が、すべて水の泡になったのだ。慣れない左足での動作が、腰に余計な負担をかけてしまった。
本当に選手権予選に間に合うのだろうか。そもそも、チームが決勝トーナメントにまで勝ち上がってくるとは限らない。勝ち上がったとして、僕が決勝トーナメントからメンバー入りすることをチームメイトはどう思うだろうか。
試合に出られたところで僕にはイップスがある。しばらくの間練習が中断される以上、左足からのシュートの精度を高めることはできない。結局、右足一本でイップスを誤魔化しながらプレーするしかないのだ。
先のことを考えれば考えるほど、気持ちが沈んでいく。サッカーの強豪大学からスカウトを受けることはもう無理だろう。一体何のために、今までサッカーを頑張ってきたのだろうか。
どうして――どうして――
サッカーの神様は僕のこの哀れな姿をみて、どう思うだろうか。可哀そうに思ってくれるなら、今すぐこの怪我を治してくれないか。こんなのあまりにも不公平だ。僕はチームの誰よりもサッカーに対して真摯に向き合ってきた。それなのに、なぜ……
やり場のない悔しさと怒りに、目から涙がにじみ出ていた。
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