第5話「新たな来客」
琴子の告白から二日が過ぎた。陽子は祖母の日記を読み返しながら、この不思議な状況を受け入れようとしていた。
「いらっしゃいませ」
午後の静かな時間、スーツ姿の若い女性が入ってきた。どこか疲れた様子で、窓際の席に座る。陽子が近づくと、女性の周りに濃い靄のようなものが見える。最近、こういった不思議な視覚も増えてきた。
「アイスコーヒーを...」
注文を受けながら、陽子の中に女性の疲労感が強く伝わってきた。会社でのプレッシャー、人間関係の軋轢、家族への申し訳なさ...。
「お客様、よろしければ、お茶にされませんか?」
思わず声をかけていた。女性が少し驚いた表情を見せる。
「実は今日、とても良い煎茶が入りまして」
「...そうですね、では」
陽子は实相院の煎茶を丁寧に淹れた。湯気が立ち上る中、またあの感覚が訪れる。祖母が兵士たちにお茶を出していた光景。疲れ切った表情が、一杯のお茶で和らいでいく様子。
お茶を差し出すと、女性はその香りを深く吸い込んだ。
「なんだか...懐かしい香りですね」
「祖母から教わった淹れ方なんです」
一口飲んだ瞬間、女性の肩から力が抜けていくのが分かった。周りの靄が少しずつ晴れていく。
「不思議...」
女性が呟く。
「こんな気持ちになれるなんて。実は今日、退職届を出そうと思っていたんです。でも...」
話し始めた女性の言葉に、陽子は静かに耳を傾けた。仕事の問題、家族のこと、将来への不安...。すべてを話し終えた時、女性の表情は明らかに晴れやかになっていた。
「ありがとうございます。また来てもいいですか?」
「はい、もちろんです」
女性が帰った後、店内に琴子の気配を感じた。
「上手ね」
「白藤さん...」
琴子の姿が薄く浮かび上がる。
「でも、まだ始まりよ。この温泉街には、もっと多くの魂が迷っているわ。あなたのお茶と、その優しさが必要とされている」
陽子は窓の外を見た。夕暮れ時の温泉街を、浴衣姿の人々が行き交っている。その中に、どれだけの人が心の傷を抱えているのだろう。
「あなたには、きっとできる」
琴子の声が、風のように消えていった。陽子は立ち上がり、新しい茶葉を用意し始めた。明日も、誰かの心に寄り添うお茶を淹れるために。
カウンターの上では、白い椿の花びらが、静かに舞い落ちていた。
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