第2話「残り香」



翌朝、陽子は早めに店に入った。昨日のことが夢だったのかと確かめるように、琴子が残していった写真を何度も見つめる。しかし写真は確かにそこにあり、祖母と琴子の若かりし日の笑顔が、今も変わらず温かく微笑んでいた。


「おはようございます!」


元気な声と共にドアが開き、アルバイトの鈴木理沙が颯爽と入ってきた。


「あ、陽子さん、早いですね」

「ええ、ちょっと気になることがあって」


陽子は迷った末に、写真を理沙に見せた。


「わあ、素敵な写真ですね。陽子さんのおばあさまですか?」

「そう。でもね...」


言いかけた時、店内の照明が突然明滅した。理沙が「あれ?」と首を傾げる。先日新品に替えたばかりのはずなのに。


「最近、電気まわりが少しおかしいのよ」

「え?そうなんですか?」


理沙がレジを確認しようとした瞬間、カウンターの上に置いてあった白い椿の花びらが、風も無いのに一枚、ふわりと舞い落ちた。


その時、風鈴が涼やかに鳴り、初老の男性客が入ってきた。


「いらっしゃいませ」


陽子が声をかけると、男性はゆっくりとカウンターに近づいてきた。


「懐かしい香りがするねえ」


男性は深く息を吸い込んだ。


「实相院(じっそういん)の煎茶かな?」


陽子は驚いて目を見開いた。確かにその通りなのだ。実相院の煎茶は、昨日の琴子に出したものと同じ。


「よくご存知ですね」

「ああ、私の母が好きでねえ。よくこの店で飲んでいたんだ」

「え?」


陽子は思わず聞き返した。カフェ『澪』は開店して一週間しか経っていない。しかし男性は、まるで何十年も前からここに店があったかのように話を続けた。


「そうそう、白藤さんとよくお茶を楽しんでいたって」


白藤——琴子の名字だ。


「すみません、その白藤さんというのは...」

「ああ、白藤屋の女将さんさ。母とは親友同士でね。もう半世紀以上前の話になるかな」


陽子の動揺を察したのか、男性はにっこりと微笑んだ。


「君も感じているだろう?この建物には、人々の想いが染み付いているんだ。特に、お茶を愛した人たちの」


その言葉に、陽子は昨日の琴子の言葉を思い出した。「この建物には、不思議な記憶が染み込んでいる」——。


男性は丁寧にお茶を飲み干すと、静かに立ち上がった。


「素敵なお茶をありがとう。母も、きっと喜んでいると思うよ」


そう言い残して男性が去った後、店内には深い静寂が漂った。が、その静寂は心地よく、まるで誰かが優しく微笑んでいるような温かさを感じさせた。


理沙はずっと黙って様子を見ていたが、ようやく口を開いた。


「陽子さん...さっきのお客様、お会計...」

「え?」


はっとして思い返すが、確かに会計をしていない。慌ててレジを見ると、そこには既に一枚の千円札が置かれていた。新品のはずのお札は、どことなく古びていて、かすかに懐かしい香りを漂わせていた。


窓の外では、朝の温泉街を下駄の音が遠ざかっていった。

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