『光の守り人 ~温泉街の不思議なカフェで癒やしの一杯を~』

ソコニ

第1話「不思議な来客」

カフェ『澪』の朝。


朝もやの立ち込める温泉街に、かすかな焙煎の香りが漂い始めた。


「よし」


星野陽子は、古びた木製の扉を静かに開けながら、深く息を吸い込んだ。築百年の古民家は、今日からカフェ『澪』として新たな一歩を踏み出す。濃い茶色の床板が、朝日に照らされてほんのりと温かみを帯びている。


祖母が残してくれたこの建物で、カフェを開くことを決めたのは半年前のことだった。都会での広告代理店生活に疲れ果て、ふと思い出したように訪れた温泉街。そこで見た、夕暮れに佇む古民家の姿が、不思議なほど懐かしく感じられた。


「おばあちゃん、見ていてね」


カウンターに飾った古い写真に微笑みかけ、陽子はエプロンを結び直す。写真の中の祖母は、若かりし日の看護師姿で、凛として優しい表情を浮かべている。


朝の仕込みを始めようと厨房に向かった時、ふと背筋に冷たいものを感じた。振り返ると、カウンターに置いていた白い椿の花が、一枚だけ花びらを落としている。そして、どこからか聞こえてくるような...誰かの寄り添うような気配。


「気のせいかな...」


首を傾げながらも、陽子は花びらを丁寧に拾い上げた。温かな朝の光が差し込む店内に、時計の秒針の音だけが静かに響いている。


やがて通りには、朝の散歩を楽しむ浴衣姿の宿泊客たちが現れ始めた。石畳を歩く下駄の音が、どこか懐かしい温泉街の朝の訪れを告げている。


陽子は紺色の暖簾を掛け、店の前に立つ。白壁に映える「澪」の文字が、朝日に照らされて輝きを帯びていた。温泉街の路地に、コーヒーの香りが少しずつ広がっていく。


この瞬間は、彼女の人生の大きな転換点となることを、まだ誰も知らなかった。





開店から一週間が過ぎようとしていた。


「いらっしゃいませ」


午後三時、来客の少ない時間帯に、風鈴の音が涼やかに響いた。


入ってきたのは、七十代くらいの女性。白地に淡い青の絣模様の着物姿で、凛とした佇まいが印象的だった。陽子は一瞬、その立ち姿に見覚えがあるような気がして足を止めた。


「あら、開いていて良かったわ」


女性は、まるでずっと以前からの常連のように、窓際の席に静かに腰を下ろした。陽子は不思議な既視感を覚えながら、オーダーを取りに向かう。


「お飲み物は...」

「あら、私のために、もう淹れてくださっているじゃありませんか」


女性は微笑みながら、カウンターの向こうを指さした。そこには確かに、誰かの注文を受けた覚えもないのに、湯気の立つ急須が一つ。しかも、陽子が今朝仕入れたばかりの、まだ誰にも出していない最高級の煎茶が淹れられていた。


「あの...これは...」


困惑する陽子に、女性は優しく微笑んだ。


「この建物にはね、不思議な記憶が染み込んでいるのよ。あなたのおばあさまも、そのことをよくご存じだった」


陽子の背筋がゾクリとした。祖母のことを、この人はどうして...?


「失礼ですが...」

「私のことは、白藤琴子と申します。かつて、このあたりでは『白藤屋』という旅館を営んでおりました」


琴子と名乗る女性は、ゆっくりとお茶を口に運んだ。


「美味しいお茶をありがとう。ちょうど、私の好みの温度」


そう言って琴子は立ち上がった。陽子が慌てて声をかけようとした時、レジの電源が突然落ち、店内の照明が一瞬ちらついた。


「あら、ごめんなさいね。私が近づくと、時々こんなことが起きるの」


さらりとそう言い残すと、琴子はすっと出口へ向かった。


「また来ますわ。その時は、もっとゆっくりお話しましょう。あなたの...その力のことも含めて」


風鈴が再び鳴り、琴子の姿は消えた。陽子はその場に立ち尽くしたまま、窓の外を見つめた。夕暮れの温泉街に、どこからともなく花の香りが漂ってきた。


カウンターに戻ると、琴子が座っていた席に一枚の古い写真が置かれていた。そこには若かりし日の祖母と、着物姿の女性が写っている。温泉街の古い通りを背景に、二人は楽しそうに笑っていた。写真の隅には達筆な文字で、「昭和二十年 春」と記されていた。


陽子の心臓が大きく波打った。これは、確かに先ほどの琴子その人。しかし、この写真が撮られたのは、もう七十年以上も前のことなのに——。


外では、夕暮れの参道を下駄の音が遠ざかっていった。

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