ストームグラス観察日記

堂本 三つ葉

第1話

 暗闇を切り裂く轟音ごうおんで少年は目を覚ました。不規則にまたたく白い光がカーテンの隙間から漏れ、天井に不気味な影が伸びる。

 顔を強張らせた少年は布団の中に潜り込み体を丸くした。雷鳴がとどろくたびに丸い塊は小さく震え、二段ベッドをギシリと揺らす。

 静けさを取り戻した室内に顔をそろりとのぞかせた少年がほっと息をついたその瞬間。青白い光が走る。少年の目に涙が浮かんだ。再び暗闇に沈んだ室内で震える指先が梯子はしごつかむ。ゆっくりと不安定な足で階段を下りる小さな影を光と音が責め立てていた。床に到着したその足で、少年はそのまま二段ベッドの下段のふくらみに体を乗り上げた。

 「お兄ちゃん……かみなりこわい」

 「……うぅん?……なに?……まだ四時前じゃん……」

 「かみなりこわい」

 「かみなり……? だいじょうぶだろ」

 「だいじょぶじゃない……いっしょにねていい?」

 「ん~……」

 不明瞭な声を出しながら兄と呼ばれた高校生ほどの青年は、片手で布団を持ち上げ、少年を招く。逃げるようにその中に潜り込んだ少年は、温かな暗闇に包まれて朝まで眠った。

 

 開かれた窓からのぞくのは、雨に散らされたのだろう、僅かに残る桜の花。雨上がりのしっとりした空気が部屋へと吹き込み、柔らかな光が辺りを照らす。壁にはサッカー選手のポスターやユニフォームが掛けられている。

 青年の布団の中から、少年はトレーニングウェアに着替えている青年を見つめる。目があった青年は片眉を上げ、明るい声で話しかけた。

 「んで、急に布団に潜ってきて何だったんだ。明け方に起こされたから、兄ちゃんちょっと寝不足気味だぞ~?」

 「……ごめん、なさい。……かみなりが、こわかったから」

 「雷……? あ、なんかそういえば鳴ってたような……え、そんな怖いか?」

 「きゅうに光るし大きな音なるし……バリバリとかドーンってなっててこわい。かみなりがおちてきたらって……」

 「あ~……。そうか。確かに、兄ちゃんもコートで雷が鳴り始めたらむっちゃ怖いわ。落ちたら危ないから練習や試合も中止になるし」

 青年は顔をしかめたが、少年の顔を見ると慌てた様子で続けた。

 「でも、家とか建物の中で見る分にはピカって空にギザギザが光るのカッコいいし結構面白くないか? むしろ楽しいというか……だめか」

 布団をぎゅっと固く握り少年は口を一文字に結ぶ。眉を下げた青年は、ん~、あ、えっと確かこのあたりに……とつぶやきながら自身の机の引き出しの中をしばらく漁る。あった、と笑いながら雫型しずくがたのガラスの物体を取り出した。

 「ほら、これ前に俺がじいちゃんからもらったやつなんだけどお前に貸してやるよ。ストームグラスっていって天気によってガラスの中の白い結晶の形とかが変わるんだ」

 青年の右手の上で光を受けて輝く透明なそれに少年の目が釘付くぎづけになる。もぞもぞと布団の中から体を出せば裸足がぺたりと床を鳴らした。

 「雷とか雪とか、そういうちょっといつもと違う天気の時には多分珍しいのが見られたはず」

 ちょこちょこと小さく体を揺らしながら近づいた少年の右手を、青年は下から支えるように左手で包む。そっとストームグラスをその手の上に載せた。手を離した青年に少年が慌てて自身の左手もガラスに添えると中の水がゆらりと揺れる。

 「レアなやつとか見られるかもって思ったら雷だってワクワクしないか? 兄ちゃん、また明日から学校の寮に戻るし、また雷が来ても一緒に寝てやれないからさ。だから、お前が少しでも雷が怖く無くなるように、な?」

 青年はくしゃりと少年の頭をでて口角を上げる。すると、ピピピピと青年の左手のスマートウォッチが電子音を鳴らした。

「……あ、それの観察日記とかつけてみる? そんで、俺が今度帰省した時に見せてよ。じゃ、俺ちょっと走ってくるからまた後でな!」

 鳴り続ける音に急かされるように青年は部屋を慌ただしく出ていった。新品のノートもその辺にあるから、と言いながら遠ざかる青年の声。少年は両手で包み込んだガラスの中で踊る白い結晶をじっとみつめる。少年が窓辺に近づいてストームグラスを空にかざすと、光を受けて結晶が淡く輝いていた。

 ――3月29日 晴れ ガラスのそこに白いかたまり


 薄暗い空の下、小雨が窓を柔らかくたたき透明な線や円を様々に描く。窓のしずくが街灯を受けて白く輝き、大小のいびつな円が重なっては離れる。窓際で流れ落ちる水滴を目で追っている少年の背後でがちゃりと音がした。少年が振り返ると、扉の前で石けんの香りを身にまといれた髪をほほに張り付かせた青年の姿があった。空気の変化を感じ取ったのだろう。室内を快適な気温と湿度に保っていたエアコンが静かに音を鳴らし始めた。

「お兄ちゃん! 今日は中学校の時の友だちと花火大会に行くんじゃなかったの? 花火は雨で中止だけど、どこかで遊んだりとか」

 青年の姿に声を弾ませた少年が、小首を傾げて尋ねた。青年は室内に足を進めながら首にかけたタオルで荒っぽく髪を拭きつつ答える。

「大丈夫。あいつらは受験勉強の息抜きで、俺は休息日でたまたま予定が合ったから花火でも見るかってなっただけだし。雨でしかも夜じゃあ遊ぶって言ってもな~。お互いやりたいこと違いすぎるし。だからまた別の日に遊ぼうぜってなってさ。早く解散して暇になったからちょっと走ってきた」

 きゅっきゅと床が鳴り、その上にはれた足跡。後ろに続く自身の足裏の形でれたフローリングに気付き青年はやべっと慌てながら手に持ったタオルで拭き取るも、湿気ったタオルではほとんど効果がなかったらしい。見なかったことにしたのか、体を起こして何事もなかったかのように少年に笑いかけた。

 「前に電話で観察日記つけてるって聞いたし。帰ってからちゃんと時間取れてなかったけど、あれ、見せてくれるんだろ?」

 約束。そう指差す先には少年の学習机に置かれたストームグラスとノート。その言葉にほほを緩ませた少年はその2つをしっかりと両手に抱え、狭い室内を小走りで兄に駆け寄った。

 青年の机の上にストームグラスが置かれ、ノートが広げられる。椅子に座った弟の頭上から青年は立ったままそれらをのぞき込んだ。

 小さく白い右手の指が一枚一枚ゆっくりとページをめくる。ノートに踊る拙い文字。その上を時折、小麦色のがっしりとした指がなぞる。ページをめくるごとに解説の幼い声に熱が入った。

 「――それでね、夏休みに入ったから朝と夕方だけじゃなくてお昼もかんさつできるようになったんだよ! この前、お昼にけっしょうの形がかわったなって思ってたら夕立があったし。最近は、お昼や夕方はどんな天気になるかなって予想してるんだ」

 「へ~! すごいな。最初の方のページに比べて書いてる内容もどんどん増えてるし……。あ、絵も入ってわかりやすくなったな。これ、自由研究とかに……」

 熱心に話す少年に目を細めながらうんうんと相槌あいづちを打っていた青年の顔がふと引き締まった。青年の視線の先には重ねられた自身の解きかけの問題集。日に焼けた青年の腕と真っ白な少年の腕。居心地の悪そうな顔をした青年は真面目腐った声で告げる。

 「……宿題はちゃんとやっとけよ~? あと、お前、友達と外で遊んだりプール行ったりしてる? 夏なのに全然焼けてないじゃん」

 「宿題はちゃんとしてるもん。……けど、プールとか外で遊んだりはしてない。……暑いし」

 「え~体を動かすのも楽しいぞ? あ、兄ちゃんとサッカーする?」

 「しない」

 そっか、としょんぼりとした青年を気にした様子もみせず、少年のはしゃいだ声が室内にしばらく響いていた。

 ――8月20日 ●天気:朝(晴れ)。昼(くもり)。夜(雨)。●ストームグラス:朝:けっしょうがそこでかたまってる。昼:小さなつぶがいっぱい。水が全体的に白い。夜:昼より大きいつぶ。けっしょうが朝より高いところまで大きくなっている。


 強い日差しがレースカーテンの柄に濃い影を床に描く。冷房がきいたリビングはコーヒーとバターの溶けた香りが漂い、机の上には色彩の豊かな朝食が並んでいた。

 薄く焼き目のついたトーストの脇にはいちじくジャム。鮮やかなオレンジ色と白が対比する目玉焼き。ミニトマトやブロッコリーが鮮やかだった。切り口から滴る果汁でれた梨がガラスの平皿に載せられいる。

 牛乳を飲む少年の目の前では台風の進路予想図と気象予報士の解説がテレビで流れていた。

 「――地域に接近する見込みです。今後の最新の予想進路にご注意ください」

 「おかーさーん! 土曜か日曜に台風が来るって~」

 「え! それは困ったわね……」

 「ね~。学校がある日に来ればいいのに。あ、でもストームグラス、見たことないけっしょうができるかも!」

 明るい声の少年に何かを言いかけ、しかし女性は一旦口を閉じる。結局、そうね、楽しみねと眉尻を下げて小さく笑った。

 朝食をのんびりと食べ終えると少年はご機嫌で部屋に戻った。机の上のノートをランドセルにしまい女性のいってらっしゃいの声に元気よく返事をして玄関を飛び出していった。


 夕方の日差しが窓を通りオレンジ色に玄関を染める中、少年は廊下に両膝を抱えて座っていた。その横には放り出されたままのランドセル。

 ぼんやりした様子で床を眺めている少年の目の前で扉がゆっくりと開く。

 「ただいま~。……わっ、びっくりした。……どうしたの? 何かあった?」

 女性の心配する言葉から逃げるように少年は顔を膝に埋めた。

 「……お兄ちゃんと電話したい」

 「……ごめんね。お兄ちゃん、大切な試合の前で、今すごく頑張ってサッカーしてるの。だから、多分疲れちゃってて夜はお話できないかもしれないわ。日曜日まで待ってあげられる?……ごめんね」

 小さな声で口にされた願いに、柔らかな謝罪と否定が返る。

 「……ううん。……わかった」

 顔を下に向けたまま少年が立ち上がる。強く握られたランドセルがぎちりと音を立てた。

 「お母さんでもお話聞けるよ?」

 心配そうな声に小さく首を左右に振り、少年は無言のまま兄弟の部屋へと重い足取りで引き上げる。部屋に戻りランドセルから教科書やノートを取り出していると、少年の手がふと止まった。

 表紙に「ストームグラスかんさつ日記」と書かれたノートには足跡が1つ。

 部屋の中が夕暮れ色から薄闇へと変わる中、小さく鼻をすする音が空気に溶けていった。


 鈍色の雲が空一面を覆い、横殴りの白く太い雨が地面をたたきつける。低くうなる暴風が庭の桜の木を激しくあおり、断続的に窓を揺らした。テレビでは台風の予想進路や各地の降水量、風速が絶え間なく映され、中継先の避難した人々のコメントが流れていた。

 「……お兄ちゃんの試合、大丈夫かな」

 「試合の場所は台風がそれて通過したから無事に開催されたみたいよ」

 「……じゃあ、もう少ししたら電話してもいい?」

 不安に揺れる声で少年が女性に尋ねる。

 「そうね、きっとお兄ちゃんからも連絡が来るからその時にでも……あら、ちょうどお兄ちゃんからだわ」

 女性は震えるスマートフォンを耳に当てて柔らかな顔で会話を始めた。

 不意に息をむ。

 「……それで、先生はなんておっしゃってるの? ……そう。……えぇ。……もちろん。大丈夫よ。今はゆっくり休みなさい。それじゃ……」

 女性は強張った顔で、しかし一度息を小さく吐くと落ち着いた声で話を続けた。

 そのまま電話を切ろうとした女性に慌てて近づいた少年が彼女の服を小さく引く。

 「あ、この前からお兄ちゃんと話したいって言ってたんだけど、もう少し後か別の日にする? ……そう? えぇ、今替わるわ」

 あまり長く話しすぎないようにね、と言いながら女性は少年にスマートフォンを手渡した。

 スマートフォンを握りしめて少年は急ぎ足で兄弟の部屋へと移動すると扉を勢いよく閉める。

 薄暗い部屋の中、スマートフォンの光だけが周囲をぼんやりと照らす。少年は扉の前でしゃがみ込み、スピーカーに切り替えるとそっと声を出した。

 「お兄ちゃん、あのね……あの……」

 「……どうした? 何かあった?」

 「……あ、えと。……その。お兄ちゃんこそ……何かあった、の?」

 どこか疲れのにじんだ青年の声に、少年は戸惑って聞き返した。

 「……ん~。……そうだなぁ。……今日の試合でさ~。怪我、しちゃったんだよね」

 ――んで、試合は負傷退場。

 さらりとした声で軽く告げられた内容に、少年は目を見開く。

 一度こぼれ落ちた言葉を呼び水に、青年はぽつりぽつりと話し始めた。

 普段より軽い体。足元に届いたボール。振り切った足。揺らしたゴール。駆け抜けた芝の硬さ。競り合いの衝撃。視界いっぱいの青空と……学校推薦が、難しくなったかもしれないこと。

 宙に消えた最後の一音は小さくかすれていた。

 数秒の沈黙の後に、青年ははぁっと振り切るように短く息を吐く。

 「あとチームメイトとなぁ……」

 「おにいちゃんも、友だちとケンカしたの?」

 困ったように漏らされた青年の言葉に、少年がふっと反応した。

 「いや、喧嘩けんかじゃないけど。お互い気まずいっていうか。……も、ってことは喧嘩けんかしたんだ?」

 「……」

 沈黙が横たわる。バチバチと窓をたたきつける雨音が室内に響く。やがて、少年は訥々とつとつと語り始めた。

 体育の授業でサッカーをやることになったこと。着替えている時に台風の話が出たこと。ストームグラスで珍しい結晶の形が見られるかもしれないと話したこと。友人が急に怒り出したこと。喧嘩けんかしてから口を利いていないこと。……仲直りの仕方がわからないこと。

 あちらこちらに話が飛ぶ少年の話。それを遮らずに相槌あいづちを打っていた青年がふと疑問を口にした。

 「それ、あの子だろ? 近所のサッカークラブに入ってる子。急に怒るタイプじゃなさそうだったけどな。怒る前に何か言ってなかった?」

 「……台風がくるから、土日にサッカーできないかもって。いやだなって言ってた」

 「それで急に怒った?」

 青年の穏やかな声がその先を促す。

 「…………ううん。早く着がえてサッカーやろって言われた……けど、やだって言った」

 「お前、運動嫌いだもんな~。それで怒ったんだ」

 「う……ち、がう。やだって言ったあと、ノートを見せてストームグラスの話をして……」

 「あー……」

 あきれたような青年の声に少年は上擦った声を上げた。

 「だ、だって! 前も話したことあるし、予想してるって言ったらすげ~って言ってくれたし。……なのに、予想なんかしなくても天気予ほうを見たらわかるじゃんって……」

 ――ぼく、予想するのが楽しいって、どんなけっしょうができるかワクワクするって言ったのに。

 消え入りそうな声はわずかに湿っていた。

 「……それで、なんでそんなこと言うのって、ぼくが……」

 「……僕が?」

 「……ぼくが、本当は先に……おこった。そしたら、オレは台風が来るのいやだって言ってるのに、って言われて」

 「……うん」

 「どんって押されて、ノートが落ちてぐちゃってなって、ふまれちゃって……ケンカした」

 「……そっか。お前、楽しそうに天気の予想してたもんな。その大切なノートを踏まれちゃったらそりゃ怒るわ。……でも、仲直りしたいんだ?」

 優しい声でされた問いに、少年のほほをぽろりと涙が伝う。

 「……ノートふんだの、わざとじゃなかったし。ぼくも、サッカーすごく好きなの知ってるのに、やだって。台風、楽しみって言っちゃったし。…………また、いっしょにあそんだり話したいし」

 「じゃ、仲直りしないとな」

 「うん……。それに、本当は、知ってたんだ。ストームグラスの予想よりも絶対に天気予報の方が当たるって。そういうものなんだっておじいちゃんも言ってたから」

 「じいちゃんが?」

 鼻をすすりながら話された内容に、青年が不思議そうな声を上げた。

 「うん。だけど、ストームグラスは正解のない未知の世界を旅するお供なんだって。だからそれでいいんだって」

 「……あ」

 話しながらだんだんと落ち着いてきた少年の一言に、青年が小さく声を漏らす。

 「えっとね、昔の人が、大きな海を船で行く時は、太陽や星、北極星?を目じるしにしててね。だけど天気や風がどうなるのかはベテランの航海士のカンだったんだって。でもね、それから後の時代だとストームグラスを使ったらちょっと先の天気を予測できるようになったんだって。確実じゃないけど、それでも、危険で大変な海の旅を乗りこえるのに使ったんだぞって。それで、えっと……人生は、か、かいず?」

 「……人生は海図のないまま進む航海だ、だろ? ……昔、じいちゃんが言ってたな」

 続きに詰まった少年の言葉を青年が拾う。

 「……前も、怪我したことあったんだよ。その時はすぐ治ったけど、それでもリハビリしんどかったし。良くなったかと思ってちょっと動かしたら悪化したりして。レギュラー取ったばっかで……色々と不安でさ。その時、ストームグラスをもらって……」

 小さくカタカタと揺れる窓の音に気まずそうな青年の声が重なる。一呼吸おくと青年はゆっくりと語り出した。

「言われたんだ。人生は海図のないまま進む航海だ。……夢に向かって突き進んでも、いつも順風満帆というわけじゃない。嵐の日もあるように、困難にぶつかる時もある。それを必ず解決できる完璧な正解はない。けれど、それを楽しみなさい。乗り越えるための道が1つじゃないことを幸いと思いなさい」

 青年の穏やかな声がスピーカーを震わせる。

「それでも、どうしていいかわからなくなったら。そんな時は、このストームグラスを思い出しなさい」

「……ストームグラスを?」

 スマートフォンの光が届かない薄闇の先。少年の視線が自身の机の上を彷徨さまよう。

「そう。……昔の航海士が、少しだけ先の天気を予測するために、その結晶や模様を書き残した誰かの記録や、自分の過去の記録を役立てたように。周囲を見渡しなさい。周りの人からの助言、本、違う分野にも目を向けて耳を傾けなさい」

 青年は徐々にしっかりとした口調になって言葉を紡ぐ。

 「過去の自分を振り返りなさい。その時の自分の予想や対処、結果はどうだったか思い返しなさい。不確実だとしても、それは未来に向けての助けになるから」

 静かに続けられる言葉。それを聞きながら少年は立ち上がる。ぱちり、と部屋の明かりを点ける。視線をやった机の上にはストームグラスと観察日記があった。

 「調子にのって……忘れてたなぁ」

 青年は寂しさと悔しさが入り混じったような声でぽつり、と零した。

 そしてはーっと長く息を吐いて、ま、思い出したし!とからりと晴れやかに言い切った。

 その声を聞きながら、少年は自身の机を見つめながらゆっくりと近づく。

 「……ねぇ、お兄ちゃん」

 少年は椅子に座るとストームグラスと観察日記の横にスマートフォンを並べた。

 軽く組んだ両腕を机の上にぺたりとつけ、腕の上に顎を乗せる。

 「……けがが治ったら、サッカー教えてくれる? ……それまでは、友だちとサッカーしとくね」

 くぐもった声で告げられたお願いは、嬉しそうな青年の笑い声で快諾された。

 雨風の音は遠く響いていた。

 ――9月14日 ●天気:朝(台風)。昼(台風)。夜(雨と風)。●ストームグラス:朝:見てない。昼:見てない。夜:いつもよりけっしょうが大きくて葉っぱのかたち。台風のえいきょうが残ってる?

メモ:朝から昼はかんさつできてない。今度台風が来たらちゃんとかんさつする!


 灰色の厚く重い雲が空を覆い、窓の外では雪がちらついていた。快適に温められたリビングでは、お味噌汁の匂いが漂い、机の上に並べられた朝食からは白い湯気が立ち上る。

 粒の立った真っ白なご飯。かぼちゃと油揚げのお味噌汁の横にはだし巻き卵。ほうれん草の胡麻和えと人参と蓮根のきんぴらが彩りを添える。数個のみかんが果物籠に載せられていた。

 ご飯をむ少年の目の前ではアナウンサーが天気と交通情報を詳細に報じていた。

 「よりによって今日に雪が降るなんて……。試験会場まで電車とか大丈夫かしら……心配ね」

 「ぼく、前に雪が固まってるところをふんじゃって転びそうになったことあるんだけど、お兄ちゃん大丈夫かな」

 少年が口にした心配の言葉に女性は少し眉をひそめた。

 「転ぶとか滑るとか……あと、落ちるとかお兄ちゃんに言ったらだめよ。縁起が悪いんだから」

 「そうなの? じゃあがんばれってだけスマホで送っておいてくれる?」

 「きっと気合が入るわね。弟に負けられるか~って見たことのないくらい集中して勉強してたし。怪我をしてた時にお世話になった理学療法士さんやトレーナーさんとお話しして、色々と将来について考えたり興味を持ったりしたみたいよ? どうなるのかしらね~」

 「り、りがく……?」

 聞きなれない言葉を聞き返そうとした少年の視界の端でテレビの映像が切り替わる。映し出されたのは宇宙飛行士と船内の様子。その窓からは青い地球がのぞいていた。

 「……? お母さん。うちゅうから見た地球、天気予報でみた写真みたいだよ?」

 「それはそうよ? 天気予報の写真は……気象衛星っていう……えっと、機械が空の上にあって。そこから写真とか撮ってる……んだったかしら。テレビに映ってるのは宇宙飛行士さんが乗ってる宇宙船から見た地球の映像ね」

 「そうなんだ……」

 食い入るようにテレビを見つめる少年。画面では緑色に輝き揺らめくオーロラや地図の形に光り輝く東京湾の夜景、雨雲をあちらこちらで照らす雷、空一面を真っ白に覆う台風と渦を巻くその目を宇宙から撮影した映像が次々と流されていた。

 ――1月16日 ●天気:朝(雪)。昼(くもり)。夜(くもり)。●気温:朝:2度。昼:わからない。夜:6度。●ストームグラス:朝:小さな星の形のけっしょうがたくさん。水が白い。昼:出かけてて見てない。夜:細長い葉っぱの形のけっしょう。

メモ:テレビでうちゅうから見た地球が映ってた。本当にあんな風に見えるのかな?


 朝の爽やかな風に揺れるレースのカーテン。窓の外では七分咲きの桜が花開き、枝の隙間から青空がのぞく。澄んだ空気が室内を通り過ぎて行った。

 部屋の壁紙には周囲よりも薄っすらと白く浮いたポスターの跡が残る。棚付きのシングルベッドには真新しい目覚まし時計。

 ランドセルの掛かる学習机は所々に小さな傷跡があった。空白が目立つその棚の片隅には数冊の本やノート。自身の体には大きいその机に向かって何か書き付けていた少年の手元でスマートフォンが震えた。少年は慌ててスマートフォンをタップすると、スピーカーから漏れる朗らかな青年の声に笑みをこぼす。

 「お兄ちゃん! 一人暮らしはどう? 楽しい?」

 「まだそこまで実感が湧いてないけど、ぼちぼちかな~。寮の部屋より広いし風呂も共同じゃないし、それだけで楽しいっていうか嬉しいわ。食事付きだから全部1人でやってるって感じはないけど。そっちこそ、1人部屋の使い心地はどう?」

 少年は後ろを振り返ってぐるりと部屋を見渡す。

 「う~ん……部屋が広くて変な感じ……」

 「そっか。帰省した時は泊めてくれよ」

 「うん! ……それでね、あの」

 落ち着かない様子で体を元に戻すと少年は机の上のストームグラスの表面をそっとなぞった。

 「……おじいちゃんからお兄ちゃんがもらったストームグラス、本当にぼくがもらっていいの?」

 「いいよ。じいちゃんにもそう言っといたし。それに……もらったときに言われた言葉はもう絶対忘れないから。だから、大丈夫」

 優しく告げられた言葉に少年は目じりを下げてほっと小さく息を吐いた。

 「あ、そういやさ、昨日、家や街の探索するついでに大通りや大きな公園に向かって走ってたら、なんか宇宙センター?があったぞ。最近、宇宙に興味あるって言って――」

 「え! そうなの!?」

 青年の言葉に少年の大きな声がかぶる。はずみで強く押されたストームグラスがぐらりと揺れた。少年は慌てて両手でつかむ。

 「あの、夏休みに遊びに行ってもいい?」

 「いいよ。あ、でも父さんか母さんにOKはもらっといて」

 「絶対もらう! ……あ」

 興奮のまま強く握りしめていた手の中のストームグラスを見下ろして少年はふと首を傾げた。

 手にとった鉛筆を顎に当てて数秒考えこむ。どうした?と尋ねる青年にん~と生返事を返しながらノートに何かを書き込んだ。満足そうに小さくうなずくとノートを閉じる。

 表紙にはかんさつ日記No.2の文字。その片隅にはサッカーボールと地球のシールが貼られていた。シールをなぞりながら少年が口を開くと、自身を呼ぶ女性の声が耳に届いた。

 「……あ。ごめん、サッカーする約束してたんだ。またね、お兄ちゃん! またサッカー教えてね!」

 「もちろん! んじゃ、いってら~」

 青年の軽やかな声に少年は口元を緩めて挨拶を返すと通話を切る。使い込まれたサッカーボールを抱えて少年は部屋を飛び出していった。

 ――3月26日 ●天気:朝(はれ)。昼(  )。夜(  )。●気温:朝:15度。昼:  夜:  ●ストームグラス:朝:底に白い結晶がちんでん。液体は透明。

 メモ:もしストームグラスを宇宙に持っていったら、どんな結晶ができるかな?

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