第2話 夜空に囁く未知の声
冷たい風が吹き抜ける北朝鮮の山間。霧が立ち込め、静寂の中にわずかに響くのは、遠く離れた兵士たちの巡回する足音だけだった。その奥深くに、地図には存在しない巨大な施設があった。光明星研究所と呼ばれるその場所は、最新の宇宙観測技術を備えた国家機密の中心地だった。
キム・ジュノは、薄暗い観測室でひとり端末に向かい、データの解析を続けていた。夜空を照らす星々から微弱な信号が届くたび、端末に細かな波形が刻まれる。だが、ここ数日、観測された信号はこれまでとまったく異なる「何か」を示していた。
「奇妙だ……」
ジュノは呟いた。モニターに表示された波形は一定の周期性を持ち、それは偶然の産物ではなく、明らかに意図的なパターンを示していた。
背後で扉が開き、研究所の主任であるリ・ジョンギルが現れた。彼は冷たい目でジュノを見つめると、無言で隣に立ち、モニターを覗き込む。
「進展は?」
「……まだ解析途中です。ただ、これが自然現象ではないことは明らかです。これは――何者かが送ったメッセージです。」
ジュノの言葉に、リはわずかに眉をひそめた。
「断定は早い。お前の仕事は確実なデータを提出することだ。感情を交えるな。」
そう言い残すと、リは足早に部屋を後にした。
ジュノは小さく息をつき、再び画面に向き直った。しかしその時、端末が突如として強烈な光を発し、モニターの波形が急激に変化を始めた。
「何だ……?」
画面に表示された波形は、これまでのものとは比べ物にならないほど強力だった。それは、まるで人間の脳に直接語りかけるような力を持っていた。
突然、ジュノの頭の中に響く声があった。それは声というよりも、直接思考に触れるような感覚だった。
「お前たちは観測されている。お前たちの未来を、我々は見定めてきた。共に進化するか、滅びを受け入れるか。それを決める時が来た。」
ジュノは頭を抱え、その場に膝をついた。声は脳の奥深くに染み渡るように響き、彼の思考を侵食していく。冷や汗が頬を伝い落ちた。
「誰だ……お前たちは何者だ……?」
答えはない。ただ、思念のような声が再び脳裏を駆け巡った。
「選べ。秩序を受け入れるか、混沌を抱くか。」
その瞬間、施設全体が振動し始めた。警報が鳴り響き、制御室の機械が次々とエラーを起こした。壁に取り付けられたライトがちらつき、研究所の外から低い唸り声のような音が聞こえてくる。
ジュノは必死にモニターを操作し、外部カメラの映像を確認した。その映像は、彼の想像をはるかに超える光景を映し出していた。夜空に浮かぶ一つの巨大な光の塊――まるで空間そのものが歪んでいるように見えた。
「これが……彼らなのか?」
ジュノの胸の奥に、恐怖と興奮が入り混じる感情が芽生えた。
ジュノが異星人の信号を観測してから数日後、彼は最高指導部からの召喚を受けた。秘密研究施設のスタッフである彼が、平壌中心部の地下にある国家最高機密の会議室に呼ばれることなど考えられない異例の事態だった。
会議室に入ると、重厚な長机を囲む軍部や政府の高官たちの冷たい視線が一斉に彼に向けられた。壁には最高指導者の肖像画が厳然と掲げられている。その隣には巨大なスクリーンが設置されていた。
「キム・ジュノ同志、ここへ。」
軍部の司令官であるリ・ジョンギルが硬い声で促した。ジュノは緊張で手に汗を握りながら席に着く。
「君が発見した信号により、我々は歴史的な出来事を迎えた。」
ジョンギルの言葉に続いて、スクリーンが静かに明るくなり、夜空の映像が映し出された。それはジュノが数日前に観測した、異星人の巨大な光体だった。
スクリーンに表示された光の塊は、音声を伴わずに静かに蠢いていた。しかし次の瞬間、部屋全体に低い振動音のようなものが響き渡り、画面上に文字が浮かび上がった。それは明らかに地球の言語ではないが、見ている者の脳裏に直接意味が伝わる感覚を伴っていた。
「地球の指導者たちよ。選択の時が来た。」
部屋中が静まり返る。異星人からの直接的な「提案」は、この場にいる全員の心に恐怖と興奮を呼び起こした。
スクリーンに浮かび上がる文字は徐々に意味を形作り始めた。それは単なる言葉ではなく、思考や概念そのものが伝えられるような不思議な感覚だった。
「我々はお前たちを見守ってきた。この星は進化の停滞に陥り、混乱に満ちている。秩序を受け入れることで、争いを排し、宇宙規模の平和をもたらすことができる。」
「地球は選ばれた。我々が築く新しい秩序の一部となるか、滅びるかを決めるのはお前たち自身だ。」
ジュノはその言葉に息を呑んだ。そのメッセージは確かに論理的であり、未来への希望を含んでいたが、同時に「自由」を否定する冷酷さを感じさせた。
「彼らの言う『秩序』とは一体何を意味するのか?」
思わず問いかけたジュノに対し、ジョンギルが険しい表情で答えた。
「君の解釈に期待しているのではない。我々の役目は、この機会を最大限に利用することだ。」
彼はジュノの腕を掴み、低い声で囁いた。
「北朝鮮こそが、この星で最初に新時代を受け入れる。全ては我が国の栄光のためだ。」
最高指導者は会議の最後に短く演説を行った。その言葉は、北朝鮮が異星人の提案を受け入れることを示していた。
「我々は世界に先駆けて、この機会を掴む。異星人の技術と知識を用い、朝鮮民主主義人民共和国は新しい時代の旗手となる。」
部屋の中で拍手が起きたが、それは明らかに形式的なもので、ほとんどの者が困惑と恐怖の表情を浮かべていた。
会議が終わり、ジュノは一人施設へ戻る途中で思考に沈んだ。異星人の提案は、地球全体に新しい可能性をもたらす一方で、その背後には人間らしさや個性を犠牲にする危険性が潜んでいる。北朝鮮のような統制国家にとっては理想的な提案に思えるかもしれないが、それは果たして「人類全体」のためになるのか?
「彼らの言葉は正しいのか……それともただの支配の理屈なのか?」
ジュノの胸には、未知の存在への畏怖と、それを受け入れるべきかどうかという苦悩が交錯していた。
キム・ジュノは冷たい金属の感触がする長い階段を下りていった。地下深くに位置する光明星研究所の「隔離実験室」。ここは、国家の最重要機密を取り扱う場所であり、異星人から提供された最初の「贈り物」が運び込まれていた。
重厚な扉を開けると、部屋の中央に設置されたガラスのカプセルが目に入る。中には異星人が提供したとされる小型の「思考共有装置」が静かに光を放っていた。それはただの機械には見えなかった。異星人そのものが宿っているかのように、生物的な脈動を感じさせる。
ジュノは震える手で装置に触れた。その瞬間、彼の脳裏に再びあの「声」が響き渡る。
「地球は混沌の中にある。お前たちの自由意志は不協和音を生むだけだ。秩序に従え。我々の道を進むのだ。」
ジュノは即座に手を引っ込めた。呼吸が乱れ、全身に冷たい汗が流れる。異星人の意識が彼の思考を一瞬で圧倒した。装置に触れることで、彼らの「統一思想」が流れ込んでくる仕組みなのだろう。
装置から離れたジュノは、監視カメラのない隅に腰を下ろし、こっそりと端末を操作した。彼が数日前に得た暗号化されたメッセージを解読すると、それは北朝鮮内部の反体制派からのものだった。
「異星人の提案は危険だ。君が見たものを我々と共有してほしい。共に抗おう。」
ジュノはそのメッセージに従い、地下の研究所から外部に通信を送る準備を整えた。だが、その行動は施設の監視システムに感知されてしまう。
ドアの向こうから急速に接近する足音――。ジュノは慌てて端末を隠したが、部屋に踏み込んできたのは意外な人物だった。軍部のエリートで幼馴染のパク・ソニョンだ。
「ジュノ、こんな場所で何をしている?」
ソニョンの目は冷たく、鋭かった。彼女は軍人として異星人との協力を支持している立場だった。
「ただ、装置の調査を……」
ジュノは嘘をつこうとしたが、ソニョンはすぐにそれを見抜いた。
「君が何を考えているのか分かっている。だが、これは国家にとって、いや地球にとっての絶好の機会だ。異星人の提案を拒むなんて考えるべきじゃない。」
「ソニョン、君は本当に彼らを信じているのか? 自由意志を捨てることで得られる平和に価値があるのか?」
「自由意志だって? それがどれほどの混乱を生み出してきたか、君も知っているだろう。異星人が正しいんだ、ジュノ。彼らの道が唯一の解決策だ。」
ソニョンの声には確信があった。しかし、その奥に揺れ動く微かな不安を感じ取ったジュノは、彼女に問いかけた。
「もし彼らの道が間違っていたらどうする? 人類が人類でなくなる危険性について考えたことはあるのか?」
「それでも、混沌に戻るよりはマシだ。」
ソニョンは答えると踵を返し、部屋を出ていった。その後ろ姿を見つめながら、ジュノは拳を握りしめた。
ジュノはソニョンが去った後、再び端末を操作し、レジスタンスへの通信を完了させた。その内容は、異星人の装置の詳細と、それが人間の自由意志を消し去る仕組みを持っているという証拠だった。
通信を送信し終えると、ジュノは装置の前に立ち、手を伸ばした。「装置がどう機能するのか、直接見なければならない」と自分に言い聞かせながら再び触れた。その瞬間、彼の意識は異星人の集合意識に接続される。
ジュノは目を閉じた瞬間、壮大な宇宙の光景を目にした。無数の星々が秩序正しく回転し、それを司るように異星人たちの「思考」が響き渡る。
「我々の道を選べ。秩序の中で、お前たちは初めて進化の可能性を得るだろう。」
その中に微かな声が聞こえた。それは異星人の中でも「統一思想」に疑問を持つ存在、セリニスの声だった。
「彼らに騙されるな。秩序は破壊を生む。彼らの道を拒むことが、お前たち自身の未来を救う唯一の手段だ。」
ジュノはその言葉にわずかな希望を感じ、意識を現実に引き戻した。
ジュノが光明星研究所で異星人の装置に接触し、その脅威を確認してから数日後。彼は初めてレジスタンスの拠点に足を踏み入れた。場所は廃止された地下鉄の駅で、地下深くにある秘密の広間は、かつてない緊張感と熱意に包まれていた。
冷たいコンクリートの壁には、異星人の監視を避けるために古いアナログな地図やメモが張り巡らされている。わずかに灯されたランプの下、数十人の男女が集まり、小声で作戦を話し合っていた。
ジュノを案内したのは、レジスタンスのリーダーであるハン・ミョンスだった。元北朝鮮軍の高官だった彼は、異星人との協力を進める政府方針に反旗を翻し、地下活動を始めた人物だ。
ミョンスはジュノを中央のテーブルに連れて行き、仲間たちに紹介した。彼らは元軍人、技術者、科学者、さらには一般市民まで、多様な背景を持つ者たちで構成されていた。
「同志たち、こちらがキム・ジュノだ。異星人の技術を直接研究している科学者であり、彼らの本質を知る重要な証人だ。」
ミョンスがそう言うと、集まった人々の間にざわめきが広がった。
「ジュノ同志、あなたが知っていることを話してくれ。我々が対抗するための武器を見つける手がかりになるかもしれない。」
ミョンスの言葉に促され、ジュノは異星人の「思考共有装置」について説明し始めた。
「彼らの装置は、接触した者の意識に直接作用し、自由意志を奪います。その過程で、彼らの思想――完全なる秩序の理論が脳に刻み込まれる。これは洗脳ではありません。それはもっと根本的な……人間の本質そのものを作り替えるものです。」
ジュノの言葉に、一同は静まり返った。装置の本質を聞いた者たちは、未知の恐怖に身を震わせた。
ミョンスが口を開いた。
「同志たち、これで明らかになった。我々が戦っているのは単なる侵略者ではない。これは思想そのものとの戦争だ。」
一人の若い技術者が声を上げた。
「だがどうやって立ち向かえばいい? 彼らの技術は我々を遥かに凌駕している。北朝鮮政府ですら彼らに跪いているというのに……」
ミョンスは冷静に答えた。
「まず、我々の目標を明確にする必要がある。第一に、異星人が提供した装置や技術を解析し、その弱点を突く。第二に、異星人の集合意識に分裂を引き起こすことだ。」
その時、ジュノが思い出したように言葉を挟んだ。
「集合意識には、内部に矛盾があるようです。私は装置を通じて、異星人の中でも彼らの思想に疑問を持つ存在――セリニスの声を聞きました。彼らの中にも、分裂を起こせる可能性がある。」
その言葉にミョンスは興味を示した。
「もしそれが本当なら、彼らの支配を崩す突破口になるかもしれないな……。ジュノ、次の任務でその情報を具体的に探り出してもらう。」
作戦会議が終わり、ジュノは部屋の隅で考え込んでいた。そこに一人の女性が近づいてきた。元エンジニアのキム・スヨンだ。彼女はレジスタンスの中でも突出した技術力を持つ人物で、異星人の技術を逆利用する計画を進めている。
「ジュノ同志、あなたは本当に彼らを信じられるの?」
スヨンは真剣な表情で尋ねた。
「彼らとは……異星人のことか?」
「いいえ。レジスタンスよ。異星人と戦うのは正しいことだけど、彼らの目的も必ずしも純粋とは限らない。」
スヨンの言葉にジュノは思わず沈黙した。彼女の疑念は、ジュノ自身の中にも芽生え始めているものだった。
「何が正しいのか、まだ分からない。でも、今は人類として自由意志を守るために戦うべきだと思う。」
ジュノがそう答えると、スヨンはわずかに微笑み、手に持った古びたハードドライブを差し出した。
「これを解析して。異星人の装置に関する情報が入っている。あなたの力が必要よ。」
ジュノは頷き、その小さな記憶媒体を慎重に受け取った。
ミョンスがジュノの肩を叩き、別室へと誘導した。そこには、次のミッションの計画が詳細に記されたホログラムが投影されていた。彼らは次に、異星人の主要な通信装置が保管されている場所に侵入し、直接的な接触を試みる作戦を立てていた。
「準備はいいか、ジュノ?」
ミョンスの問いに、ジュノは静かに頷いた。
「これが人類の未来を守るための第一歩だと思うなら、やるしかない。」
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