第2話 夫婦の始まり
「スペンサー邸だ。今日から君もここで暮らすことになる」
馬車が止まり、不安そうに外を窺っていた少女にアイザックはそう声をかけた。
少女は混乱したような困惑したような表情でそろりと振り向き、ほんのかすかに頷いてうつむく。まだ顔は蒼白で、膝の上で重ね合わせていた小さな手にも力がこもり、ひどく緊張していることが見てとれる。
アイザックは先に馬車を降りると中にいる少女に手を差し伸べた。彼女は戸惑いながらもその手をとると、ロング丈でボリュームのあるウェディングドレスに四苦八苦しながら、おぼつかない足取りで馬車を降りた。
「お帰りなさいませ」
スペンサー邸に入るとすぐに別々の部屋に連れていかれて、私服に着替えさせられる。
少女——アリアは女性なので支度に時間がかかるということで、使用人に促されて先に居間へと向かった。そこには一足先に帰宅した母のイザベラがソファに座っていた。
「お疲れさまでしたね」
「父上とショーンは?」
「仕事です」
向かいの二人掛けソファに腰を下ろしながら、アイザックは溜息をついた。
おそらく逃げたのだろう。この結婚は王命なので受け入れるしかなかったが、二人とも納得していなかった。父は厄災の姫を押しつけられたと嘆いていたし、弟は貧乏くじを引かされたと怒っていた。
「そのうち気持ちに整理をつけるでしょう」
母もわかっているはずだが、何でもないかのようにそう言って紅茶を口に運んだ。
「アリア、こちらにいらっしゃい」
着替えたアリアが姿を見せると、母は満面の笑みでアイザックの隣に座るよう促した。アリアはぎこちなく会釈し、二人掛けソファの端のほうにおずおずと腰を下ろす。
「もうすこし近づきなさいな」
「あ……はい……」
言われるまま、彼女はすこしだけ中央寄りに座りなおした。
ドレスは母が用意したのだろう。装飾は少ないが形のきれいな瑠璃色のそれは、子供っぽくなく、大人びてもなく、十歳の少女である彼女によく似合っていた。
「アリア、あらためて紹介するわ。隣にいるのがあなたの夫のアイザックで、わたくしは母のイザベラよ。あなたにとっては義母ね。これから家族として仲良くやっていきましょう」
「よろしくお願いします」
母の友好的な言葉に、アリアは幾分かほっとしたように表情をゆるめた。母もそれに応じるようににっこりと笑みを浮かべた。
「ところで、あなたはなぜ結婚させられたかおわかりかしら」
「えっと……それ、は…………国王陛下の子供、だから……?」
「そのとおり」
アリアには何の説明もなく結婚を命じたと聞いている。だが噂を知っていれば、その推測にたどりつくことはさして難しくないだろう。母は頷き、向かいの彼女をまっすぐ真剣に見据えて言葉を継ぐ。
「王家の血を引くあなたは権力闘争に利用される恐れがあった。ゆえにそれが現実とならないよう陛下はこの結婚をお決めになったのです。ただ、公にはあなたが娘だということを認めていません。ですからあなたも決して口外してはなりません。いいですね?」
「はい」
彼女は深刻そうな顔をして頷いた。
しかしながら公爵家に嫁がせている時点で認めたも同然なので、いわゆる公然の秘密となっている。いまさら口を滑らせたところでどうということはないはずだ。
チリン——。
母がベルを鳴らした。
すぐさま執事が来て、夜空のような濃紺色のベルベットで覆われた小箱を手渡すと、母はそれをアイザックとアリアのほうに向けてカパリと開く。中にはシンプルなプラチナの指輪が二つ鎮座していた。内側には今日の年月日が刻印されている。それとは別にネックレスのような細いチェーンも入っていた。
「一応、結婚指輪も用意しておきました。ただ、まだ子供のあなたが指にはめるのは成長上よろしくありませんからね。成人するまではチェーンに通して首から提げておきましょう。アイザック、あなたがつけてあげなさい」
「えっ?」
突然の指名に驚き、思わずはじかれたように隣の彼女に振り向くと、彼女もおずおずとこちらを窺い見ていた。アイザックは眉間に力をこめて母に向きなおる。
「それは侍女に頼むべきでしょう」
「指輪交換は夫妻でするものと決まっています」
「ですが……」
形だけの夫婦に指輪交換など必要ないし、何より初対面の男に触れられるなど彼女が恐怖を感じるだろう。そう思い、どうにかやめさせようとしていたのだが——。
「アイザック様、よろしくお願いします」
振り向くと、彼女がどことなく緊張ぎみにアイザックを見つめていた。当の本人に頼まれてしまっては辞退するのが難しくなる。本心はわからないが、表向きには嫌がっていないことになるのだから。
アイザックは内心で嘆息し、観念した。
ベルベットの小箱から小さいほうの指輪をとってチェーンに通すと、細い首に手をまわして後ろで留める。触れないよう気をつけていたつもりだがすこし当たってしまい、彼女の体がビクリとした。
「よく似合っているわ」
瑠璃色のドレスの胸元でかがやくプラチナの指輪を見て、母は満足げに頷く。
「あなたも指輪をはめてあげなさい」
「はい」
今度はアリアが指輪を取り、おずおずと窺うような目をアイザックに向けてきた。仕方なく左手を差し出すと、ふにふにとやわらかい小さな手が遠慮がちに触れ、ゆっくりと薬指に指輪を押し込んでいく。
「あ……あれ……?」
「もっと力を入れろ」
「はいっ」
最初は控えめだった手つきも、必死になるにつれてだんだん遠慮がなくなってくる。やがてどうにか無事に根元まではめると、アリアは息をつき、やりきったとばかりに達成感に満ちた表情を浮かべた。
「これであなたもスペンサー家の一員ね」
母のイザベラがにっこりと微笑んでそう声をかけると、アイザックのほうに体を向けていたアリアはあわてて前に向きなおり、姿勢を正す。
「突然、結婚なんてさせられて怖かったでしょうけど、わたくしたちはあなたと本当の家族になりたいと思っているの。自分の家として遠慮なく過ごしてほしいし、自分の家族として甘えてほしい。あなたが心地よく過ごせるよう尽力するつもりです」
「あ……りがとう、ございます」
そんなことを言われるとは思いもしなかったのだろう。うれしいというより戸惑う気持ちのほうが大きいようで、恐縮したように伏し目がちになる。
「ただ、将来的にあなたは公爵夫人になるのですから、それに必要な教育は受けてもらわなければなりません。言葉遣い、マナー、教養、貴族の常識、文の書き方など多岐にわたるので大変でしょうけど、社交界に出るため、そして公爵家を取り仕切っていくために必要なことなのです」
身上調査書によれば、これまで一度も学校に通ったことはないが、シスターに教えてもらっていたので読み書きや計算はできるらしい。ただ、貴族階級に必要とされる教養やマナーは当然ながら知らないだろう。
「わたしにできるんでしょうか」
「あなた次第よ。一緒に頑張りましょう」
「……はい」
求められることの多さに圧倒されたのか不安そうにしていたが、母に諭されて心を決めたようだ。その表情からは幼いなりに真剣な覚悟のようなものが見てとれた。
「アイザック」
二人を傍観していると、ふいに母がこちらを向いて咎めるように名を呼んだ。
「あなたも黙ってないで何か話したらどうなの」
「……急にそう言われても」
「せめてその怖い顔だけでも何とかなさい」
「この顔は生まれつきです」
「造作ではなく表情のことを言っているのです」
アイザックとしては普通にしているつもりでも、表情が乏しいせいか冷たいだの怖いだのと言われてきた。それゆえ生まれつきだと思っているのだが——母はあきれたとばかりに盛大に溜息をつくと、アリアに語りかける。
「この子は氷の宰相補佐なんて言われているようですけどね、わたくしからすれば表情筋の死んだただの朴念仁よ。怖い顔をしていても怒っているわけではないし、黙っているのも単に口下手なだけ。いちいち怖がる必要はありませんからね」
まあ、間違ってはいないが——。
身も蓋もないというか、母親だけあって随分と忌憚のない物言いである。何とも言えない気持ちになりながらチラリと隣を窺うと、彼女と目が合い、なぜか彼女のほうが気まずそうな顔になってうつむいた。
「ではよろしく頼みます」
ティータイムが終わると、母のイザベラが侍女のひとりを呼んでアリアを託した。ひととおり屋敷を案内してもらうのだという。そして母自身はこれから庭に用事があるというので、アイザックも自室に戻ることにした。
「……は?」
だが、扉を開けて唖然とした。
慣れ親しんだ自室がもぬけの殻になっている。執務机も椅子も書類も本棚も本もソファも何もない。まさか——ハッとして隣の寝室に駆け込むと寝台もない。クローゼットの中もすべて消えていた。
「母上!!!」
すぐさま駆け出し、庭でフリージアの花を切っている母に詰め寄った。
「わたしの部屋の物がすべてなくなっているのですが?!」
「ああ、結婚式のあいだに新しい部屋に移してもらったのよ」
「当面は部屋を移らないつもりだと言いましたよね?」
「許可した覚えはありません」
彼女は平然と言い放った。
なるほど、最初から実力行使するつもりだったのだろう。この家では公爵夫人である母のほうが優先されるので、アイザックが戻すよう命じても使用人は動かない。苦々しい気持ちで睨み下ろす。
「まさか彼女と一緒に寝ろと?」
「夫婦は一緒に寝るものでしょう」
「形だけの夫婦なのですが」
結婚すると夫妻それぞれに横並びの部屋が与えられるのだが、その二つの部屋のあいだに夫妻の寝室がある。本来ならそこで一緒に寝るのは義務といっても過言ではない。しかしこれは形だけの結婚なのだ。
「もちろん夫婦の営みは成人してからです。手を出すことは許しません」
表情ひとつ変えずにさらりとそんなことを言われて、思わず眉根を寄せる。たとえ頼まれたとしても十歳の子供になんか手を出さない。まあ母としても信じているからこそではあるのだろうが、アイザックとしてはいままでどおりの生活がしたかった。
「それでも彼女のほうは不安に思うはずです」
「アリアがそう言ったら考えましょう」
「寝返りを打ったら彼女を押し潰しかねません」
「いくらなんでも潰れはしないでしょう」
「……わたしは人の気配があると眠れません」
「慣れなさい」
ことごとく一蹴すると、母は怖いくらいに厳しいまなざしになり、手にしていたフリージアの切り花をアイザックの鼻先に突きつける。
「あなたわかっているの? これは王命なのだから離縁は絶対にできないのです。いまは形だけですけどね、いずれこの結婚を本物にしなければならない。あの子を不憫に思うならきちんと愛してあげなさい」
そう言うと、そのフリージアを持って屋敷に戻っていった。
花盛りの庭園にひとり残されたアイザックは、日の暮れゆくなか、静かに佇んだまま母に言われたことを反芻する。いつのまにか冷たくなっていた風がそっと頬をなで、白銀の髪をさらさらと揺らした。
しばらくして屋敷に戻り、執事に声をかけて新しい自室へと案内してもらう。
そこは以前の部屋とは比べものにならないくらい格調が高く、広さもあり、執務机も調度品も立派になっていた。書類や本もあるべき場所に片付けられており、すぐにでも執務に取りかかれるよう調えられている。
ただ、問題は——。
寝室へつづく扉にチラリと目を向ける。
彼女が嫌だと言ってくれればいいのだが、気弱な性格のようなので思っていても言えない可能性がある。特にアイザックの前では。それでもどうにかして本心を引き出さなければならないだろう。
しかし、何も方策が思いつかないまま夜になってしまった。
晩餐の時間になり食堂に向かう。今日はアイザックとアリアの結婚ということで慶事の献立が用意されていた。祝宴がなかったので、せめてものお祝いとして母のイザベラが取り計らったのだろう。
最初に、父のセオドアが家長としてアリアを歓迎する旨を述べた。だが表情も口調も事務的で、心からそう思っていないだろうことは容易に察せられた。彼女もおそらく気付いたのではないかと思う。
ちなみに弟のショーンは所属する騎士団の宿舎に戻ったと聞いている。騎士団の仕事が忙しいだけかもしれないが、逃げたと考えるのが自然だ。彼もまたアリアのことを歓迎していなかったのだから。
「…………」
アイザックも父もいつものように黙々と食べる。
その静かな雰囲気が落ち着かないのだろう。アリアは気まずそうにチラチラとまわりを窺いながら食べている。母がときどき気をつかって話しかけていたものの、会話がはずむことはなかった。
晩餐が終わり、いよいよ就寝のときが迫ってくる。
アイザックが寝るには早い時間が、今日だけは子供のアリアに合わせて寝室に行くよう母に申しつけられていた。新しい自室の執務机で魂が抜けそうなほど深く溜息をつくと、書類を片付けてから席を立った。
コンコン——。
こういうときの作法などよくわからないが、一応、軽く叩いてから扉を開く。
すでにアリアは来ていた。薄灯りがともる中、広い寝台のうえで寝衣を身につけて所在なさげに座っており、目が合うと顔をこわばらせて逃げるように視線を外した。アイザックはひそかに嘆息する。
「わたしと一緒に寝るのは嫌だと、明日、母に言うんだ」
「えっ?」
きょとんとした彼女を見て、開いた扉のまえで立ったまま無表情で腕を組む。
「わたしが頼んでも聞き入れてくれなかったが、君が頼めば聞き入れてくれるはずだ。それまではわたしが向こうの自室のソファで寝る。君はここを使ってくれ」
「待って!」
一方的に告げて寝室をあとにしようと背を向けると、彼女があわてたように呼び止めて寝台から飛び降り、こちらに駆けてきた。そして何かグッとこらえるような顔で見上げて言う。
「一緒に寝たくないならわたしが自分の部屋で寝るので、アイザック様はここで寝てください……許しもなく勝手に寝台に上がってすみませんでした」
ペコリと頭を下げ、すぐさま身を翻して自室に戻ろうとする。
驚いたアイザックが思わず細い手首をつかんで止めると、小さな体が後ろによろけ、その反動でチェーンに通していた結婚指輪が胸元で跳ねた。彼女は目を丸くして振り向く。
「子供の君をソファで寝させるわけにはいかない」
「でも、わたしのせいなのに……」
「君のせい?」
「わたしが厄災だから一緒に寝たくないんですよね?」
そういえば彼女は自分自身の噂について知っているようだった。国王陛下の娘というだけでなく、出生時の占いで厄災の姫と言われたことも聞き及んでいたのだろう。けれど——。
「それは無関係だ。そもそも占いなど信じていない」
未来や運勢を見通すことなど不可能だと思っているし、占い師の思惑ひとつでどうとでもできるようなものを信じるなど危険だと考えている。それゆえアリアが厄災の姫だというのも信じていない。
「だったらどうして別々に寝るんですか?」
納得がいかなかったらしく、彼女は胡乱げに眉をひそめてそう尋ねてきた。アイザックは煩わしさから思わず溜息まじりで答える。
「君が嫌だろうと思ってのことだ」
「わたしは嫌じゃないです」
「……いや、さっき怯えていただろう」
「そんなつもりはないですけど……」
「こわばった顔で目をそらしていたが」
「あ、緊張はしていたと思います」
「…………」
実際、これだけアイザックと言い合えるのだから、本当に怯えてはいないのだろう。
だが、こうなってはいまさら他の理由を持ち出すのは難しい。何を言っても空々しい嘘としか思われなさそうだ。人の気配があると眠れない、ひとりのほうが休まる、などと最初から言えばよかったのだが後の祭りである。
あの子を不憫に思うならきちんと愛してあげなさい——。
母に言われたことが脳裏をかすめた。
愛することはできないが同情はしている。拉致同然で故郷から連れてこられ、有無を言わさず結婚させられ、誰も知ったひとがいない中で暮らさねばならないのだ。そのうえ夫に歩み寄ろうとして突き放されたとしたら——。
あらためてアリアを見る。
彼女はもう目をそらさなかった。すこし不安そうにしながらも、何かを訴えかけるようにアイザックをじっと見つめ返している。吸い込まれるような澄んだアクアマリンの瞳が、薄明かりで煌めいていた。
「……わかった」
ずっとつかんだままだった細い手首を離してそう言うと、寝台に上がって横になる。
残された彼女はしばらく立ちつくしていたようだが、やがて反対側からおずおずと遠慮がちに寝台に上がった。寝台は広く、十分に距離をとっているので体が触れ合うことはない。
「おやすみなさい」
「……ああ」
ほどなくして隣から規則的な寝息が聞こえてきた。
しかしアイザックはいつまでたっても寝付けなかった。彼女の気配を感じながら、白い天井を見ながら、今日のことや今後のことをただ無意味に考えつづけていた。
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