第3話 眠れない日々

 翌日から、アリアのスペンサー家における日常が始まった。

 母のイザベラがあらかじめ家庭教師を手配しておいたそうで、さっそく教養やマナーなど幅広く学んでいる。他にも母から直々に公爵夫人の仕事や心得を教わっている。大変ではあるもののやりがいを感じているようだ。

 ドレスはどれも首元の詰まったもので、チェーンに通した結婚指輪はその内側にしまってある。勉強の邪魔にならないようにと母に言われてのことらしい。

 そんなこんなで母とは良好な関係を築けているようだ。彼女は思ったことをズバズバと言うので当たりはキツく感じるが、あまり裏表はない。アリアとしてもはっきりと言ってくれるほうがやりやすいのだろう。


「行ってらっしゃいませ」

 アイザックが外套をまとうと、玄関に出てきたアリアがそう声をかけてきた。

 母に言われたのか、外出するときにはこうしていつも見送りに来てくれるのだ。おそらく勉強や用事を中断して。それが申し訳なくてむずがゆくて何とも言えない気持ちになる。自分たちは形だけの夫婦でしかないのに——。

「あの……?」

 その声で我にかえると、アリアが怪訝な面持ちでどこか心配そうに覗き込んでいた。思わずそのまなざしから逃れるようにそっと顔をそむける。

「行ってくる」

 そう言い残し、振り向くことなく玄関を出ると馬車に乗り込んだ。

 鞭の音がして、スペンサー邸がゆっくりと背後に遠ざかっていく。彼女がどんな顔で見送っているかはわからないままだった。


 王宮の執務室に着くと、宰相のメイソン・チャーチルがすでに仕事を始めていた。

 彼はベルファスト公爵家の当主で、現ベルファスト公爵だが、宰相に取り立てられたのは実力によるところが大きい。幅広い知識に裏打ちされた堅実な判断をするため、国王陛下からの信頼も厚いのだ。

 そんな彼を手伝うのが、宰相補佐であるアイザックの役目である。雑用的なことから、各種書類の作成、立案のたたき台作成、来客対応など多岐にわたって任されており、日々とても勉強になっている。

「おはようございます」

「おはよう」

 アイザックの挨拶に、正面奥のメイソンは手元の書類から顔を上げて応じた。後ろになでつけたアッシュグレーの髪、細い銀縁眼鏡、その奥にある隙のないヘーゼルの瞳が、彼をことさら理知的に見せている。

「……なんでしょう?」

 そのヘーゼルの瞳は、アイザックが席についてもこちらに向けられたままだった。居心地の悪さを感じつつも顔に出すことなく問いかけると、彼は静かに口を開く。

「最近、あまり眠れてないだろう」

「…………」

 彼の言うとおり、結婚式の日から一週間、ほとんど眠れていなかった。

 目の下にうっすらと隈ができているものの目立ってはいないし、まわりに睡眠不足を気取られないよう気をつけているつもりだったが、彼の目はごまかせなかったらしい。

「本来なら新婚の男にこんなことを訊くのは野暮だが、君の場合、そういうわけではないだろうからな。何か事情があるのなら聞かせてもらえないだろうか」

「……事情というほどでもないのですが」

 すこし迷ったが、この結婚のいきさつをよく知っている彼にならと思い、夫婦一緒に寝るよう母に申しつけられたこと、アリアが嫌がらないので断りようがなかったこと、そばに他人の気配があると眠れないことなどを、かいつまんで話していく。

「母には慣れろと言われたのですが、なかなか難しいです」

「なるほどな」

 彼はいたって真摯に耳を傾けてくれた。腕を組み、ゆっくりと背もたれに身を預ける。

「良くも悪くも君は真面目すぎるのだ。ささいなことを深く考えてストレスになっている可能性がある。他人の気配がするから眠れないということを意識しすぎて、余計に眠れなくなっているのだろう」

「それは……あるかもしれませんが……」

 だとしてもどうすればいいのかわからない。困惑していると、彼は記憶をたどるように話をつづける。

「寝るまえに白湯を飲むといいとは聞いたことがある。気持ちも緩むだろうしな。あとは適度に身体をほぐしてから寝台に入るとか、昼のあいだにしっかり運動するとか……試せるものから試してみたらどうだ?」

 その程度で上手くいくのだろうか。いまひとつ信じきれない気持ちではあるが、どれも難しいことではないし、たとえ効果がなくても悪い影響はなさそうだ。

「ありがとうございます。ひととおり試してみようと思います」

「まあ気楽にな。つらいようなら結婚休暇をとってもいいのだぞ」

「そういうわけにはいきません」

 本来、結婚式から一か月は結婚休暇の取得が認められている。新婚旅行や別邸に行くなどして夫婦二人で過ごすためだ。しかしアイザックの結婚はあくまで形だけなので、取得する必要性がない。

「権利はあるのだがな」

 メイソンは苦笑し、ひとりごとのようにそう言った。


 その日は会議もなく、執務室で書類仕事だけをこなして帰宅した。

 早く帰ったときはお茶に呼ばれることが多い。すこしでもアリアと交流させようと母が画策しているのだ。一応は夫婦なのであまり蔑ろにするのもよくないと思い、忙しくなければ応じている。

 アリアの日常の様子については主にここで聞かされていた。母に促されてアリア自身が話すこともあれば、母が話すこともある。アイザックは黙って紅茶を飲みながら耳に入れるだけだった。


 夜になると家族そろっての晩餐だ。

 弟のショーンは騎士団の宿舎で暮らしているので不在だが、父のセオドア、母のイザベラ、アイザック、妻のアリアはいつも同じテーブルを囲んでいる。その畏まった雰囲気にも、アリアはこの一週間ですこしずつ慣れてきたように思う。

「テーブルマナーを習った成果が出ているな」

「ありがとうございます」

「今後もこの調子で様々なことに励みなさい」

「はい、頑張ります」

 父はときどきアリアに言葉をかけていた。

 歓迎はしていなくても、それなりに歩み寄ろうと努力はしているようだ。仕事のひとつと割り切っているのかもしれない。王命なので受け入れるしかないし、何より陛下から託された姫を無下に扱うことはできないだろう。


 その後は自室で公爵家の仕事をする。要するに公爵である父の手伝いだが、次期公爵ということで全面的に任されている案件も少なくない。それだけ仕事ぶりを認めてもらえているということだろう。

 ただ、この一週間は睡眠不足であまり頭が働かない。宰相補佐の仕事をしているときもそうだが、こちらは夜なので顕著だ。いまも眠すぎてクラクラしている。書類に目を通していても内容が頭に入ってこない。

 すこし早いが、今日はもう切り上げるか——。

 ベルを鳴らして使用人を呼び、一時間後に起こしてくれるよう頼むと、ふらりと倒れ込むようにソファに横になった。二人掛けなので体がすべておさまるわけもなく、足は床に投げ出されたままだ。

 一昨日からこうして仮眠をとっている。

 いっそこのまま朝方まで眠りたいところだが、このことを知ったイザベラに釘を刺されてしまった。もっとも仮眠をとるなとまでは言われなかったので、短時間であれば許容してくれるのだろう。

「アイザック様、一時間が経ちました」

「ん……ああ……」

 年若い男性の使用人に声をかけられて目を覚まし、気怠い体を起こす。さきほどよりは幾分か頭がすっきりしているのを感じる。仮眠の効果はあった。

「白湯もお持ちしました」

「ああ、そうだった」

 ローテーブルに白湯の入ったティーカップが置かれていた。起こすときに持ってきてほしいと頼んでいたのだ。ソファに座りなおしてゆっくりと口をつける。体があたたまるちょうどいい温度だった。

「あの……イザベラ様には寝室でおやすみになったと伝えておきますので、こちらで朝までおやすみになられてはどうでしょうか?」

「いや、君に嘘をつかせるわけにはいかない」

 アイザックのことを心配してくれているのだろうが、彼ひとりが嘘をついたところで他にも使用人はいるので、どうせ母には筒抜けになる。下手すれば嘘を報告したことで彼が解雇されかねない。

「軽率なことを申し上げました……失礼します」

 彼はつらそうな顔で一礼して退出した。

 気遣いはありがたいが、逆に申し訳ないような気持ちになってしまった。白湯を飲み終えると、ソファから立ち上がって凝り固まった体をほぐす。とりあえずは簡単な柔軟体操くらいでいいだろう。

 さあ、行くか——。

 寝衣に着替えると、ひとつ深呼吸してから寝室につづく扉に手をかけた。


 ん——?

 もう深夜といってもいい時間になのにアリアはまだ寝ておらず、寝台の上にちょこんと座っていた。アイザックが入ってきたことに気付くとあわてて居住まいを正す。プラチナの結婚指輪が胸元で揺れた。

「まだ起きていたのか」

「アイザック様を待ってました」

「…………」

 遅くまで仕事をするので先に寝るよう言ってあるし、実際いつもはそうしているのに、待っていたということは何か話があるのだろう。よく見ると、彼女の顔にはどことなく緊張がにじんでいた。

「座ってください」

「ああ」

 言われるまま寝台に上がった。真正面から向き合うのは何となく躊躇われて、斜め向きに座る。しかし彼女は容赦なく距離を詰め、小さな手をアイザックの肩に置いて膝立ちになり、顔を近づけてきた。

 何だ——?

 動揺しつつも無表情のままじっとしていると、頬のあたりにかすかな吐息を感じて、思わずドキリとするが。

「やっぱり寝不足なんですね」

 ふと心配そうな声が耳元に落とされた。どうやら目の下に隈があるかどうかを確認していたらしい。『やっぱり』という物言いからすると、あまり眠れていないことにうすうす気付いていたのだろう。

「お仕事が忙しかったんですか?」

「単に寝付きが悪かっただけだ」

「でもきのうだけじゃないですよね?」

「…………」

 君がいるせいで眠れないなどと言うのは憚られるし、あまり突っ込まれたくはない。内心でひそかに嘆息しながらも、そんな感情を悟られることのないよう淡々と告げる。

「数日前からだが、上司に眠る秘訣を聞いてきたから心配はいらない。白湯を飲んだり、体をほぐしたり、いろいろと実践してみたから今日は眠れるはずだ」

「それならよかったです」

 ようやく彼女に安堵の笑みが浮かんだ。

 もっとも当のアイザックは半信半疑である。これで眠れなかったら彼女にまた何か言われそうだが、そのときはそのときに考えようとひとまず思考を放棄して、ひとりさっさと横になり目を閉じた。

 それからすぐに隣でごそごそと掛布に入る気配がした。やけに近いように感じるが、そばで話をしていたから流れでそうなっただけで、意図があってのことではないだろう。そう考えていたのだが。

「失礼します」

「?!」

 ほのかなぬくもりが片側の腕に触れるのを感じた。

 思わず目を見開いて振り向くと、彼女が横向きに体を寄せてぴとりとくっついていた。アイザックの勢いに驚いたのかきょとんとしたが、すぐに気恥ずかしそうに控えめな微笑を浮かべて言う。

「わたしが眠れなかったとき、シスターに抱きしめてもらったらよく眠れたので、アイザック様もこうしたら眠れるかなって……ご迷惑でしたか?」

「いや……」

 アイザックが眠れないのは他人の気配のせいなので、逆効果でしかないのだが、彼女なりによかれと思ってのことだろうし迷惑とは言いづらい。もう好きなようにさせておこうと諦めの境地に達する。

 ほどなくして隣から寝息が聞こえてきた。

 それは触れ合ったところからも伝わってくる。ゆっくりとした規則的な呼吸に合わせてやわらかなぬくもりが揺れ、気持ちが安らいでいくような心地良さを感じた。他人の気配があれほど苦手だったはずなのに——。


「おはようございます」

「ぅん……?」

 目を覚ますとすぐ近くに彼女の顔があった。どうやら隣から身を乗り出して覗き込んでいるらしい。目の下の隈を観察しているのだろうか。しばらくするとほっと安堵の息をついて敷布に座った。

「眠れましたよね?」

「そのようだな」

 窓の外はもう明るい。

 どうやら彼女に添い寝されてすぐに眠ってしまったようだ。体を起こすと、ひさしぶりに頭がすっきりとしているのがわかる。隣では、彼女がちょこんと座ったまま得意げにニコニコとしていた。

「……感謝する」

「お役に立てたならうれしいです」

 アリアのおかげなのか、白湯のおかげなのか、運動のおかげなのか、単に限界が来ただけなのかは正直わからない。それでも彼女が気遣ってくれたことには感謝したいと思った。


 翌日以降は、何もしなくても普通に眠れるようになった。

 それゆえもうアリアに抱きしめてもらってはいない。ただ、寝るときの距離は以前よりもすこしだけ近くなっていた。

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