bốn

「……あの子、元気にしているかしら」


 千賀子はようやく現実に帰ってきて、「やだ、私ったら」とほほほと笑う。いい加減、掃除をしなくちゃね、と言いながら、再び凝り固まった体を動かし始めた。


 その時、つけっぱなしのテレビから、懐かしい単語が聞こえてくる。


「アメリカによるベトナム侵攻は──」


 ──そう言えば、テレビをつけっぱなしだったわ。


 千賀子はうんしょと手を伸ばし、リモコンでテレビを消そうとした。だが、消すのボタンを押そうとしたところで、ピタリと手が止まってしまった。


 画面の中では、レポーターによる現地インタビューが流れている。その後ろで、呆然と佇んでいる女性の姿があった。荒れ果てた田んぼを目の前に、風に吹かれるままになっていた。

 テレビのカメラが、女性に近づく。少し言葉を交わしたのち、日本語でテロップが入った。


 その時。


 テレビの中の彼女と、目が合った気がした。


 ──田んぼからね、ルビーが出るの!


 「……あれ、彼女だわ」


 千賀子の頭に「Hoạ」という名前が浮かぶ。


 確信はなかった。だが、伊達に長生きしている訳ではない。千賀子の鋭く尖った「勘」が、そう告げていた。肌には皺が刻まれて、人生の酸いも甘いも飲み込んだ顔をしているが、間違いなく彼女だった。


 女性はひどく淡々としていた。それは冷静なのではなく、何かを押し殺してるだけなのだと、千賀子は悟った。

 無邪気な笑顔が脳裏をよぎる。千賀子は思った。Hoạはあんな人じゃない、と。


 ──いくら時が経ったと言えど、彼女はあの頃の気持ちを忘れないはずだわ。


 思うや否や、千賀子は居ても立ってもいられず、押入れの中身をひっくり返した。違うの、彼女は、あんな子ではないのよ。心の中で、そう繰り返した。


 行かなきゃ。彼女に、大丈夫って言ってあげなきゃ……。


 そこで変に冷静になってしまい、千賀子はハッと手を止めた。行く? 私が、越南に? そんなの、無理に決まってる。


 試しに通帳を開いてはみたが、想像通りの金額が印字されているのみ。案の定の展開すぎて、千賀子は思わずため息をついた。


 パートで得た貯金などたかが知れているし、いくら年金を貰っているからといって、海外に行けるほどのお金もない。

 千賀子の頭の中で、心配事が浮かんでは消える。


 ──それに、今私が行ったところで、何になるの? こんなお婆ちゃんが、行ったところで。戦争を目の当たりにしている彼女に、一体何がしてやれるって言うの?


 テレビは以前、越南の戦況を放映している。畦道。雑草。夏の空。あの頃から変わってしまったものと、全く変わらないものが、交互に映し出された。


「モンザエモン、安らかに」


 千賀子の脳裏に、あの頃の情景が蘇る。

 湿度の高い、越南の空気。露に濡れた田んぼの葉。ぽつんと佇む墓石と、手を合わせる一人の少女。


 ──違うわ。こんなお婆ちゃんだからこそ、しなくちゃいけないことがあるの。


 千賀子は手元のルビーを握りしめた。そしてポツリと呟いた。「勝手な私を許してちょうだい」と。

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