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 夫の越南赴任を聞いた時は、仕方がないとは言え、嫌な気持ちでいっぱいだった。知らない土地、知らない人、知らない生活。想像するだけで、眩暈がした。

 だが、日本が越南を統治し始めて、特にインフラ面で圧倒的な人手不足となった。そこで大勢の日本兵が招集され、その中に夫の名前もあったという訳だ。


 ──夫は無理に来なくていいと言っていたけれど、日本に一人きりでいるのも嫌で、結局ついて行ったのよね。


 夫が好きだったこともあるが、何より女が一人で家に残って、戦争というものを生々しく実感してしまうのが嫌だった。振り返ってみれば、あれはただのエゴだったと、千賀子は思う。


 ──でも、悪いことばかりじゃなかったわ。


 千賀子は目を細めて、昔を懐かしむ。太陽の光が燦々と降り注ぐ、あの南の国のことを。


 千賀子たちが移り住んだのは、越南の中でもかなり北の方だった。どこまでも続く棚田と、ゲコゲコと喉を鳴らすカエル。どこか地元の景色に重なるところがあり、それがほんの少しだけ、千賀子の心を安心させた。


 だが、ハナから異国に馴染むなど不可能だった。それは千賀子が自ら壁を作っていたからで、なるべく人目につかないように、なるべく話し掛けられないように、夫の影に徹して生活していた。


 そんなある日、千賀子は必需品の買い出し帰りに、彼女は一人の少女に呼び止められた。


「ねぇ、あなた」

「……私、ですか?」

「そう、あなたよ。他に誰がいて?」


肩まで掛かる黒髪に、溌剌とした四肢。身に付けている服は田舎臭いものの、それを覆い隠してしまうほど、年頃の魅力に溢れる少女だった。


「私ね、今、とっても暇なの。あなた、Người Nhật(日本人)でしょ? 何か面白い話をしなさい」


 大きな瞳で見つめられ、千賀子は思わず動揺する。いきなりそんなことを言われても、話せることなどない。それに……。


「私は、この国を統治している側の人間なのよ。貴女、何とも思わないの?」


 ……言ってしまって、「しまった」と思った。ガラにもなく、皮肉が口から漏れてしまった。だが目の前の少女は、全く気にしていないようだった。


「まぁ確かに、あなたの言う通りね。でも、それが何だって言うの? 私は今、退屈してるの。だからお話ししましょ」


少女の名前は、Hoạ(ホァ)と言った。彼女は言わば「おてんば娘」で、常に何かをしていないと気が済まない、口を動かしていないとつまらないと感じる少女だった。そんな彼女にとって、異国の人間というのは絶好のターゲットであった。


「Chào(こんにちは)、チカコ。今日もいい天気。散歩をするのにピッタリね」

「ねぇチカコ、知ってる? これ、Măng Cụt(マンゴスチン)って言うフルーツよ。美味しいから、食べてみて」


 千賀子は近くを通る度に、いつも彼女に話し掛けられた。忙しい時も落ち込んでいる時もお構いなしなので、最初は鬱陶しくもあった。ただ、知らない土地で空いた心の穴を埋めてくれる存在であったことも、また事実であった。


 そうして千賀子は、徐々に越南での暮らしに慣れ始めていった。


「チカコ、ちょっと手伝って欲しいの。裏庭の草がぼうぼうだから、お母さんが手入れしなさいって。ねぇ、いいでしょ、お願いだから!」


 越南に来て、一年ほど経った頃だったか。千賀子はHoạにせがまれ、家の裏庭を掃除してやったことがあった。庭は見るからに手付かずで、ついに母親から怒られてしまったのだろう。全く、仕方がないわね、と思いながら、千賀子は彼女を手伝ってやった。

 しばらくすると、庭の隅に気になるものを発見した。小さな石塚が、ポツンと立っていたのだ。そこだけやたらと掃除が行き届いているのも、また不自然だった。


「これは何?」

「お墓よ。それも、日本人の」


 千賀子は驚いて、墓石をまじまじと見つめた。確かに日本の墓に似ているとは思ったが、まさか本当に、日本人のものだったとは。


「何でこんな所に、日本人のお墓があるのよ?」

「さぁ、知らないわ。私のお母さんもおばあちゃんも、知らないって言ってた。でも、先祖代々守っているから、私も毎日、手を合わせることにしているの」


 Hoạはそう言うと、突然ピンと閃いた顔で「そうだ」と続けた。


「あなた、お墓になんて書いてあるか、読んでみてよ。私たち、誰も日本語が読めなくて、ずっと気になっていたの」


 目を凝らして見てみると、確かにうっすらと日本語が書いてある。千賀子はHoạのために、墓に刻まれた文字を訳してやった。それは摩耗していてかろうじて読める程度であったが、逆に彼女の家が代々大切にしているという証拠にもなっていた。


「これはね、江戸時代の商人のお墓らしいわ。彼は漂流した際にここに来て、現地の人と一緒に商売をしたそうよ」

「へぇ、そうなの。名前は何て言うのかしら?」

「『文左衛門』と書いてあるわ」

「そうなの……。やっと分かったわ。後でおばあちゃんにも教えてあげなくちゃ」


 彼女は語りかけるように、「モンザエモン、安らかに」と手を合わせた。素性も知らぬ異国の人に、何故こんなにも、献身的になれるのか。千賀子は静かに心を打たれた。

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