移ろう季節に、咲いていた
吉川希未
移ろう季節に、咲いていた
「好きだったんだ」
言えなかった言葉を空に向かって放る。桜並木を歩きながら、日野は平野を想った。
*
春から勤める職場の近くには、母校の小学校だった場所がある。校舎は残されたまま、今は市の貸出し施設として利用されているらしい。成人式の案内が届くまで、日野はそれを知らなかった。
日野は中学生の時に引越しをして以来、地元の事情に疎い。県外の大学に通うようになってからは、地元に近づきすらしなかった。あまりに久しぶりだと訪れるのにも勇気がいる。楽しかった成人式でさえ、当日の朝まで日野は億劫に感じていた。
就活に勤しむようになってからも母校の近くで働きたいという意識をとくに持ってはいなかったが、いま思えば地元に身を置こうかどうかはおそらく意識していたのだ。成人式で、平野麗奈に会ってから、ずっと。
入庁式が近づくにつれて、日野はどこかでそう感じていた。
日野と平野は小、中学校が同じだった。小学校は一クラスしかなく、中学校は三クラスに分かれていたにも関わらずすべて同じクラスだった。おまけに席が五十音順だったため、平野はいつも自分の後ろの席に座っていた。
「教科書見せて」
背中を叩かれて振り向くと、平野がいつも手を合わえていた。
「隣のやつに見せてもらえよ」
「いいじゃん別に。ケチ」
平野は誰にでも友好的だったから、自然と席が近い日野はしょっちゅう彼女と話をた。平野は、友人の一人だった。
中学生になると服装が私服から制服になった。彼女は制服がとても似合っていて、同じように振り返っても後ろの席にいるのが別人みたいな気がして驚いたのを覚えている。小学校では袖のよれた真緑色のシャツを着ていた平野が、白いシャツにスカートを身につけていた。彼女がスカートを履いているところなんて、それまで一度も見たことがなかった。
中学校の最高学年にもなると、友人とのあいだで色恋の話題がよく挙がった。好きな人を問われても答えられない日野は、あまりこの手の話題の中心にはならない。誰かが好意を寄せている意中の相手を知り、周りと一緒に茶化したり応援したりするだけ。それが楽しかったし、それで良いと思っていた。
しかし、
「俺、平野かも」
そんな声が友人から聞こえると、日野は途端に落ち着かない気分となった。平野が好きと言い張るやつは他にもいた。その頃には平野は綺麗になっていた。それでも日野は皆が、綺麗や可愛い、を強調する言葉として、好きと言っているだけだとも思っていた。
平野は小学校の頃から高めであった身長を中学でも伸ばし続けていた。日野も身長は伸びたが、あっという間に追い越された。
平野はバレー部に所属していた。高い身長を活かしていたし、何より彼女はバレーが好きだと語っていた。対照的に日野は部活に属していなかったから、平野が少し羨ましかった。
なにしろ学年で帰宅部は日野だけだったのだ。
強制入部ではないはずなのに、その空気が薄らと漂っていたのもある。一応、体験入部はいくつかしたが、それでも入部届けを提出しなかった。何度か先生に呼び出され、職員室で部への勧誘を繰り返しされた。その度にどこへ入ろうかな、が入りたくない気持ちに傾いた。
そんな出来事は入学当初の話で、卒業が近づくと部活動を羨ましいと思うようにもなっていた。しかし、入学当初に戻ったとしても自分は部活動に入らないだろう。そんな自信があった。
なぜか分からないけれど、何度繰り返しても迷ったまま選ばずに終える。それが自分という人間な気がした。
一度、放課後の教室で平野と話をしたことがある。日野はあの日、宿題を終わらせようと教室に残っていた。友人も誘ったが、部活動があるからと断られていた。夏休み前だったから、成果を残したい運動系の部活は追い込みをかけていた。
宿題もあらかた片付き、窓越しに夕暮れを眺める。校庭で球技をする生徒の姿はどこか眩しい。蝉の羽音が橙色の空を彩り、騒がしいと呼ぶにはあまりにも味わいのある校舎からの贅沢な景色に、日野は感傷的になっていた。
日野の席は教室の真ん中辺りだが、気づくと窓際最前の席に座っていた。後ろから音が聞こえ顔を向ける。教室の入口に立っていた平野と目が合った。平野は制服姿だった。
「何してるの?」
聞こうとしたことを先に聞かれて思わず笑うと、平野は首を傾げた。彼女の目には、誰も座っていない日野の机に広げられたノートが映ったようだった。平野は、日野の席に腰掛けた。距離にして机の列は二つ分離れていたが、他に誰もいないから遠く感じない。
「家でやればいいのに」
宿題のことを言っているのだろう、と日野は思う。
「部活もしてないし、家帰っても暇なんだよ。それにこの時間わりと好きでね」
「放課後の教室から女子を眺める時間が?」
わざわざ嫌なまとめ方をして平野は笑う。たしかに校庭には部活動に汗を流す女子もいた。でも、そんな悪趣味じゃない。
怪訝な顔をする日野に、平野は少し慌てたように言葉をつなぐ。
「冗談だってば。でも本当に、どうして放課後の教室が好きなの?」
どうして、と改めて問われると答えに窮する。校舎からの眺めは好きだ。でもそれも何故かと考えると説明ができない。
日野は迷った挙句に答えるのを止め、代わりに平野へ問いかけた。
「じゃあ、平野はどうしてバレーが好きなの?」
彼女なら、好きを、その感覚を、言葉で表してくれる気がした。
しかし、
「好きなものは好きだから」
彼女の言葉には期待していた具体性は伴っておらず、日野も笑うしかない。
「はっ」
「あ、笑ったな?」
平野は眉を釣り上げ、握ったこぶしを頭より高い位置に挙げる。平野にこんな行動をする一面があることを、日野はこのとき初めて知った。
「ごめんごめん」
日野がなだめると、平野はため息をついた。目を細めてからうつむいた。
「まあ、負けちゃったんだけどね」
そう言葉にすると、平野は顔をあげて弱々しく頬をあげる。作り笑顔だってことは、日野にも分かった。さっきまでと違って泣きそうだったから。
バレー部はこないだの試合に負けた。夏に行われる全国大会に出場する権利は既に失っている。
実は、日野はとある同級生と地区大会を観戦していた。その同級生は、平野を好きだと語っていた男子だった。男子とはたまに話す程度の間柄だったが、何故か日野を観戦に誘ってきた。応援に来た事実を平野に知って欲しいと思っていたようで、小学校からの同級生である日野は都合がよかったらしい。不純な動機のわりに男子は真面目に応援をしていたが、試合が終わってコートの隅で泣いていた平野を見て、黙って帰っていった。結局、日野たちが居たことを平野は知らない。
「もう少しやりたかったんだけどなあ」
天井に想いをぶつけた後、平野はぐっと伸びをした。身体に合わせて上へと伸ばす腕は細いながらに筋肉がついている。努力の証だ。
「高校でもバレー部入ればいいじゃん」
引退を控えた平野でも、それはあくまで中学校の話。意欲が続くなら挑戦すればいい。
「そういうことじゃないんだよ」
平野は肩を落とした。
「じゃあ、どういうこと?」
「日野には分かんないかもね」
平野は椅子の背もたれを正面に持ってきてから座り直す。椅子の縁を両手で掴み両足を伸ばして上下に動かす仕草は、いじける子どものようだった。靴底が床に触れる度、パタパタと音を鳴らす。
その様子に、分からないから聞いたのに、と流石に口には出来なかった。
「ふふっ」
静かになった日野を見て、平野は笑う。
「じゃあもし日野が分かったら、私に教えにきて」
なにを問われているか判然としなかったから、日野は適当に返事をした。
「たぶん分かった」
「たぶんじゃ困るよ、約束だからね」
でも、それ以来というもの、平野とはあまり言葉を交わさなくなってしまった。
冬になると席替えをした。平野とは席が離れ、一列あいだに同級生をはさんだ。夕暮れの教室で会話した時よりも距離は近いはずなのに、明確に遠く感じた。平野の進路は友人から噂程度に聞いたけれど、それが正しいかは卒業が迫っても分からなかった。
卒業式を翌日に控えた登校日。アルバムに寄せ書きをする時間が設けられた。
アルバムの後ろにある真っ白いページを開いて机に置く。教室を自由に歩き回って他の人のアルバムに何を書くか各々が悩む時間は、中学校生活で一番楽しかったかもしれない。
日野は仲の良かった友人分をあらかた書き終えると、平野のアルバムに立ち寄った。ペンを持ったまま、他の人が何を書いているのかざっと目を通す。面白い文章に笑いそうになりながら、自分は何を書けばいいのか考えていた。何をアルバムに残して良いかが分からなかった。
小学校から同じ場所に通っていても、日野と平野は仲良しだとは言えないと思う。二人しかいない状況になれば喋るけれど、自ら関わりを深めようと動いたことは一度もない。それなのに、日野は平野になにか文章を残すと決めていた。ここで書かなければ、放課後に平野と交わした約束が消えてしまう気がした。
悩んだ挙句、日野はアルバムに文字を残した。文章と呼ぶにはあまりに短い文字数を、アルバムの右下に小さく書いた。
【あなたの努力が好きでした】
自分で書いた文字なのに、見直すと恥ずかしくなって消そうとしたが、油性ペンなので諦めた。
他のクラスメイトに見られたら厄介なことになりそうだ。寄せ書きの時間が終わるまで、日野はずっと平野の席の側に立っていた。
幸いにも残り時間は少なく、文字は誰の目にも触れなかった。
自分の席に戻る途中、あやまちに気づいた。名前を書いていない。でも、もう手遅れだった。後からあの寄せ書きが自分だったなんて、恥ずかしくて言い出せない。
平野のアルバムに気を取られ、自分のアルバムに残された寄せ書きはざっと目を通すだけになった。文章が頭にまで入って来なかったので、なにかを思いようもなかった。
翌日になって卒業式が終わると、多くの人達が校庭に集まり写真を撮った。一足先にスマホを購入した人達は、そのまま連絡先を交換していた。日野はまだスマホを買っていなかったので、その輪から離れた駐車場の付近で友人と喋っていた。
みんな、帰り時を見失っているように思えた。
平野はどこにいるのだろうと周りに顔を向けるが、姿は見当たらない。連絡先の交換を済ませた集団が徐々に散り散りとなった頃、平野は校舎の裏側から姿を見せた。男子と二人で校庭に歩いてくる。彼女は、頬を赤く染めていた。まだ校庭に残っていた人たちにからかわれだした平野は、嬉しそうであったし、困っているようでもあった。
今戻ってきたってことは、平野は集合写真に写っていないのだと気づき、少しだけ寂しくなった。
そろそろ帰ろう、と校門を出ようとして振り向くと、平野と目が合った。気のせいかと思ったが、校庭にいた彼女はどうしようか迷っているように見えた。いたたまれない空気を勝手に感じた日野は、彼女に声をかけぬまま帰路に着いた。
そうして日野は、中学校を卒業したのだった。
しばらくは頭が平野でいっぱいだった。でもそれも、卒業式からたった数日間のことだった。
母親が体調を崩して入院した。日野は、市内にある祖父母の実家で暮らすことになった。実家は高校が通える範囲内だった。これを機に一人暮らしも視野に入れたが、祖父母にかける金銭面の負担を考慮して止めた。母親との二人暮らしで母親が働けなくなることの重大さを、日野は今更ながらに理解した。
あらゆることが急に辛くなって、それまでの思い出は、引越しの際にあらかた捨てた。
高校生活が始まると、新しい友達やら授業で忙しくなり、平野どころではなくなった。
部活の入部届が配られた時には一瞬だけ平野が頭を過ったが、紙は友達と一緒に破って捨てた。
強制入部では無かったし、何より興味の持てる部活動が無かった。見学は一度もしなかった。見学をしたところで、やる気になるとは到底思えなかった。
入部時期も終わり、日野はまた帰宅部となった。帰り際に体育館の側を通ると、開いている入口からバレー部の練習姿が目に映る。大変そうだけど、楽しそうだった。練習をしている自分を想像しながら自転車を漕いで帰るのは楽しくて、それだけで満足していた。
高校から通学手段が徒歩から自転車に変わった。成長したような気分になったが、なにも変わっていないことなど、自分でもよく分かっていた。
高校生になってから初めての大型連休。祖父にスマホを購入してもらった。祖父は定年を迎えているが、いまも工場に勤めている。本来は再雇用の制度がないのに、貢献をした自分は特別待遇だ、お酒を飲みながら語ってくれた。饒舌のなかに毎日勉強をするという条件を付けてきたが、部活も趣味もない日野にとっては、容易い条件だった。
高校の友人は出遅れた連絡先の交換を快く受け入れてくれた。メールではなく、トークアプリ。
中学校の友人には電話番号とメールアドレスの書かれた紙を貰っていたが、アドレスはついに一回も使わなかった。向こうから送られてきた時に気づけるよう登録だけはしておいた。
トークアプリは特定の人だけでやり取りが可能なグループが作れるようで、中学校のグループにも招待されたが、しばらく入らなかった。高校を楽しむ日野にとって、それまでの関係は煩わしいものになっていた。引越しで捨ててきたのは、目に見える物だけではなかったのかもしれない。
高校にはそれまでの同級生が一人もいなかったから、日野がピアスを開けたことを中学校の同級生は誰も知らない。誰も知らないから、快適に過ごしやすかった。
ある時には中学の友人から、どうしてグループに入らないのかを尋ねるメッセージが届いた。答えるのが億劫で、無視をしようかと思ったけれど寸前でで止めた。
[久しぶり。ごめん、気づいてなかったみたい。今入る!]
気持ちのこもっていない文字列を送る。ため息をつき、日野は仕方なくグループに加入した。加入するとメンバーが見れた。そこには平野がいて、心臓が鼓動を早めた。寸前のため息を見られていたような、そんな気がした。
夏になると、中学校の同級生によるクラス会の計画が話題に挙がった。
いくらなんでも早いだろう、よほど高校生活が充実に欠けているのか、と考え日野は行かなかった。
後日、クラスのひとりがグループに集合写真を載せていた。意外に多く集まっていた人数の後方に、薄緑色のワンピースを身にまとった平野が立っていた。
まだ卒業して数ヶ月だというのに、彼女はまた大人っぽくなっている。服装だけの話ではなく、彼女は髪を切っていた。背中にかかるほど長かったのに、写真の平野は首あたりに切り揃えられた髪先が内側に緩い曲線を描いている。
平野って可愛い子だったのかな、と日野はそこで初めて感じたのだった。
高校生のあいだに中学校のクラス会は計三回行われたが、平野とは一度も会わなかった。
日野が一度だけ参加したときに限って、平野は家族旅行をしていて参加しなかった。それを教えてくれたのは、平野と仲の良い女子だった。
同窓会には、平野が好きかもしれないと語っていた男子もいた。彼は高校で始めたバドミントンで優秀な成績をおさめ、大学生の彼女がいると自分から語っていた。羨ましいと口にしながら、こんな風にはなりたくないな、と日野は思っていた。仮になりたくても、なれないことも分かっていた。
あっという間に進学の時期が迫ると、日野は迷っていた。やりたいことがないから先の道を選べない。高校選択と違って、徒歩や自転車、或いはバスの市内路線で通える範囲に大学はない。家庭の事情だってある。なにも大学進学しなくてもいいのではないか。しかし、祖父がそれを許さなかった。金銭面で迷惑をかけたくないという祖父の思いが、日野の進路を定めたのだった。
結局、自宅の最寄り駅から電車で六つ目の駅で降りる県外の大学へと進学をした。推薦の仕組みすらあまり知らないまま、推薦で周りよりひと足早く合格をもらった。授業中に挙手はしなかったが、課題提出は忘れず、テストの点数も高かったから、内申点は優秀だった。
実家から通う大学生活のほとんどは通学時間に吸い取られた。その頃、遊ぶお金くらいは自分で稼ごうと家の近くの居酒屋でアルバイトを始めた。環境も相まってお酒が身近になる。二十歳を過ぎて自分もお酒を嗜むようになると、忘れかけていた行事が嫌でも頭をよぎった。
冬になり、成人式の日がやってきた。
日野は迷った挙句に出席をした。図々しい話だけれど、高校の時と違って懐かしい人に会いたくもなっていた。
成人式は川沿いの大きなホテルで催され、夜には中学校の同級生で駅前の飲み屋街の一店舗を貸切ったご飯会が行われた。長机が六脚に、下は掘りごたつ。靴を脱ぎ、日野はなんとなく一番奥の席の隅に座った。意外なことに、隣には平野が腰掛けてきた。成人式で身につけていた着物から、黒と白のワンピースに着替えている。身長の高い平野には、モノクロの色合いはとても似合っていた。
「久しぶり!」
平野は片手を挙げて、やたらと高いテンションで周りの同級生に挨拶をしていた。小学校単位で行う成人式にも平野はいたが、その時は会話をしなかった。着物姿も綺麗だったが、普段離れした姿にはあまり魅力を感じなかった。それは平野に限った話ではない。机を挟んだ向かいの友人に耳打ちしてそう伝えてみると、女子にそんなこと言うなよ、と真剣な顔で返された。日野は、冗談だよと笑った。
「ってかさ、どうせなら成人式は小学校でやりたかったよな」
向かいの友人が残念そうに枝豆を口へ放り込む。小学校が廃校になり、いまは市の貸出し施設になっていると日野が知ったのは、成人式の開催場所がホテルだと記された葉書が届いたからだった。
「私もそう思う」
平野が頷いている。その様子を、日野はまじまじと見てしまった。
「どうかした?」
「いや別に」
平野が隣に座っているのは、懐かしさよりも不思議な気持ちが大きい。
「っていうか久しぶりだね」
さっきの挨拶とは違い、潜めた声で平野は顔を近づけてくる。その声音はいつかノートを見せるように頼んできた彼女を思い起こさせた。
「久しぶりって言っても数年でしょ」
「この年齢の数年がどれだけ大きいか」
「まあ、たしかに」
時間の経過を感じさせるぎこちない会話はむず痒い。日野は普段ならそれほど飲まないお酒を多く口にした。平野は外見こそ多少は変わったが、その友好的なところは中学時代からなにも変わっていない。まるで昔の延長みたいに喋っていた。
「中学の同窓会なんで来なかったの?」
ハイボールの入ったグラスを片手に、平野は不思議そうに日野の顔を眺めた。
「行ったよ、一回だけ。でも平野と被らなかった」
冷奴がのった小皿を手元に寄せる。醤油をかけてから割り箸で一口大にすくいとっていると、隣からくぐもった声が聞こえた。
「じゃあ私が行けなかったときに来てたんだ。へー、そうなんだー」
小皿の端に寄った薬味を上にのせた冷奴を口に含む。おしぼりで手を拭くあいだもずっと、視界の隅には平野の顔があった。ちゃんと顔を向けると、平野はやけに目を細めている。
「なに?」
「そんな避けなくてもいいのに」
日野はあの同窓会に、平野に会えると期待して参加した。どちらかといえばあの瞬間に限っては、避けられていると感じたのは日野の方だ。お酒の影響か、そんな気持ちが先走る。
「避けてないよ。むしろ俺は平野がいると思って」
そこまで言って気づく。自分はその言葉の先に、なにを言おうとしているだろうか。自分でも分からないまま言葉を続けるのは怖くなり、自然と黙った。
「いると思って?」
見開かれた平野の瞳に、自分がたしかに映っている。映っているような気がするほど、彼女の瞳に見入っていた。そんな顔をされても、続きの言葉は自分にも行方不明だ。
「冗談だよ、冗談」
こんなその場しのぎの誤魔化しでどうにかなると本気で思ったわけじゃない。でも、平野はやけに素直に引き下がった。
「なんだ、紛らわしいこと言わないでよ」
一拍置いてそう言うと、それから平野は別の同級生の座る机へと頻繁に移るようになり、日野とは言葉を交わさなくなった。お互いが露骨に避けてはいないから、周りの同級生は気づかなかっただろう。しかし、それまで楽しく話していた日野には分かる。平野がそうするのなら、と日野も極力は彼女を意識しないように努めた。それから向かいの友人と出鱈目なことばかり話すのは、やけに楽しかった。心にもない言葉ばかりを並べるのは気分がいい。本心を口にするのは怖いことだ。そう思いながらも自分の本心が一体何を指しているのか、日野はまだ分かっていなかった。
成人式を機に同級生とはたまに会うようになった。夜のご飯会で向かいに座っていた友人とは、中学時代よりも仲良くなった。でも、会いたかった平野とは大学を卒業するまでついに会うことはなかった。
就職活動の時期が来た。数多くの選択肢が存在するなかで、日野はなぜか市内に絞って職場を探していた。その頃には、病状が順調に回復していた母親も年金生活が始まり、祖父母は相次いで亡くなった。
「自由にしていいからね」
実家への引越しを自分のせいだと感じていた母親は、この頃やたらとこの言葉を口にした。日野は実害を被った意識に乏しかったから、自由という単語が上手く認識できなかった。それでも何十回と言われるうちに、段々と母親は、自分が近くにいない方が楽なのかもしれない、と思うようになっていた。
だから本当は、就職先を遠方で探したって構わないははずだった。それでも日野は、やはり市内にこだわった。結局、しばらくは実家から通勤することに決めた。就職先は市役所だった。市役所は、母校だった小学校跡地の付近にある。
入庁式はエイプリルフールに行われた。入庁そのものが嘘になれば面白いなと思いながら、本当にそうなって困る自分を想像すると寒気がした。
知らないおじさんが長話をしているあいだ、日野は思い出していた。大勢が列になり正面を向く姿は、小学校の集会みたいだった。日野の後ろにはいつも平野がいた。教頭が長話をするあいだ、生徒は膝を抱え込むようにして座っていた。振り向くと、平野の頭がガクッと下がる。彼女はよく寝てたっけ。教室に戻ってからその様子を伝えると、平野は「日野もじゃん」と怒った。
そんな時間が、日野はとても好きだったのだ。
入庁式から帰宅すると、押し入れから中学校のアルバムを取りだした。引越しであらかた捨ててしまった思い出の品も、これだけは実家に運んでいた。どうしても捨てられなかったのだ。
空白のページに埋められたカラフルな文字が日野を昔へ連れていく。誰の言葉に連れていかれても、思い出の先で出会うのはいつだって平野だった。引越しのときに気づいた、右下に小さく書かれた黒い文字。
【あなたが好きでした】
誰が書いたか分からない。それでも日野は、この文字を書いたのが平野であったらいいな、と思っている。
「そういうことじゃないんだよ」
いつかの放課後、彼女が言った言葉の意味も今なら分かる。
平野にとって中学のバレーは高校に持っていけない存在だった。自身の努力は引き継げても、周囲の環境は時間の経過によって必ず変わってしまう。
それならば、その時にしかできない行動は確かにあるのだ。平野はそれを憂い、日野はそれを怠った。いつ、怠ったのかは分からない。中学か高校だった気もするし、もしかしたら小学生だったのかもしれない。それでも日野は、成人式にはもう手遅れだったと確信している。
*
数年が経ち、日野は配属先の仕事にも慣れていた。来年あたりの人事異動は自分の名前が載るかもしれない。いまは余程のことがなければ週末は休みだった。
ある日の土曜日、外からバイクの音が聞こえた。郵便受けを覗くと、一枚の封筒が入っている。日野は部屋に戻り、カッターナイフで封を開けた。中には返信用の封筒と、結婚式の招待状が入っていた。
日野はそれを見て快活に笑うと、キャップをあけた黒ペンで勢いよく欠席の文字を囲う。
あの時、平野の気持ちを拾おうとしなかった日野の、せめてもの告白だった。
家の近くにあるポストの側には、いくつか桜の木が植えられている。封筒を投函する瞬間、思い出が思い出として箱に詰められたような気がした。互いに住所を知る同級生がいまでもいるのは、案外に嬉しいことだ。たとえそれが、友人という昔と変わらぬ形でも。
隣から伸びた枝をさわろうとしても、位置が高くて届かない。かかとを地面から浮かし、めいいっぱい腕を伸ばすと、ようやく指先がかすかに触れた。
わずかに揺れた枝から落ちた桜の花びらが、顔を横切る。これからは、自分の人生について本気で迷ってみよう。日野はようやく、心からそう思ったのだった。
移ろう季節に、咲いていた 吉川希未 @yuzuki_yuki
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