第2話 〈サキュバス狂い〉のギルバート・ヘインズ

暗い世界で、人々の狂騒がどこか遠く聞こえた。


燃えるような熱気がふと肌を撫でたような気がして、ギルバート・ヘインズはずっとうつむけていた顔を上げて、瞼を開いた。


強い光が目を刺した。それまでぼんやりとしていた世界が急に戻ってきた。


天を見上げてみればガラス張りのアーチ型の天井から降り注ぐ陽光はすべてを刺し貫かんばかりの眩さだった。その強さに当てられてか、周囲の観衆の熱気は真夏の太陽を思わせるような過熱ぶりだった。


鼓膜が割れそうなほどの激励と野次。小さなラウンド・テーブルを挟んで対峙するギルバートと対戦相手に向けられるそれらは、まだ試合も始まっていないのに凄まじいまでの勢いだった。


「殺せ殺せ、〈サキュバス狂い〉を殺せ、アーヴィング! おれはてめえに今月の給料全部ぶっ込んでんだ! てめえの金玉が野郎の金玉よりデケえところを見せてやるんだよ!」


「〈サキュバス狂い〉! アーヴィングのクソ野郎なんざ速攻でぶっ殺してやれ! でなきゃ、おれがてめえをテムズ川に沈めてやる!」


賭け札を握りしめ、目を爛々とギラつかせながら雄叫びを上げる周囲の観客に苦笑する。勝手な人たちだ。ギルバートが勝てば狂喜して、もし負ければ親の仇のように汚い言葉で罵倒してくる彼らは、ウィザード・トーナメントを盛り上げる重要な要因のひとつではあるが、結局のところ彼らはどこまでも自分の欲望に忠実なだけだった。歯をむき出しにして、普通では考えられないほどの卑猥な言葉を叫ぶ彼らの浅ましい姿が、そのいい証拠だった。


――だが、まあ。


それは自分も同じか、とギルバートは苦笑を深めた。欲望に忠実という点では、自分と彼らはまったくの同類だった。


頭を横に振って、ひとつ大きく深呼吸をする。審判が来て試合が始まるまでにはもう少し時間がありそうだ。今から興奮していたのでは試合の最中に中折れしてしまう。


着ているローブの内側に手を伸ばして、懐中時計のようにチェーンで結ばれた革製のデッキホルダーの留め金を外す。中に入っているのは、ギルバートがこれまでに集めてきたブロンズカードたちだった。それら銅製のカードの厚さはごく薄く、その扱いにはある程度の慣れがいる。


ギルバートは辞書のページを片手の指だけでパラパラと索引するように、慣れた手つきで自分のデッキを扱い始めた。デッキ内のカードはランダムな順番で重ねられているが、ギルバートは目当てのカードを指先の感覚だけで瞬時に索引して取り出すことができた。


なんのことはない。必要なカードを必要なときに一瞬でドローする。トーナメント・プレイヤーならば誰でもできる必須技術だ。


いつものルーティンをやって、猛る欲望を鎮めつつ、ギルバートはゆっくりと周囲の光景を眺めてみた。


チェスの試合会場のように、そこかしこに並べられたいくつものラウンド・テーブルと、それを挟んで対峙するトーナメント・プレイヤー。そして、それを囲んで怒号を上げる観客たち。


それらの熱気と低俗さとは対照的に、今ギルバートがいるこの巨大な建物の、鉄骨とガラスでできたドームのような壁と天井は涼やかで荘厳で、そしてシンプルに美しかった。


この場所の名はクリスタル・パレス――ガラスと鉄でできた壮麗な現代建築にして、自分とカードの魂を賭けるウィザードたちの熱き戦場だ。


大英帝国の帝都、ロンドン近郊の丘陵地帯シドナムに、数十年前に建築されたここクリスタル・パレスは、公園やコンサート・ホール、美術館、植物園に動物園といった施設が設置された複合娯楽施設だ。


ロンドンからのアクセスが容易で、入場料も一シリングと庶民の懐にもそれなりに優しいこともあって、平日休日問わず多くの人が訪れる名所となっている。


しかしながらここにやって来る人々がもっとも楽しみにしているのはオーケストラの演奏会でもなければ、貴重な熱帯植物でも珍しい恐竜の模型でもない。


――ウィザード・トーナメント。


上は女王陛下、下はイースト・エンドの浮浪者に至るまで、大英帝国の老若男女を虜にするウィザードたちの戦いが、大英帝国の先進技術の粋である、ここクリスタル・パレスで日夜繰り広げられているのだ。


壁際のスクリーンに映し出されている他の試合と、それに熱狂する人々の喧騒をしばし眺めていたギルバートだったが、パラパラとカードをめくっていたその手が不意に止まった。


向こうから人混みをかき分けつつ、ようやく審判がやって来ようとしていた。


(まったく、来るのが遅いよ)


ギルバートはふんと鼻を鳴らした。


もともとウィザード・トーナメントは有事の際の――もっとはっきり言ってしまえば、戦争のときに敵兵をぶち殺すためのウィザードたちの戦力強化を目的として開催されているので、相手プレイヤーに直接攻撃するのが禁止されている以外は、イカサマだろうがなんだろうが、基本的になんでもありなのがトーナメントのルールだ。


そのため、審判なんていてもいなくても試合にはそれほど影響しない。まあそれについてはどうこう言っても仕方がないのだが、とはいえ、鼻ぐらいは鳴らしたくなるというものだ。


(試合が始まる前にイッてしまったらどうしてくれるんだ)


もぞもぞと椅子の上で姿勢を変えながら、ギルバートはそう考えていた。


観客をかき分けながらやって来た審判はラウンド・テーブルの側につくと、たいして悪びれた様子も見せずに言った。


「やれやれ、遅くなってしまったな。ギルバート・ヘインズ。ジョン・アーヴィング。二人とも、準備はいいかね? ……どうした、ヘインズ。もぞもぞと動いたりして。催したのか? トイレにでも行きたいのか? できればさっさと始めたいんだがね」


「いえ、大丈夫ですよ。催しているのはまあ、その通りといえばそうなんですが……ただ、理由はあなたが思っているのは違う意味ですから」


「うん? それはいったいどういう意味……うッ!」


こちらの言葉に怪訝そうに首を傾げていた審判は急に顔を歪めた。その顔には驚愕と嫌悪の表情が浮かんでいる。


審判の視線は周囲からは陰となって見えないテーブルの下……ギルバートの下半身へと向けられていた。


おぞましいものを目にしてしまったといわんばかりの審判に向かって、ギルバートは真っ白な歯を見せて言った。


「さあ、早く始めましょう……早く始めないと、僕はもう……うふッ」


「ル、ルールの説明をするッ!」


審判は、もどかしく吐息を漏らすギルバートから目を背けると、一刻も早く試合を終わらせてこの場から立ち去りたいかのように口早にいつもの説明を開始した。


大英帝国マジック・トーナメントは三部制が採用されている。初心者の登竜門たるCランク。もっとも人数が多く、幅広い層のプレイヤーが熾烈な戦いを繰り広げるBランク。そしてほんのわずかな人数とその数に反比例したかのような凄まじい腕前を持った、世界最高峰のウィザードたちが集うAランク。


様々な試合形式と大会の種類があるBランクと、プレイヤー数がたった数人しかおらず、また戦いによる周囲への影響範囲も大きいのでめったに人前で行なわれることがないAランクに比べ、Cランクの試合はとてもシンプルで小規模だ。


戦って、相手を戦闘不能にするか、降参させる。


試合に勝ったほうが、相手の持っている勝ち星をひとつ奪える。


勝ち星を十点集めれば、Bランクに上がることができる――以上。


審判のいつもの説明を聞き終えて、ギルバートは薄く笑った。試合直前のこの高揚はいつだってたまらない。


パラリと額に垂れかかった一筋の前髪をゆっくりとかき上げて、自分のデッキホルダーに手を伸ばす。薄いブロンズカードの束を片手でパラパラとめくる動作を一度、二度繰り返し、そして三度目――デッキの中央付近でピタリと狙い澄ましたかのようにその手が止まった。


芸術家のように細く、白く、繊細なギルバートの指が一枚のカードを掴んでいた。


白魚のような指で冷たいカードの表面を撫でる。そのゆっくりとした動きは最愛の恋人を愛撫するかのようだった。


いや、実際のところはギルバートにとってはそれ以上のものだった。


ギルバートは特別なそのカードを自分の口の前に持っていくと、真っ赤な舌を突き出し、そして……舐めた。


「うふッ、うふッ」


女の敏感なところを味わうかのように舌先でカードをねぶりつつ、ギルバートが桃色の吐息を漏らすと、それまで罵声と歓声が飛び交っていた周囲の温度が急激に下がった。


ラウンド・テーブルに座るギルバートと対戦相手を囲む周囲の観客たちは絶句していた。


動く賭け金が低いCランクの観客といえば、ロンドンの中流階級から下層階級の者がほとんどで、貴族の娘が見たなら卒倒してもおかしくないほどの粗野な振る舞いをするのが彼らの常だったが、そんな彼らはギルバートの振る舞いを見て沈黙していた。


「気持ちわりぃ……」


観客の中の誰かが呟いた。心底吐きそうな声色だった。


しかしそんな周囲の観客たちの反応をギルバートはまったく意に介さなかった。ギルバートは自分の……いや、自分たちだけの世界の中にいた。


ギルバートは声には出さずに、カードに向かって語りかけていた。


(やっとだ、やっと始まるよ。ねえ、もうそろそろ出していいよね、アンジェラ?)


ギルバートのアレは先程から焦らされまくって、いい加減破裂しそうになっていた。ドクドクと全身の血液が駆け巡っている。神経はビンビンになって張り裂けそうだ。


熱情と劣情に浮かされるままに審判のほうに視線をやる。審判の肩がなにかに怯えるようにびくりと震えた。


審判はなにかから逃れるように叫んだ。


「で、ではこれより、Cランク・ウィザード・トーナメント、ギルバート・ヘインズ対ジョン・アーヴィングの試合を始めるッ! 両者とも、女王陛下の名において恥じることのない試合を心がけるように!」


そして開始された、スリー、というカウントに耳を傾けながら、ギルバートはいつものように自分と彼女のあいだにある繋がりに意識を集中させた。


現在、ギルバートの勝ち星は七個。イートン・ウィザード・スクールを卒業してからのこの数ヶ月間、一度も負けなしでここまで駒を進めてきた。


Cランク・トーナメントは初心者プレイヤーにとっての登竜門だ。生半可な気持ちや半端な実力でトーナメントに挑む者はまずここでふるいにかけられることになるが、それは相応の実力を持つ者にとっても同じことだ。Cランク・トーナメントは運営によって、同等の実力と勝ち星を持つ者同士が戦うように試合が組まれるため、プレイヤーたちはたったひとつの勝ち星を巡って、一試合ごとに寿命を削るような戦いを繰り広げることになる。


そんな熾烈なトーナメントの中で、デビュー以来一度も負けることなく七連勝を飾ってきたというのは普通のことではない。ギルバート自身、その自覚があるし、実際、最近トーナメント・マニアの中で自分の名前がよく噂になっているという話を人づてに聞くことがある。


(だけど、そんなことはどうでもいいことだ)


唾液で淫らに濡れた自身のカードを、いとしく見つめる。


ギルバートにとって大事なのはこのひとつ。


自身の魂ともいえるこのカードとともに、絶頂に至ることこそが一番大切なこと。


「ツー」


ギルバートは顔の前に掲げたカード越しに、今日の対戦相手の顔を見た。三十歳前後といったところだろうか。青ざめた顔に緊張した表情が浮かんでいる。少し頬肉がタプタプしている、街角のどこにでもいるような男だ。


この人はどんな人なんだろうか。ギルバートは想像する。家族はいるのだろうか。本業を他に持っているのだろうか。どれくらいの金や時間をトーナメントに費やしているのだろうか。彼はどんな欲望を抱えてクリスタル・パレスにやってきているのだろうか。


そしてギルバートは自分に、相手に問いかける。


はたして、この人は自分と彼女を気持ちよくしてくれる人物なのだろうかと。


(ああ、たまらない)


ギルバートの興奮は絶頂の予感に向けて高まりつつあった。


イートンを卒業してからのこの数ヶ月間。すべての時間を自分と彼女のために費やしてきた。タワーを攻略し、カードショップに通い、資金を作ってカードを集めて、彼女を強化して……そしてこのCランク・トーナメントで七連勝を重ねてきた。


過去の七試合はいずれも大したことのない相手だったが、今目の前にいるジョン・アーヴィングはどうなのだろうか。


願わくば、強く――何度果てようとも尽きることのないこの欲望を満たしてくれるほど強い人物であってほしい。


「ワン」


ギルバートは下半身に熱い液体のようなものが満ち満ちるのを感じながら、ちらりと自身の下腹部に目をやった。


「ゼロ――試合開始ッ!」


――彼女と一体となって戦うことができる歓びに、ギルバート・ヘインズのそれは大きく興奮していた。


そしてカウントが切られたその瞬間だった。


ギルバートは爆発した。


今まで焦らされ焦らされ、溜まりに溜まったギルバートの下半身から、溶岩のように熱いものが凄まじい奔流を伴って放たれていた。


ギルバートから放たれた濃厚なそれはカードとのあいだに形成された魔術回路を通じて、彼女に向かって一気に流れ出す。


その勢いに耐えきれず、ギルバートは思わず嬌声を上げた。


「ああ、イクよッ! ――召喚ッ! 〈愛欲のサキュバス〉!」


カードを持ったギルバートの手から視界を焼き尽くすほどの強烈な白い光が膨れ上がった。その光は流星のごとく空に向かって駆け上り、ガラス張りの天井を透過し、クリスタル・パレスの蒼穹へと放たれていく。


クリスタル・パレスの上空、見下ろせばガラスと鉄骨の宮殿が一望できるほどの高度で、その真っ白な光の塊は白濁した液体のようなものをポトポトと垂らしながら、その実体をあらわにしていく。


白い膜がぬるりと溶けるように、その光の中から現れたのは一体のサキュバスだった。


波打つ長い銀髪に大理石のように白く艶めかしい肌。赤い瞳と、濡れたように黒い尻尾。少女のように華奢で、淫らな貴婦人のように豊満なその身を包むのは、その艶やかな肢体のラインにピッタリと張り付くような黒いミニドレス。


無邪気な乙女のように無垢で、熟練の娼婦のように淫らな表情を浮かべて、そのサキュバスは青い空の中、銀色の髪を風になびかせながらくるくると踊る。


と、その真っ赤な唇が不意に開かれた。なにもない空中でステップを刻むように踊りながら、彼女はこちらとのあいだに繋がっている魔術回路を通じて語りかけてきた。


(ご機嫌はいかがかしら、マスター?)


絹を撫でるようなさわさわとした声に耳元をくすぐられてて、ギルバートは思わずビクンッとなった。


(もちろん問題ないよ、君がいれば僕はいつだってビンビンなんだ。アンジェラ、それは君にもわかっていることだと思うけれど?)


(ですがマスター、先程はすごい量をドピュドピュされていたでしょう? いつもよりたくさんでしたから、わたくし、少々心配になってしまいましたわ。大丈夫ですか? まだ頑張れそうですか? まだドピュドピュできそうですか?)


小さい子供に語りかけるようなその口調にギルバートはしっかりと頷く。


すると魔術回路の向こうでアンジェラがにこりと笑ったのがわかった。


(マスターはえらいですわね♡ では今日もその調子で励んでいただいて、わたくしと一緒にいっぱい気持ちよくなりましょうねっ♡)


そんなアンジェラの声が脳内に直接響いてきた途端、ギルバートの脳みそはあっという間にとろけて熱いバターになっていく。そう、これだ。これを求めて、ギルバートは彼女を召喚し続けて今日もこうして繋がっているのだ。


最愛のソウルカードとのあいだにできた魔術回路を通じて、まるで自分とアンジェラが身体のもっとも敏感なところを結合させているかのような一体感に身を委ねていると、ギルバートの下半身がまたあっという間に熱くなってきた。


(……うッ)


(あら、マスター、まだいけませんわよ。もうちょっと我慢していただかなければ、メッですからねっ)


(そ、それはわかっているんだけど……)


こんなの我慢できるわけがない。ギルバートは懸命にこらえながら思う。ああ、早く、早く――


「早く僕らを気持ちよくさせてよ――ねえ、アーヴィングさん」


「……」


アンジェラとの魔術回路から意識を若干切り替えて、ラウンド・テーブルを挟んで目の前に座る男に向かって言う。


「いつまで様子見しているつもりなのかな? 遠慮しなくてもいいよ、もう試合は始まっているんだ。あなただってこれが初めてってわけじゃないんでしょ? ……うふッ。そんなに緊張しなくても大丈夫……」


真っ赤な舌先で唇をぺろりと舐めながら告げる。


「僕らと一緒に気持ちよくなろうじゃない、ねえ、アーヴィングさん……」

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ソウルカードプレイヤーズ 霜田哲 @tetsu_9966852

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