第9話 正社員になると、何が変わるんですか?
先頭のテツさんが普通の声量で「チィッス」と言いながら事務所兼社長室の扉を開けて入ったのに合わせるように、みんなそんなに大きすぎない声でそれぞれに挨拶の声を放って中に入る。
私もそれに合わせて「おはようございまース」と大きすぎないボリュームに絞って挨拶をしてから扉を閉めた。
いつも大声で気合いを重んじるガンさんや、何か有る度勢い任せに叫ぶような喋り方をする事が目立つ社長に対して、テツさんは普段の会話ではそこまで大声を張る事が無い。それでも低い声だから、十分に響く。そういえばリースさんの喋り方や挨拶の仕方もそんな感じだ。ただし、リースさんは発音や言葉の区切り方が独特だから、聞こえ方や印象は全く異なったものになるけれど。
事務所内には社長だけが朝から来ていて、奥の社長用事務椅子に座ってデスクに向かっている。今日は普通にジャケット無しの作業着姿。首元には作業着の下に着込んでいるワイシャツとネクタイの結び目が見えるが、中小企業の社長としては無難な恰好だと言えるだろう。社長用の椅子は際立って高級な椅子ではないようだが、他の椅子よりも少しだけ構造が頑丈に見えた。PCのディスプレイを見ているようだが、何の作業をしているのかは分からない。
テツさんはタイムカードを押しながら、
「社長、ボイラーは火ぃ入れときましたからね」
とだけ言うと事務所内の側面側に並んでいる事務机の方に行って椅子に座った。反対側に向い合せで置いてある応接用のソファセットの方、ソファ同士の間に有るテーブルに、もっと細かく言えばテーブルの上の大きなガラス灰皿に一瞬目をやった所を見ると、もう一本煙草を吸いたいようだった。
「おう、ありがとね。ガンさんは、先に中入ってる、って言ってさっき行ったから」
と返す社長の声に続けるように、タイムカードを押したヨン様が社長に、
「今日。私達は今日のお仕事、昨日の続きで良いですか?昨日のお仕事、続きをそのままで良い?」
と簡単に業務の確認をする。リュウさんとリースさんは黙ってそちらに目と耳の意識を向けている。
必要な事柄を伝える社長は淡々と喋る。さすがに社長も毎回勢い任せに叫んでばかりいる訳ではない。それはそうだ。というかそれが普通なのだが。お仕事なんだし。出来ればずっとそうしていて欲しい。
そのやりとりを聞きながら私はタイムカードを押し、壁に掛かっているお昼の仕出し弁当利用者チェック用紙を見て今日の日付と私の名前部分を確認しチェックを入れる。今日のお昼は固形物を食べても大丈夫だろう。
お弁当のチェック用紙をもう一度見直してみても、用紙に書かれている私の名前の並び順はいつものままだ。
正社員になっても用紙上の並び順が変わっていたりという事は特に無い。元来私は序列とか順位に関心を持つ性格では無いから別にどうということも無いのだけれど。
「じゃ、よろしく。今日も他のメンバーはいつも位の時間に来ると思うから、それまでに温度だけ確認忘れないでね。品物はガンさんが言うまで動かさなくても大丈夫だから」
そう社長に言われたヨン様、リースさん、リュウさんの三人は外へ出て工場出入口に向かった。事務所を出て直ぐ隣にある工場出入口を開けて入るか、工場出入り口の横に有る大型シャッターをくぐればそこが作業を行う現場になっている。但しシャッターの側からだと、くぐってすぐ目の前に当たる空間が今は資材置き場として使われているので、普段人が動き回る作業場に入るにはもう一つ仕切りの扉を開く手間が必要になる。だから事務所から出て作業場(工場)に入る際、殆どの場合はみんな工場出入口の方を使っている。シャッターの方から入るのは資材を確認しながら入りたい時か、ものが少なくてシャッターも仕切り扉も開けっ放しになっている時くらいだろう。
私は事務所に残って社長に話しかける。
「あの、社長。昨日社長が言っていた私が正社員に、とかの、その話なんですけれど」
社長はデスク越しに「ん?」という顔をして、横ではテツさんが少しだけ顔をこちらへ向けた。
「うん。社員だよ。言っただろ、ハジメはもう社員さ。そして主任であり部門長でもある。汎化学薬品部門な。これでお前も硫酸部門のガンさんや技術部門の、まあ実質遊軍のテツさんと同じ主任さんだ」
「え、社長、それって、その、ええ、書類とかどうなっているんですか?やる事とかお給料とか、具体的に何がどう変わるのでしょうか?契約とか。詳しい事がまだ何も聞けていないんですけれど」
社長は少し不思議そうな顔をした後で、
「ああ、そうな。お前、そういうの細かいとこ気にするの好きだもんな」
と言って椅子から立ち上がり、デスクの横から回って応接用ソファの壁側の方に移った。目で「お前も向かい側のソファに座れよ」と促している。
「はい」
と社長の目に答えて向かい側のソファに座り、テーブルを挟んで社長と向き合う。改めて目が合うなり社長は言った。
「だから社員だよ。パートタイマーで入ってから、もう五年もうちの会社にずっと居て、資格も色々取っただろ。正社員なんだよ。ハジメ、お前は」
社長の言葉からは、もう決まっている事なのにな、説明が面倒くさいな、とでもいうような感情が読み取れた。
「ですが、その、正社員にして頂けるのは有難いのですが、契約とかその為の書類とかどうなっているんですか?それと、ですから、正社員になると何が変わるんでしょうか?職務内容とか、お給料とか、色々と必要な所が、説明が何も」
私の声を遮るように、社長は「あー分かった、そういう事か、それが聞きたいのね」という顔をして立ち上がり、また自分のデスクに戻って引き出しから小型の封筒とクリアファイルを取り出して来て、ソファに戻った。
「はい、コレだよ。ハジメはさ、こういう紙で読む方が好きでしょ。コレにまとめてあるから。就業条件とかそういうの」
そう言ってガラスの灰皿を横へずらしながらテーブルの上に封筒とクリアファイルを一旦置いて、机の上でファイルを突くように押してこちらの方に動かした。
細かい事はファイルの中の紙に書いてあるから読めば良いよ、という意味なのだろう。
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