第3話 免状と正社員 前編
ドクターから説明と注意を受けて病院の総合受付に送られ、清算を終えて外に出たら太陽の日差しが目を射した。
返却された腕時計を手首に巻き直しながら時間を見てみると、まだ正午前。
思った以上に早い退院だ。
一応社長に連絡しておこう。そう考えてスマートフォンとは別に契約してある仕事用の旧式携帯電話を取り出して電源ボタンを押しながら移動する。さっき私が出て来た病院の出口が「ヘビガハラ総合病院」で、その出口の先にもう一つ門が有り、門の外側から見ると「医療センター一般出入り口」というプレートに彫り込まれた綺麗な文字が目に入る。
今でも関係がよく分からないのだが、ここは「首都圏医療センター」という施設の敷地で、その内側に「ヘビガハラ総合病院」が建っているのだ。
何度もお世話になっているのだが、さっぱり分からない。「医療センター」の中に「総合病院」が有るのか、別のものなのか、合併とかなのか、誰に聞いても分からない。この土地に引っ越してきて以来の謎の一つだ。
しかし、この地域ではそういうものなのかも知れない。そもそも「ヘビガハラカレエガワ町」という地名自体が長過ぎてよく分からないし、市町村合併の影響なのか、或いは私が区名みたいなものと町名を区切らずに繋げて教えられたまま今に至っているのかも知れない。でも引っ越しの手続きも免許証の書き換えもこの表記で通った筈なんだよなあ。
というか本当にここは首都圏なのだろうか?畑と工場以外に目立つものも無いのだけれど。バベルの辺りは別として。
和尚さんのお寺もかつては宗派名が書いてあったらしい石碑を撤去してしまって宗派不明のまま「お寺さん」として地域にそのまま馴染んでいたし、どうなっているんだ。
そういうのを言い出したら、うちの会社もお隣の鉄工所と敷地の境目が曖昧なままだし、就労しているお互いの社員さんや私を含むパート・アルバイトも時々日雇いで手伝いに行ったり来たりしているし、この辺りでは曖昧なのが当たり前という感覚でみんな暮らしているのかも知れない。
というか私自身もパートタイマーなのに社員さんと同じ仕事をし続けているし、うちの会社では社員さんもパートもアルバイトも全員時給制で給与が計算されている訳だから、全て違って全てが同じという域に踏み込んでいる可能性も有る。
でも、法律とか大丈夫なの?
パートタイム契約で入社したばかりの頃に何度か社長に聞いてみた覚えも有るのだが、毎回社長は私の質問に対して「合法合法!!」「法令遵守ぅ!!」と大声で笑いながら返すばかりで結局何も分からなかった。
というかあの社長、物凄く頭は良いのに勢いで色々押し切るんだよなあ。
恩は有るけれど、正直それが苦手な所だ。
今からその社長に連絡を入れようとしているというのに。
でもまあ、大人だしな。連絡はしよう。
そう思い切って旧式携帯電話の電話帳機能から「ボス」を選択し、ボタンを押した。
社長、すぐ出た。
ヒマなのか。ヒマなんだ。多分。そして相変わらず勢いが凄い。
「おう、一晩で即退院か。やっぱりな。全く心配して無かったぜ」
「いや、心配して下さいよ」
「心配要らないさ。お前は俺が見込んだタフ・ガイだ。問題無い。信じている」
「いえ、ご存じの通り滅茶苦茶に虚弱です」
「問題無い。俺の目に狂いは無い。いつだってそうなんだ。というかお前が抜けると問題が出る。今日は休みにして良いからさ、夕方に一回顔出せよ」
「それは休みではなく出勤なのではないですか?」
「休みでオッケーだ。ゆっくり休んで会社に来い。残業前の長休憩なら来れるだろ。一回顔出しとけよ。いちおう、な。俺も居るから。俺はお前を信じているぞ」
早口にそう言って電話は切れた。
怪我とか事故とかの報告は全く出来ず、何の為の連絡なのかも分からない。
分かった事は、退院して即職場が私を待っているという現実のみだ。
矛盾と理不尽だらけのような気もするが、私に対して現実は常に最強だ。それを観て考えて行動するのが最善なのだ。
結局の所、生きて行くしか無いのである。この日常を。
医療センター前バス乗り場からバスに乗って駅前まで移動し、そこから徒歩で社宅に戻った。はっきり言って遠回りである。しかしこれしか交通手段が無いのだから仕方無い。
病院まで行って帰るだけならば、本来は原付か自転車で走れば早いのに、今の私は入院明けだ。入院期間が一泊二日だけだったにせよ。
救急で運び込まれたのだから乗り物は無い。迎えに来てくれる人も無い。会社のみんなは今の時期、人手不足でヒマも無い。社長はヒマに見えるけれど、あの人は車とか出してくれなそうだし。出してくれないからこの経路で帰宅している。
泣きそうになりながらも「捨」「捨」「捨」と呟く。頭に浮かぶ負の感情を、浮かんだ側から手放していく。捨の修習がある程度まで自動的に出るのは我ながら素晴らしい。精進した甲斐もあったというものだ。
しかし。辛いものは辛い。そこにゴリ押しで「捨」。私が知る仏教の修習法においては四無量心でも七覚支でも並びの最後に出て来る「捨」の心。古代言語・パーリ語では「ウペッカー」とかそんな響きの言葉だった筈だ。そもそも古マガダ語や未だ発見されていない未知の古代言語からパーリ語になりそこからさらに多重翻訳みたいなものが掛かっている可能性が大きいから、現代日本人の私には正しい発音なんて理解のしようもないけれど、知る限りでは「ウペッカー」。私の頭には何故かペリカンの姿が毎回浮かぶ。そしてそのイメージも「捨」で即座に手放して行く。
気が付いた時には自室の鍵を無意識に開けて和室の畳で大の字になっていた。
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