第4話 免状と正社員 中編
和室の畳、引っ越して来てから全然色が落ちないなあ。
こういうのって何年か暮らしたら畳表を替える必要があった筈だけれど、これならまだ数年はこのままで保ちそうだ。
私はパートタイマーなのに、一人暮らしなのに、入社と同時に用意されていた社宅は二階建ての集合住宅で、少し古いけれど全室が家族向けの3DK。南側に大きな窓が二つ有る。何故だか分からないけれど、うちの会社と敷地が曖昧になっている鉄工所の人も住んで居る。細かく言うと、住人全員が勤め人という訳でも無いらしく、「うちの会社か鉄工所かどちらかの関係者らしき人々」が住んで居る。これは本当に「社宅」と言えるのだろうか。
意味不明過ぎて理解も説明も出来ないけれど、やっぱりこの曖昧さがお土地柄とでも呼ぶものらしいと私は疑問を飲み込んでいる。
まあ、じっさい住みやすいし。広いし。天引きの家賃は格安なんだし。
いや、それなら給料を上げて下さいよ、とも思うのだけれど色々お世話になったしなあ……あの社長に……でも勢いまかせっぽい所と意味不明の合わせ技みたいなのが毎回だしなあ……いや、それでも会社のみんなも優しいし、本当に、日本人より日本国籍持っていないっぽい人たちの中に居ると落ち着くんだよなあ……この会社辞めたら、この部屋ともみんなともお別れになっちゃうしなあ。欲しいものが有ってお金が足りない時には会社のお隣にある鉄工所で日曜日に日雇いアルバイトをすれば買えるというか、そもそも私が欲しがるものは大抵そこまで高くない。そして高いものはこの土地には売られていない。一応首都圏の筈なのに。だったらこのままパート勤めを続けるべきなのか。
そんな風にモヤモヤしたり「捨」で心の濁りを手放したり、四無量心の「慈」「悲」「喜」「捨」を順番に修習してみたりしている内に、陽が傾いてきた。
取り合えず栄養補給用に箱買いしてあるゼリー飲料のパウチを開けて胃に入れてから、荷物を背負い原付に乗ってヘルメットを被り、会社に向かった。
太い道を真っ直ぐ走って脇道に入り、畑の続く景色を抜け、この街にもう一本有る太い道を渡ったら大きな畑の真ん中にやたらと巨大な看板が有る。
「株式会社クロガネ工科第一鉄務」。何回見ても、何回日雇いアルバイトに来ても、本当に会社なのかそれとも公的な何かの部署なのか曖昧な社名。通称「鉄工所」又は「鋳型」である。
その横に、張り合うようにして聳え立つもう一つの看板。
「株式会社ナカタニスラッシュ工業技術」。こちらも会社なのに工場なのか研究施設なのか曖昧な社名である。そしてこちらが、私の所属する「うちの会社」だ。
「鉄工所」の方は看板に相応しく大きな工場と倉庫、そしてクレーンを備えた資材置き場が敷地に存在するのだが、「うちの会社」はとても小さい。一応建物は工場の他に休憩室とか事務所で別れて複数有るのだが、どう見ても外見は古びた小さな町工場だ。
そして巨大な「鉄工所」と小さな「うちの会社」はどこまでがどちらの敷地になるのか分からない。
見た目だけなら、明らかに「鉄工所」がメインで「うちの」はオマケみたいに思われるだろう。
しかし、これらは別の企業なのである。そうなっている筈だ。そうですよね?社長。その辺は信じさせて下さいよ。
何かに祈るような気持ちになりながら、先ず事務所兼社長室の扉を開ける。そして挨拶。声を張る。
「お疲れェース!!」
取り合えず挨拶・気合い・肚から声出す。現場はコレだ。というか癖だ。
「おっしゃあ!来たな。信じていたぜ、ハジメぇ!!」
事務所で一人、デスクに向かっていた社長は謎に気合い充分だ。頭をべったりポマードで固め、首元には下に着ているワイシャツの襟とネクタイが見える灰色の作業服の上から黒のフォーマルジャケットを羽織っている。
ファッション的には意味不明なのだが、現場ではコレが「現場も交渉もデキる腕利き社長」として通用してしまう場面が結構有るのだ。全く通用しない場面も有るけれど。
「保険、効いただろ!?」
「あ、はい。普通の健康保険で」
「そうだ!皆保険・皆年金!!社員もパートさんもアルバイトさんも福利厚生皆同じ!!我が社の強み、『人の力』だ!!」
「はい!」
「『人力』だ!!」
「はい!」
おそらく、このやりとりに深い意味は特に無い。
宗教的儀礼に似る、と言っても差し支え無いだろう。これは社長の祈りの形だ。
きっとそうなんだよ。
「支払った分も出すからな!社から!!領収書、早く出せ!!」
「あの、社長、領収書とか書類はまとめてありますけれど、コレって労災とかの手続きは……」
「え、ぇ?」
突然社長の目が泳ぎ始めた。
「社長、労災は」
「ろ、労災は、下りないんじゃない、かな?うん、まあ社から全額出すからさ」
社長、どんどん声が小さくなっていく。
「社長」
「フジクラ君、食堂へ行こう。みんなもう長休憩に入っているし、君を待っている筈だよ」
「社長、労」
「食堂だ。私も行こう。フジクラ君、君は今すぐ仲間に元気な顔を見せてやるべきなんだよ」
片手に持ったバインダーに私が持ってきた入院書類を挟むと、社長はもう一方の手で私の肩を軽く押し、そのまま事務所兼社長室を出て食堂に向かった。「食堂」と言うのは「休憩室」兼「更衣室」兼「臨時作業室」の建物なのだが。
どうでもいいけれど、うちの会社は建物全てが平屋建ての建物だ。作業をする工場から事務所も食堂もトイレでさえも、毎回出入りをしないといけない。
社長と共に食堂(色々兼ねている休憩室)の中に入ると、いつものみんなは残業前の長休憩で食べるカップ麺を折り畳み式の長机に並べていた。
残業前の時間だけあって、メンバーにはいつも以上に日本国籍保有者が少ない。
大半が硫酸チームである。というか、現状で硫酸以外の化学薬品を扱えるのは社長を除けば私だけなのだが。パートタイマ―なのに、私。
「ハジメさん、生きてた」
最初に反応したのはヨン様(あだ名)だった。端正な顔立ちで年齢がさっぱり分からないが、端正な分だけ驚き顔と喜び顔の落差が大きいので人受けもさらに良いのだろうなと感じさせる。
「心配したよ」
眼鏡を揺らしながらヨン様は続ける。いつも通りヨン様の横に陣取っているリュウさんもゆっくり首を動かして同調を示した。
「みんな心配した。ハジメさんガス、吸った。倒れた。大丈夫?リースも『アジム』『アジム』言っていたよ」
後ろから色黒なリースさんが顔を覗かせる。小柄ではあるが、がっしりとした体格と男らしい太い眉といかめしい顔つきから、初めて見たら怖がる人も多いだろう。発音の癖なのか、リースさんは「ハジメ」を「アジム」と発するのがいつもの事だ。普段は無口だが、リースさんは声も低くて落ち着きのある、海外出身者達のリーダーみたいな存在なのである。
その低い声でリースさんは言った。
「エイジ―ム」
多分「アジム(ハジメ)」と声を掛けてくれたんだろうな、と私は察する。完全に名前が変わってしまったが。
一旦椅子から立ち上がったリースさんは、私の顔と頭の周り辺りに視線を動かした後で、もう一度口を開いた。
「エイジ―ム、……アナタ、やっぱり……エイジ―ム。それはスゴイこと。素晴らしいこと」
何だろう、褒められたのかな。よく分からないけれど、その瞬間にリースさんの受けた何か、感動に近いメッセージが私に響き伝わって来た。
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