第19話 それが礼儀だ

「ちゃんと渡してきたか? あのジイさん、ブルってなかったかい?」

「まあ、大丈夫だろ」


 一部始終を目撃してしまった男に金を渡せと、グラスはマリオに言った。口止めでもするのかとマリオは思ったが、グラスが言ったのはそういうことではなかった。


 いいかい、マリオ。グラスは弟分に言い含めた。この街のほとんどの市民にとって、僕たち冒険者というのは恐怖の対象なんだ。いない方がいい存在なんだ。もちろん、僕らは仁義と、魔物からこの街を守っているという誇りを持っているが、そんなのはカタギの皆さんにはまったく関係のないことさ。シロウトさんは、殴り合いの喧嘩を見るだけでも怖い思いをするものなんだ。


 だから、しっかりとそのことを謝ってこい。グラスが指示したのはそういうことだった。


「まあ、あれで大丈夫だと思うぜ。あのジジイ、最後は笑ってたじゃねえか」

「確かにそうだな。何がおかしかったんだろうな」


 グラスは首をひねったが、やがて気を取り直すかのように賭博場を見上げた。その顔を大粒の雨が打った。

 それほど大きな賭博場ではなかった。だが、その白亜の建物は、夜の闇の中でも己の存在を誇示するかのように異様な佇まいを見せていた。グラスの調べでは、この賭博場はハイクラスの客をターゲットにしており、毎晩豪華な飲食と、高レートのギャンブルでお上品な連中を楽しませているらしい。もちろん、この店にかぎってはいかなる暴力行為も行なわれない。ここは上流の人間だけを相手にする、純粋なエンターテイメント施設なのだ。


「ここをホームにするってところに、やつらの浅ましさが見えるようだね」


 だが、グラスはそれを嘲笑った。


「裏ではクスリを流し、泣きわめいて嫌だと言う女に、無理やり体を売らせている。従わないシロウトさんは容赦なく締めあげて、墓に埋めてしまう。それでいて、自分たちはこういう洒落た店に陣取って、何も汚いことはやってませんよ、って顔をしてみせる――オルクとメイソンっていうのはそういうやつらさ」


 なるほど、とマリオは以前にやり合ったオルクの顔を思い出してうなずいた。初めに出会ったときの慇懃無礼なあの態度。顔は笑っていても、腹の底にドス黒いものを抱えているようなあの態度。この気取った賭博場はやつらにピッタリだ。たぶん、ボスのメイソンというのもオルクと同じようなやつなのだろう。


「ってことは、《大鬼の雷鎚》のトマーゾってのも――」


 同じようなやつか、と言おうとしたが、グラスは首を振った。


「いや、あいつはメイソンたちとはモノが違う」

「そんなクソ野郎なのか?」

「まあ、それはそうなんだが、モノが違うっていったのはそこじゃない。これが違うのさ」


 グラスは自分の腕を叩いてみせた。


「実力が違う。Sランク冒険者の名は伊達じゃないってことだ」

「……」

「ボスのことなら心配いらないさ。ドン・ルチアーノの心配は僕らがするようなことじゃない」

「しかしねえ、グラス坊」


 黒いレース傘の柄を手の中で弄びながら、エルマが口を挟んできた。他の三人が大雨でずぶ濡れになっているというのに、一人だけ濡れていない。だが、その顔は憂鬱そうだった。


「大鬼の方は、トマーゾの他に二人いるんだろ。こっちはメイソンとオルクを入れて、残り五人の中鬼をやればいいけどね。ボスは一人で、三人も相手どらなきゃいけないんだよ」


 グラスの綿密な調べは、鬼のギルドグループの全てを丸裸にしていた。

 鬼のギルドグループは下から順に、《小鬼の大鎚》、《中鬼の矛鎚》、《大鬼の雷鎚》で構成されていた。《小鬼の大鎚》は街の商店からショバ代を搾り取る、小さな仕事(シノギ)を主にしている。また、小型の魔物狩りもよく行っているらしい。《中鬼の矛鎚》の方は、この賭博場やいくつかの風俗店の経営、そして、そこで売り買いする麻薬によって、莫大な利益を上げている。その仕事の中核となっているのが、ボスのメイソンと会計役のオルクだ。そして、小鬼と中鬼から上がってくる上納金を、《大鬼の雷鎚》のトマーゾと二人の幹部が独占している。

 だがこの内、《小鬼の大鎚》はルチアーノたちの手によって、すでに解散している。チンピラに毛が生えたようなもんだった、というのはエルマの言だ。


「そんで、中鬼の正構成員が二十人かい。表口に五人、横道に五人、裏口に五人で、差し引き残り五人ってわけだね」


 エルマが煙管をくわえながら涼しい顔で言った。その足元には、グラスのナイフによって倒された中鬼の構成員たちが、血を流し、うめき声を上げながら横たわっていた。

 四人対二十人という喧嘩に臨み、奇襲という作戦を提案したのはエルマだった。


 なあに、喧嘩に卑怯もクソもないさ。そりゃあ、あたしだって正面からメンチ切ってやり合う方が性に合ってるよ。だけど、そういうのはいっぱしの野郎共を相手にするときの話さ。女を泣かせて、ガキンチョ共をヤクで壊すような腐った連中には、正々堂々なんて言葉はもったいないさね。


 マリオも、グラスも、ジーナもこれには賛成した。そうして、グラスが表口を、マリオとジーナが裏口の見張りを、それぞれ倒したのだった。

 問題はルチアーノの方だった。現在、ルチアーノは一人で、《大鬼の雷鎚》のアジトへ向かっている。そこでも《中鬼の矛鎚》と同様に、狼たちへの対応協議が行なわているはずだった。ルチアーノの強さには誰もが――一度、剣と拳を合わせただけのマリオも含めて――絶対的な信頼を置いているが、それでもその身を案じるのは当然のことだった。


「まあ、ボスのことは、グラスが言うようにあたしらが心配するこっちゃないね。こうしてくっちゃべっててもしょうがない」


 エルマが仕切りなおすようにして、手に持った傘をバサリと振った。雨粒がざっと落ちた。


「さあて、そろそろ本番と行こうかい――ジーナ、いいね?」


 先ほどから、ジーナは顔をうつむけて黙りこくっていた。革のジャケットの裾にはべったりと血糊がついている。見張りの一人を斬りつけたときに浴びたものだ。


「まさか、ブルってんじゃないだろうね? 初めて人を斬りゃ無理もないけど、気合い入れないと次に斬られるのはあんただよ」

「……大丈夫です。もう心配いりません」


 ジーナが面を上げると、そこには毅然とした表情が浮かんでいた。そして、腰に下げた剣柄にしっかりと手を当てる。その手に震えはない。


 たいしたもんだな、とマリオは思った。先刻、裏口で見せたジーナの戦いぶりには微塵のためらいもなかった。魔物狩りで自分の命をやり取りすることには慣れていたのだろうが、人の命をやり取りするのは初めてだったはずだ。

 だが、ジーナは血の誓いに従って、仇なす敵の血を流した。そして、今はその事実を受け止め、次なる敵の血を求めている。


「ここでカタをつけなければ、街の人に迷惑がかかります。それはあってはいけないことです」

「はんっ、ヒヨッコが言うようになったじゃないか」


 エルマは言ったが、その声音は優しかった。煙管を持った方の腕をジーナの背中に回して、その胸に妹分の顔を抱きしめる。エルマはあやすように軽くジーナの頭にキスをすると、体を離した。


「マリオ、あんたも必要かい?」

「いや、いい」

「けっ、やっぱり可愛げのないクソガキだよ、あんたは」


 だが、マリオに慰めは必要なかった。すでにその手は血に濡れている。


「さて、それでは行こうか」


 グラスが気負いなく言った。が、その鋭い瞳は、わずかな光が漏れ出る賭博場に向けられている。外からは中の様子を窺い知ることができない。内部に渦巻いている巨悪の正体を見定めるように、グラスは眼鏡のレンズをもう一度拭いてから、扉に手をかけた。

 中に入ると、赤絨毯が敷かれた細長い通路があり、先の方で右に折れ曲がっていた。入り口のすぐ左にはクロークがあるが、マホガニーのカウンターの中には誰もいない。ところどころに置かれた観葉植物や美術品がきらびやかな雰囲気を演出しているが、煙草の臭いで淀んだ空気は誤魔化せていなかった。


 淀んでるのは煙草のせいだけじゃねえな、とマリオは思った。ここは臭う。前にいたところでもよく嗅いだ臭いだ。おれを毎日殴ってた実の親の臭いだ。汚れた連中が仕切ってた界隈の臭いだ。こいつは汚濁と腐敗の臭いなんだ。汚い人間がうろつくところってのは、それだけで空気を濁らせるらしい。


「ここも同じだな」


 ジーナが振り返った。


「何がですか?」

「いや、汚え臭いは誤魔化せねえって話だよ」


 それ以上は説明しなかったが、なんとなく伝わったらしい。ジーナは納得したようにうなずいた。

 狭い廊下には最低限の灯りしかなかった。つまずかないで歩けるだけの明るさと、グロテスクにさえ感じられる成金趣味の美術品を、客に見せびらかすためだけの照明。赤絨毯を踏みしめると、動物の死骸を踏んづけたような気持ち悪い柔らかさが足に伝わってきた。薄暗い通路はひっそりとした沈黙に包まれていた。蛇の腹の中を歩いている気分だった――いや、違う。

 ここは中鬼の腹の中なのだ。

 ピノキオの話を思い出す。あれは確か……そうだ、でっかい鯨の中に迷い込んだピノキオとジイさんが、腹を突き破って鯨を殺す話じゃなかったか。

 マリオの顔にうっすらとした笑みが浮かんだ。

 右に折れ曲がっていた通路の先には急な階段が上に続いていた。それを上ると、突然、狭い通路が開けた。

 マリオたちがいるところは吹き抜けになっている大ホールの二階部分だった。手すりの向こうに見える一階部分には、スロットマシーンやルーレット、緑のフェルトが敷かれたカードゲーム・テーブルがずらりと並んでいる。ホールの天井から吊り下げられたシャンデリアが、金色のコインが行き交うはずの賭博場を眩く輝かせていた。

 だが、今はゲームを行っている者は誰もいなかった。コインを積み上げる紳士も、カクテルを優雅に飲むレディも、それらの楽しみを提供するスタッフもいなかった。


 いるのは、こちらを愕然と見上げる五人の男たちだけだった。


「《狼の血族》……!」

「よう、オルク。また楽しませに来てもらったぜ」


 オルクを含めた《中鬼の矛鎚》の幹部たちは、ホール中央のカードゲーム・テーブルの周りにいた。シャンデリアの灯りが彼らの呆然とした表情を照らしている。幹部の一人は、動揺を隠しきれなかったようで、よろめきながら立ち上がった。その拍子に倒れたカクテルが、テーブルに張られた緑のラシャをべっとりと濡らした。


「オルク・ビアード。てめえのボスの許可は今出たところか? おれをぶち殺すって許可はちゃんともらえたのか? ん?」

「……ルーキー・マリオ。てめえ……」


 オルクは歯茎をむき出しにして睨んできた。


「見習いの犬っころの分際でナメた口きくじゃねえか……。上等だ、約束通りぶっ殺して――」

「オルク、待たねえかこの野郎」


 立ち上がったオルクを止めたのは、筋肉質な巨体の男だった。剃りあげられた頭は褐色の地肌を覗かせており、鈍器で殴られた跡のようなへこみがところどころある。金色のピアスをつけた耳は、何度も内出血したかのように潰れている。丸太のような腕周りは、細身のグラスの胴回りぐらいあった。着ている黒スーツの胸の部分が裂けそうなほどに張り詰めている。

 褐色肌の巨漢はのっそりと立ち上げると、テーブルに立てかけてあった短槍を手に取った。男はがっしりとした肩に短槍を担いだ。その慣れた様子といい、その金壷眼に宿った殺気といい、どう見ても賭博場の華やかな雰囲気にそぐわなかった。

 しかし、中鬼の長としてはこれ以上にふさわしい容貌もないだろう。


「見習い分なんざに興味はねえ。……グラスってのはどいつだ?」

「おやおや、ご指名かな? あんたに名指しされるとは光栄だね、《中鬼の矛鎚》ボス・メイソン。でもね――」


 グラスはゆったりとした足取りで手すりの前に歩き出した。手すりから身を乗り出して一階を見下ろしたグラスは、マリオがこの人は絶対にしないだろうと考えていたことを、鮮やかにやってのけた。


 汚い中年男がやるように、勢いよく唾を階下に吐き捨てたのだ。


「メイソン。あんたに気安く名前を呼ばれる筋合いはないな」


 グラスの顔にはとっておきの嘲笑の色が浮かんでいた。


「さん付けだ。グラスさん、そう呼ぶんだ、このダボが」

「ちんけな狼の会計役ごときが調子こいてくれるじゃねえか」


 メイソンは褐色の肌に青筋を立てたが、その声は落ち着いていた。


「てめえらがここにいるってことは、若え衆はやられたか。使えねえやつらだなクソが。……おい、てめえんとこのボスはどこにいやがる? ここに来たのはてめえら四人だけか? 答えな、グラス」


 質問に対する返答は、一瞬の内に行なわれた。グラスの動きは早撃ちガンマンさながらだった。懐に手を入れ、ナイフを握り、抜き出すと同時に射出する。その一連の動作はピアニストの早弾きのように滑らかで繊細で、そして速かった。


 一振りのナイフがメイソンの足元の絨毯に深々と刺さっていた。


「グラスさん、だ。三度目はないぞ、メイソン」

「……おい、野郎ども――殺るぞ」


 中鬼たちが懐や腰から得物を取り出した。それを見たグラスは冷たい微笑を浮かべた。


「僕はメイソンとやる。マリオ、おまえは――」

「オルクをもらうぜ。野郎とはちょいと因縁がある」

「それじゃあ、あたしはあのデブとノッポをもらおうかねえ」


 エルマが煙管に葉をつめながら言った。


「ジーナ。あんたはあそこの鶏ガラ男をやりな」


 エルマが指差したのは頬がこけた痩せぎすの男だった。ヒョロリとした体をしていたが、その佇まいには異様な雰囲気があった。


「わかりました、エルマ姐さん。それじゃあ――」

「――ああ、始めるとしようかい」


 膨れ上がった殺気に包まれた賭博場で、唐突に狼と中鬼の喰らい合いは始まった。


 その火蓋を切ったのはメイソンとグラスだった。


 メイソンは巨体に似合わぬ俊敏さで動き出した。ホールを矢のように突っ切り、二階に上がる大階段を一足飛びに駆け上ろうとする。だが、メイソンが一歩目を踏み出すときには、すでにグラスの指の間には小型の投げナイフが三本握られていた。

 グラスは一本目のナイフを、階段に足をかけたメイソンに向けて投擲した。それをメイソンは横っ飛びに跳躍することで躱した。だが、着地点には二本目のナイフが迫っていた。短槍が風車のように振り回された。固い金属音が鳴り響き、ナイフは弾かれた。


「足元がお留守だよ」


 グラスが薄く笑った。

 三本目のナイフが、メイソンの足の甲を大理石の階段に縫い付けていた。


《必殺必中》。


 詰将棋のように敵の動きを読み、その心臓にナイフを突き立てる。これがグラスの技だった。


「これで詰みだな」


 四本目のナイフがメイソンの眉間に襲いかかった。それは骨を貫き、脳を破壊し、メイソンの命を奪い取る――はずだった。


「しゃらくせえ真似しやがる」


 メイソンの掌にナイフが突き刺さっていた。グラスの技は巨漢の厚い掌を貫いて、派手に流血させていた。が、眉間への狙いは防御されたのだ。メイソンが掌からナイフを引き抜くと、血が噴水のように吹き出したが、巨漢はその手をぐっと握りしめてにやりと笑った。


「たいした曲芸だな、グラス?」

「――これで三度目だ、メイソン。詫びる必要はない。死んで償ってもらうことにしよう」


 《中鬼の矛鎚》ボス・メイソン。《狼の血族》ナンバー2、《必殺必中》グラス。


 両雄は互いの全力を出してぶつかり始めた。






 そして、そのそばでも別の戦いが始まろうとしていた。


「デブとノッポねぇ。あーあ、どうせならもっといい男がよかった。こんなんじゃ、楽しめやしない」


 大階段でのメイソンとグラスの激闘を尻目に、エルマは煙管の煙をぷかりと吹き出した。煙管を咥えてぷかりぷかりとやりながら、一階に続く別の階段を舞台女優のような足取りで降りる。

 一階で待ち構えていたのは、背の低いがっしりとした体つきの男と、背も手足も異様に長い男だった。確かに、がっしりとした男の腹は太鼓腹のように突き出している。が、よく見れば、それは鋼のような筋肉の塊だった。手に持った戦棍の先には星形のスパイクがついている。それはいかにも重そうだったが、男は片手で軽々と取り回していた。


「《中鬼の矛鎚》幹部、ディルクだ」


 男は言った。


「同じく、幹部のエッポと申します」


 背の高い男の方が仰々しく一礼した。安物の黒服は丈が足りていない。エッポが頭を下げると服が引っ張られて、ミイラのように乾いた肌が露わになった。その青白い肌には毒々しい血管が浮き出ている。毒を扱う魔法使い特有の症状だった。


「はっ、ご大層なこった」


 エルマはディルクの戦棍と、毒に侵されたエッポの肌を一瞥した。


「それじゃあ、ご期待にお応えして、ちょいと遊んでやろうかね」


 ふっと煙管の紫煙を吐き出す。エルマの唇から出た煙はあっという間に形を変えて、向かい合う三人の周りをリングのように囲った。もうもうたる煙幕のカーテンだった。


「二人まとめてかかってきな。遠慮はいらな――」


 ディルクの戦棍が地をかすめて疾走った。下から上へ薙ぐようにして振り上げられた得物が、エルマのローブの端をかすめる。悠々と躱したエルマだったが、その顔に別方向からの追撃がかかった。釘のような武器が顔面めがけて疾駆する。

 が、それはエルマがさっと吹き出した紫煙によって止められた。エルマの技で凝固した煙は、毒に塗られたピックを見事に受け止めていた。


「おうおう、がっつきやがるねえ。そんなにお望みなら――」


 エルマがすっと目を細めた。


「このエルマ姐さんの技でとっとと逝かせてやろうかい」


 《中鬼の矛鎚》幹部ディルク、同じくエッポ。《狼の血族》幹部、《紫煙使い》エルマ。


 血飛沫舞う舞踏会の始まりだった。






「はあっ!」


 細身の剣身が稲光のようにきらめいた。それを受け止めるのは一本の斧槍(ハルバード)。巨大なそれを小枝のように扱うのは、中背の鶏ガラ男だった。男はいかなる気合いも吐息も漏らさずに、無言でそれを振り下ろした。


「っ!」


 ジーナの背筋を冷たいものが走った。剣で受けずに身をひねって躱したのは正解だった。男の一撃は爆発のような衝撃をもって、絨毯に覆われた床に巨大な穴をあけていた。自分の剣でいなすことができたかどうか。ジーナの腕に鳥肌が立った。

 この男を人間と思わない方がいい。ジーナはそう判断した。角や牙持つ大型の魔物と思ってかかるべきだ。この痩身から繰り出される一撃は、こちらの身をやすやすと引き裂くはずだろう。

 男は自分のあけた大穴を不思議そうに見つめていた。どうしてそこに潰された獲物がいないのかを疑問に思っているかのようだった。こちらに向き直った男の目には、わずかな興味の色が浮かんでいた。


「……名前は?」

「《狼の血族》正構成員、ジーナ・ウルフルズ」

「ウルフルズ……。《灰色狼》の子か」


 男はジーナの金髪に目を留めて、薄笑いを浮かべた。


「さしずめ、《金色狼》といったところか。だが、まだまだ狼と呼ばれるには――」


 突然、男の頬に一筋の傷が走った。


「喧嘩の最中に口を開くとは余裕だな、下郎」


 牙をむき出しにした狼のようなジーナの刺突だった。ジーナの猛襲に男の反応はわずかに遅れ、その頬からは血が流れ落ちていた。


「……狼の仔はやはり狼ということか」


 男は斧槍を構え直した。細身の男が巨大な獲物を構える、それはちぐはぐな姿のはずだったが、男の構えには幾多もの敵を叩き潰してきた殺気があった。


「《中鬼の矛鎚》幹部、トリスだ」


 男は名乗りを上げたが、ジーナは軽蔑したような表情を浮かべるだけだった。


「貴様の名前など、私には関係がない」


 トリスの殺気が膨れ上がった。冷え冷えとした表情しか浮かべていなかったその顔は、一転して怒気を孕んだものになっていた。


「礼儀を知れ、この恥知らずが!」


 突然の一喝だった。トリスは叱責するような大声を張り上げていた。これから殺し合う相手に対する態度ではなかった。だが、トリスは滔々とまくし立てた。


「《灰色狼》ならば、そのように腐ったようなことは絶対に言わんはずだ。我々は血を流しあうのだ。葬る相手の名を胸に刻め。それが礼儀だ。それがこの血の世界の礼儀なのだ」


 ジーナの瞳は一瞬揺らいだが、すぐに拒絶の色が浮かんだ。


「……街のカタギ衆を泣かせる鬼が礼儀を語るのか?」

「やはり、ただの犬っころか……」


 トリスは静まった。その眼に機械のように無機質な殺気だけが残った。手慣れた作業で畜生の肉を捌くような目つきだった。


「犬っころにこの世界に入る資格はない」

「鬼がこの街にいる資格もない」


 《中鬼の矛鎚》幹部、トリス。《狼の血族》正構成員、ジーナ・ウルフルズ。


 剣と矛鎚が交わり、激しい火花と金属音が賭博場のホールに大きく響き渡った。






 凄まじい激突音が聞こえてきた。


「みんな、派手にやり合ってるみてえだな」

「おう、せっかく遊びに来たんだ。どっちがどっちをぶち殺すか、賭けてみるか?」

「そりゃあ賭けが成り立たねえだろうがよ、オルク」


 マリオとオルクは一階ホールの脇に設えたショーステージで向かい合っていた。

 すでに他三組の戦いは始まっている。が、マリオとオルクは気安い友人のような態度で、話し続けていた。

 オルクが両腕を広げて笑った。


「そうだな、確かに賭けにならねえな。……結果は決まってる」

「ああ」


 マリオは自信に満ちた顔でうなずいた。それを見たオルクの顔に忌々しげな表情が浮かんだ。


「……マリオ、マリオよう。てめえに聞きてえことがある」

「何だ?」

「てめえはいったい何者なんだ?」


 オルクは心底疑問に思っているようだった。


「それなりに腕は立つみてえだな、度胸もある。なにせ、この抗争の引き金ひいたんは、てめえだ。だけどよ、おれぁ、マリオなんて名前は聞いたことがねえよ。おかしいじゃねえか、そんな威勢のいい野郎の名前が、このオルク様の耳に届かねえはずがねえ」


 オルクは自分の目の前に立つ男の正体を確かめるように、目を眇めた。


「おまけに、いつのまにか狼の一味に加わって、このおれと対等な口きいてやがる。てめえは、いったい何者なんだ?」

「おまえがそこまでおれを評価してくれてたなんて知らなかったよ」


 マリオが口の端を上げたが、オルクは笑わなかった。


「……てめえ、《狼の血族》の一味になるって意味を知らねえみてえだな」

「……何が言いてえ」


 オルクはふっと息を吐いて、マリオの目にしっかりと視線を合わせた。睨むような、何かを伝えるような、そんな視線だった。


「――《狼の血族》には触るな、関わるな。……これが五年前までのこの街のギルドの常識だった。今はすっかり落ちぶれてるがな、だが、この街で突っ張ってるやつなら、《灰色狼》の名を聞きゃあ、慌てて道を譲ったもんよ。今でも、そういうやつらは大勢いる――もちろん、うちの連中は違えがな」


 オルクが一瞬だけ浮かべた表情に、マリオは目を奪われた。そこにあったのは、憧憬か敬意か――とにかく、この男がそんな顔を見せたことがマリオには信じられなかった。

 だが、オルクは目つきを険しくして、マリオの眼前にまでゆっくりと歩いてきた。


「なあ、マリオさんよう。得体の知れねえルーキーさんよう。てめえみてえな若造が、どうやってドン・ルチアーノの見習い分になったのか、おれは知りてえんだよ」

「……見習いじゃねえよ」

「あ?」


 マリオとオルクの間の距離は一歩分もなかった。互いの鼻先が触れ合うほどの間合い。互いの息が顔に吹きかかるほどの間合い。そして、互いの瞳に自分の姿が写るほどの間合い。

 マリオは全身全霊を込めて、鬼の瞳を睨んだ。オルクがはっとして、わずかに後ずさった。


「おれが誰だか知りてえだと?」


 おい、オルク。おれが誰だか知りてえだと。マリオは胸中で呟いた。


 おれはな、名乗るほどのもんじゃねえ、たいしたもんじゃねえ。血が腐ったような親から生まれて、人様を痛めつけて生きてきた汚え野郎、それがおれだよ。だがな、今は違うぜ。こんなおれに血を分けてくれた立派な人がいるんだ。おれにはその人の血が流れてるんだ。その人は本物の男になれって言ってくれたんだ。


 今のおれは――


「聞きやがれ、オルク・ビアード! おれは《狼の血族》正構成員、《灰色狼》ドン・ルチアーノの息子、マリオだ! 覚えとけ、てめえをぶっ殺すやつの名だ!」


 マリオは吼えるような名乗りを上げた。おれはドン・ルチアーノの息子で、この体に流れているのは狼の血なんだと、声を張り上げた。

 マリオは正しく理解していた。目の前のこの男とは命をかけて血を流しあうのだと。

 ならば、名乗りを上げるのは当然のことだった。それはけじめであり、礼儀でもあった。何の因果かは知らないが、自分はこの男と命を取り合う。生半可な決着ではもう済まされない。ここで徹底的に遺恨を絶たねば、血の復讐の連鎖が始まるのだ。


 仇なす敵の血は流されなければならない。


 ならば、どこの誰に命を奪われることになるのか、それを相手に教えてやるのが、人としてのせめてもの礼儀だった。

 オルクもそれを理解していた。そして、マリオに応えた。


「《中鬼の矛鎚》会計役、オルク・ビアードだ。……いい名乗りじゃねえか、マリオ。これで心置きなく、てめえを殺れる」


 それが終わりで、始まりだった。互いが何者かを確かめ合うときは終わり、血を流しあう決闘が始まった。


 それはつまるところ、狼と中鬼の殺し合いだった。

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