第17話 血の誓い
マリオはグラスのあとについていったが、その足取りは雲の上を歩いているかのように覚束なかった。先ほどから痺れたままになっているマリオの頭の中で、これまでに起こったことが泡のように浮かんでは消えていった。
日本で死んだときのこと。この世界にやってきてジーナと出会ったときのこと。煙草屋のバアさんを助けたときのこと。あのときは特に何かを考えて動いたわけではなかった。ルチアーノにはああ言ったが、別にジーナに借りを返しておきたいと思っていたわけでもない。ただ、気づいたらそうしていただけの話だ。
だが初めて会ったとき、厄介事を持ち込んできたはずのマリオを、ルチアーノは笑って迎え入れた。全てを見通すかのような不思議な色の瞳でこちらを見つめ、熱い掌でマリオの顔を触って、いいツラをしていると言ってくれた。
そして、ためらうことなく、マリオを見習い分にしてくれた。
ルチアーノは、小鬼と悶着を起こしたマリオを迷わず自分の懐にかくまったのだ。ルチアーノはなんだかんだと理由をつけていたが、それは結局のところマリオを守るための言い訳だったのだと、今ではマリオも理解していた。
かなわねえなあ、と思う。
見ず知らずの流れ者をすくい上げたところで、ルチアーノには何の益もない。それどころか、結局は鬼の一派を相手にする羽目に陥っている。だが、ルチアーノはそれでマリオを切り捨てるようなことは一切しなかった。いつも笑って、不思議な瞳で見つめてくるだけだった。
ボスの瞳には何が見えているのか。まともに見えないはずのあの目で、自分の中の何を見通しているのか。マリオにはわからない。だが、一つだけはっきりしていることがある。
《灰色狼》の懐は暖かかった。ずっと留まっていたいくらい暖かかった。
この世界にやってきて、まだ一ヶ月と経っていない。それなのに、マリオは自分がこの世界で生まれ育ち、ルチアーノに出会うべくして出会ったような気になっていた。
感傷的すぎるかもしれない。マリオだって、運命とかそういうものをまともに信じているわけではない。むしろ、そういうあやふやなものに、自分の人生を託してはいけないと思っている。
だが、マリオはこの世界にやってこれたことを感謝していた。日本で死んでこの世界で第二の人生を送ことになったときは、なんてふざけた展開なのだろうと内心呆れていた。しかし、今は全てのことに感謝している。
運命とか、神様とか、そういうものに自分の人生を託してはいけない。
だが、己が信じる男にだったら、託してもいい。
初めて、人に頭を撫でられた。実の親には呼んでもらえなかったが、ルチアーノは息子と呼んでくれた。本物の男というのがどういうものか、拳で教えられた。それがどういうものなのか、本当は今もよくわかっていない。だけど、本物の男というのは、きっとルチアーノのような男のことを言うのだろう。
ドン・ルチアーノ。血のつながっていない自分のことを、息子と呼び、命がけで守ってやると言い切った男。
その男が自分のことを息子と呼んでくれるかぎり、この命はいつだって捨てられる。ボスの子分たち――自分の兄姉分たちのためならば、命を懸けて戦える。
親分、兄貴分、姐貴分。
マリオにとって、それらの言葉は飾りではなかった。組織内での互いの関係性を表す無味乾燥な言葉ではなかった。
エルマやジーナは姉妹分(シスター)であり、グラスは兄貴分(ブラザー)だった。彼らはマリオの血族(ファミリー)だった。
そして、ドン・ルチアーノはマリオの親分(ゴッドファーザー)だった。
二階の事務所に入るのはこれで二度目だったが、一度目のときとは様子が一変していた。
ギルドに新しい血を加える儀式が始まろうとしている空間は、教会のような静謐さに包まれていた。
天井からぶら下がったシャンデリアの灯りは消えている。その代わりに、部屋の四隅と中央に燭台が立てられ、赤レンガの壁をぼんやりとした灯火で照らしている。部屋は、これから行なわれる儀式にふさわしい、荘厳な気配に満ちていた。その空気に気圧されたマリオは、自然と息を潜めた。自分の息遣いと心臓の鼓動がやけに大きく聞こえてくる。柔らかな赤い絨毯を踏みしめるたびに、体が深い海の底にゆっくりと沈み込んでいくように感じられる。深海のような静けさの中、マリオは一歩ずつ足を進めていった。
役者はすでに揃っていた。
ジーナが部屋の四隅に立てられた蝋燭の灯りに照らされて立っている。身につけたチャコールグレーのスーツと金色のポニーテールが、蝋燭の灯りを受けるたびに艷やかな光を反射した。壁際には、エルマが秘密の夜会に参加した貴婦人のように佇んでいた。だが、身じろぎ一つしないその様子は、貴婦人には決して出せない重厚な気配を孕んでいた。
そして部屋の中央には、燭台の揺らめく火を背後にして、組織の長たる威厳をその身にまとったルチアーノが、厳粛な面持ちで立っていた。腰には剣を帯びている。サングラスを外した両眼は狼のように炯々としており、相対する者を飲み込むような光を放っていた。見事に着こなしたスーツの片方の袖はだらりと垂れ下がっているが、無事な方の手は何か深い思案を巡らすようにして、顎にじっと当てられている。片足も不自由なはずだったが、今ばかりは何の問題もないようにしっかりと床を踏みしめていた。
グラスがルチアーノに音もなく近づき、耳元で囁いた。
「――ドン・ルチアーノ。お待たせいたしました。《狼の血族》準構成員、見習い分マリオ・オオカミ。ただいま連れて参りました」
ルチアーノがうなずくと、グラスは黒子のように離れ、エルマの隣に並んだ。
ルチアーノが重く低い声で言った。
「ジーナ・ウルフルズ、マリオ・オオカミ。そこにいるか?」
「はい」
「……はい」
ジーナが緊張を含んだ声で答え、マリオもそれに続いた。普段のルチアーノの荒々しい口調も、マリオの無作法な言葉もどこかへと姿を消していた。いつもと違ったルチアーノの声音に応えて、使ったことのない恭しい言葉遣いがマリオの口からこぼれ出していた。いつもならば似合わないその態度は、この場においては最もふさわしいものだった。
「そこにいるならば、なぜもっと近くに来ない? なぜおまえ達の父親にその顔をよく見せてくれない?」
――はい、ファーザー。
ジーナが言って、マリオが同じように答える。二人はルチアーノに近づいて、その足元に跪き、頭を垂れた。そうして、上から降ってきたルチアーノの声はほとんど囁くようだったが、不思議とよく響いた。
「子どもたちよ、おまえの父親の言葉は聞こえているか? その耳と胸に届いているか?」
――はい、聞こえております。
儀式はすでに始まっていた。神聖な空気に満ちた空間で、問答の声だけが響く。それは狼の長が血族に新たな仔を加えるための儀式だった。
「……この世界は血と暴力に満ちている」
ルチアーノがゆっくりと言葉を紡ぐ。
「生きるために誰もが血を流さなければならない。流された血は血を求め、生み出された悲しみは暴力を呼ぶ。それでも、おまえたちはこの世界で生きていくか?」
――はい。
ルチアーノはわずかにため息をついた。
「愛は血を求める。血で繋がれた愛は血族の名誉を求め、名誉は血が流されることを望む。終わることのない螺旋の渦だ。……それでも、おまえたちはこの世界で生きていくか?」
わずかな沈黙のあとに、再び肯定の返答がなされた。それを聞き届けたルチアーノの口から、刃のような言葉が放たれ、静寂の中に響いた。
「ならば、父の話を聞け。父の掟を聞け。そして、誓え。我ら《狼の血族》は互いに守り、愛しあう。我らは愛する同胞の名誉を守り、仇なす敵の血を流す。だが、弱き者の血を流すことは決して許されない。そのときは己の血を流すことになる。……この血の掟に誓うか? 狼の掟に忠誠を誓うか?」
――はい、ファーザー。誓います。血と狼の掟に従います。
決然とした声で仔狼たちの誓いがなされた。
「ならば、父の剣でそれを証明してみせろ」
ルチアーノが腰の剣を引き抜いた。それを厳粛な面持ちで受け取ったジーナは、少しのあいだ、その剣身の重みを確かめるように片手に握っていたが、やがてためらうことなく、その刃を自らの掌に押し当てすっと引いた。真っ赤な血が一筋流れ落ちた。
ジーナは自分の血に濡れた剣をマリオに手渡した。
マリオは手の中にあるルチアーノの剣をしばらく見つめた。エルマとグラスもかつてこの剣で自らの血を流したのだろう。ルチアーノはこれで幾多もの敵の血を流したのだろう。
マリオは父の剣をしっかりと握りしめた。そして自らの掌を傷つけ、血を流した。熱い痛みと喜びがマリオの中を走り抜けた。
マリオから自分の剣を返されたルチアーノはうなずいた。
「娘よ。息子よ。おまえたちの覚悟は見せてもらった。おまえたちは狼の血をその身に宿すことを望むのだな? ――ならば、父はその望みを叶えよう」
ルチアーノはマリオたちと同じように、自らの血を流した。そしてまず、ジーナの血に染まった手をとり、自分のそれとしっかりと重ねあわせた。次にマリオの手をとって、同じように重ねあわせた。
ルチアーノの手は、血潮は、燃えるように熱かった。父の血がマリオの手を濡らし、息子の血がルチアーノの手を濡らした。
「親狼と仔狼の血は交わり、ここに新たな者が血族に加わった」
ルチアーノは壁際に並んでいたエルマとグラスの方へ向いた。
「血の誓いを見届けたか? 新たな血を認めるか?」
「ええ、認めます」
「はい、同じく認めます」
ルチアーノは再び、ジーナとマリオに向き直った。
「ジーナ・ウルフルズ。マリオ・オオカミ。両名をともに、《狼の血族》正構成員としてここに認める」
エルマとグラスの緊張した顔がふっと緩んだ。儀式はこれで終わりらしい。
が、ルチアーノの話はまだ終わりではなかった。
「ジーナ」
「はい」
「おれの話を聞いてくれるか? おまえの愚かな親父の話を聞いてくれるか?」
ジーナは戸惑いを見せつつも、うなずいた。
「……おれはおまえを正式にファミリーに入れるつもりはなかった」
「……はい」
「正直、おまえの弱さが不安だった。おまえは姐貴や兄貴よりも弱い。だが、優しすぎる。いつか、その優しさがおめえを死なせるんじゃねえかと不安だった」
ルチアーノは、揺れるジーナの瞳をしっかりと見つめた。
「おめえはただの娘じゃねえ。赤ん坊の頃から、おれがこの手で育てた娘だ。実の血がつながってなくとも、おれはかわいい娘をこの世界には入れたくなかった」
「……お父さん」
「だが、おまえは強い子だ。街のもんの痛みに真っ向から向き合える強い子だ。それは認めてやらにゃならん」
「……」
「力をつけろ、ジーナ。力をつけて、ファミリーと弱いもんを守れるよう強くなれ。それがおまえのやるべきことだ」
ジーナは強い決意をその瞳に宿し、はっきりとうなずいた。ルチアーノはそれでいい、というようにうなずき返すと、ジーナを力強く抱きしめた。
「マリオ」
こちらに向き直ったルチアーノの瞳の焦点は、ぴったりとマリオに当てられていた。
「おれの話を聞いてくれるか? おまえの親父の話を聞いてくれるか?」
マリオはうなずいた。
「ジーナの強さがおめえにないことが、おれには不安だ。まったくないとは言わねえがな、それでも不安ではある」
「……」
「本当の意味で強くなれ。姐貴と兄貴から学んで、てめえの力の使い所を知れ。おめえは心も体も傷だらけだが、そこがいいんだ。傷つけられる痛みを知ってるもんが、一番強くなれる」
ルチアーノはマリオの頭をその胸に抱えるようにして抱きしめてきた。ルチアーノの体は子を温める獣のように暖かく、わずかに血の匂いがした。
そして、ルチアーノはマリオの耳元で囁いた。
「本物の男になれ、マリオ」
「……はい、ドン・ルチアーノ」
マリオはルチアーノの体を強く、とても強く抱きしめ返した。
こうして、血の誓いの儀式は終わった。
ルチアーノは忠言と抱擁、そして自らの血を与えることで、マリオとジーナの胸に確かなものを刻みつけ、その体に太く強い柱を埋め込んだのだ。
まだ未熟な仔狼たちは、その有難さをしっかりとその身で理解していたのだった。
そして、彼らは夜を迎える――血と暴力の夜を。
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