第16話 ジーナ、荒ぶる

 不安な夢に苛まれて、マリオは目を覚ました。夢の内容は覚えていない。だが、心が張り裂けそうになるぐらい悲しみに満ちた夢だったような気がする。

 窓の外は、今にも泣き出しそうなどんよりとした曇り空だった。

 一階に降りても、誰もいなかった。時計を見ると、朝というより昼に近い時間だったから、みんなそれぞれ、夜まで時間を潰そうとして出かけているのかもしれない。

 外に出かける気分にはなれなかったので、マリオは食事を済ませると、また自分の部屋に戻った。

 マットレスの上に寝転がって、目をつぶる。そうすると、昨夜から渦巻いていた妙な不安がまたドロドロと沸き上がってきた。今夜の抗争を間近に控えて、ビビっているのだろうか。そんなことは今までにはなかったことだ。


「……筋トレでもするか」


 気分を変えようと、身を起こす。

 腕立て伏せ、シットアップ、スクワット――何種類ものトレーニングをこなし、全身の筋肉をまんべんなく鍛える。体中が発火したかのように熱くなり、汗が流れ落ちてくる。この世界にやってくる前から、よくやっていたトレーニングだ。マナによる肉体強化を教えてもらった今では、唸りを上げる筋肉を意識すると、自然とそこにガソリンのようなマナが送り込まれる。

 何時間もそうやって体を動かしていたが、体力とマナの限界はまったく見えなかった。いつまでも動き続けられる気がする。いつしか、マリオは時間が経つのも忘れて、トレーニングに没頭していた。


 部屋の外で誰かの気配がした。


「マリオさん? 入ってもいいですか?」

「おう」


 ジーナが扉を開けて入ってきた。だが、ジーナはこちらを見た瞬間、ドアノブを持ったままの姿で硬直した。


「……なんで、全裸で汗かいてるんですか?」

「体を動かしてた」


 実にいい汗をかいた。体から何かが抜け出たようにさっぱりとした気分だ。


「今日は朝からなんか変な気分でな。ちょいと気晴らしに動いてたんだ。気持よかった」

「き、気持よかったって……ひ、卑猥です! ぜ、全裸で汗かいて、どんな気持いいことやってたんですか!」


 ジーナは、熱気を上げるマリオの裸体から目を逸らして、真っ赤な顔で叫んだ。が、マリオはジーナの過敏な反応に首をかしげた。


「何言ってんだ? 別に変なことじゃねえだろ。年頃の男なら、みんなやることじゃねえか」


 男ならば、誰しも一度は必ずやるだろう。思春期を迎えた男はみんな、そういうことに興味を持つ。そうして一度やり方を覚えてしまったオスは、自らをシゴキまくる。シゴイてシゴイてシゴキまくるのだ。


 無論、筋トレの話である。他にどんな話があるというのか。


 マリオが首をひねっていると、ジーナが密かな疑問を打ち明けるように、口ごもりながら質問してきた。


「……や、やっぱり、男の子ってみんな、そういうことするんですか? 変態のマリオさんだけじゃなくて? ムラムラしたら、一人で寂しくヤってるんですか?」

「は? 変態かどうかは関係ねえだろ。まあ、確かにムラムラしたらやるもんだがな」


 運動不足で体がなまると、思いっきり体を動かしたくなってムラムラとしてくる。そういうときは確かによくやる。一人、黙々と自らの欲望発散にふけるのだ。特にマリオが好きなのは、限界まで我慢して我慢して、ついに耐え切れなくなった瞬間である。我慢できなかったという敗北感と、妙な虚脱感が気持ちいい。


 もちろん、筋トレの話である。いたって健康的で良識的な話である。


 だが、まだ動揺している様子のジーナは、チラチラとこちらに視線をやりながら、知ったかぶった顔でうなずいた。


「そ、そうですよね。ま、まあ、普通はそういうことしてもおかしくないですよね。エルマ姐さんも、男の人ならみんな、や、やってることだって言ってましたし……べ、別に、マリオさんが私に隠れてやってても、全然おかしくないですよね!」

「別に、おまえに隠れながらやってたわけじゃねえけどな」

「えっ……」


 ジーナはひどくおぞましいものを前にしてしまったかのように、青ざめた顔で震えだした。


「も、もしかして、マリオさんは私に見せたかったんですか……?」

「そういうわけでもねえけどな。っつーかよ……」


 マリオはタオルで汗を拭いて服を着ながら言った。


「おまえだって、仮にも冒険者だろうが。普段からこういうことはやっとくべきじゃねえのか?」

「はい!? そ、それって、冒険者とか関係あるんですか!?」


 ジーナは素っ頓狂な声を上げた。


「そりゃあ、関係あるだろ」


 魔物と戦う冒険者だったら、筋トレぐらい毎日やっておくべきものだろう。マリオはごくごく当たり前のことを言っただけだ。それなのにジーナの様子ときたら、まるでマリオの頭が正気かどうか疑っているようだった。


「そうだ。せっかくだから、ジーナがやるとこを見ててやるよ」

「え、えええええ!? ……ほ、本気で言ってるんですか? 本気で私にヤれって言ってるんですか!?」

「こんなことで冗談言ってどうすんだよ。そんなに、おれに見られながらするのはイヤか?」

「イヤとかそういう問題じゃないでしょう! そもそも、こういうのって人に見せるものじゃないですよね!?」

「そうか? むしろ、人に見てもらいながらやった方がいいんじゃねえのか」


 筋トレは正しいフォームでやらなければ、まったく意味がない。それどころか、間違った方法でやると逆効果になってしまう。


「人に見てもらったら、変なとこを直してもらえるじゃねえか。自分一人じゃ、本当に正しいやり方かどうかってのは気づけないもんだからな」

「そ、それは確かに……って、いえいえいえいえ! や、やっぱり、こういうのは一人で、誰にも見られないようにヤるものですよ!」

「んなことねえだろ。いいから、やれって。おまえが変なやり方してたら、直してやるからさ」

「へ、変って! 変なヤリ方って! わ、私、そんなおかしな方法はしてないはずです! か、回数が普通かどうかは知りませんけど、いたって、普通のヤリ方のはずです!」

「だから、実際に合ってるかどうかは、見てみねえとわかんねえだろうが。ほら、さっさと始めろよ」

「う、うう……」


 親切心で筋トレの方法を確認してやると言ったのに、ジーナは目に涙を浮かべてうつむいてしまった。いったいどうしてしまったのだろうか。これではまるで、こちらが背徳的な行いを強要しているようではないか。

 マリオは、内股になってモジモジとしているジーナに声をかけた。


「できるだけ優しく教えてやるって。だから……な?」

「ほ、本当ですか……?」

「おう」


 ジーナは唇を噛み締めて、何かを覚悟したかのように顔を上げた。


「……わ、わかりました。私、マリオさんになら、見せていいかも……」

「ああ。別に全然変なことじゃねえから、気にせずやれよ」

「あ、あの……」

「うん?」


 ジーナは頬を染めて問いかけてきた。


「や、やっぱり、服はマリオさんみたいに脱がなきゃダメなものなんですか?」

「いや、そりゃあ人によるだろ。普段はどうしてんだ?」

「……い、言いたくないです」

「そうか。まあ、今はおれの前だしな。脱ぐ必要はねえよ」

「マ、マリオさんは着衣の方が好きなんですかね? べ、別に、マリオさんの好みはまったく全然これっぽっちも興味ないんですけど、あくまで参考までに……」

「まあ、基本は脱いだ方が好きっつーか、楽だな。やってると、すげえ汗かくだろ? 服着てやると、終わったときにすげえ濡れてるんだよな。服着たままシャワー浴びたのかよ、ってぐらいにビショビショになる」

「そんなになるまでヤるんですか!? 一度に何回ヤるんですか!?」

「限界が来るまでに決まってるじゃねえか。じゃねえと、やる意味がねえだろうが。ジーナも今日はそんくらいやってもらうぞ」

「ふえええ……」


 ジーナは泣きそうな顔で自分の体を抱きしめたが、マリオはすでにやる気満々だったので、容赦はしなかった。


「ほら、とっとと仰向けになれよ。んで、膝を上げて」

「は、はい……」


 ジーナはまだためらうような素振りを見せていたが、マリオの熱意に押されたのか、床の上にすとんと腰を下ろした。


「ん? マットレスがあるんだから、これ使えよ。ちょっと、おれの匂いがするかもしれねえけど」

「え、遠慮します。なんか、マ、マリオさんの匂いに包まれながらするのって、変な気分になりそうなので……」

「は? 意味わかんねえこと言ってねえで、マットレス使えって。腰痛めるぞ」

「……今日のマリオさん、なんか優しいです」


 ジーナの体から緊張がとれた。ジーナが静かにマットレスの上で仰向けになると、形のよい胸が呼吸でゆっくりと上下した。自分の肩を抱き、真っ赤な顔と潤んだ瞳でこちらを見上げてくる。

 ジーナは聞き取れないくらいかすかな声で言った。


「そ、それじゃあ、不束者ですが、よろしくお願いします……」

「おう」


 全部おれに任せておけ、といわんばかりに、マリオが頼もしい声を出してやると、ジーナは目尻に涙を浮かべてそっと微笑んだ。

 マリオはジーナを緊張させないように、できるだけゆっくりとその初心な身体に近づいた。


「おまえ、初心者みたいだからな。おれが足押さえといてやるから、まずは好きにやってみろよ」

「……えっ? 足押さえるって……えっ?」


 マリオがジーナの上げた膝を両腕でがっちりと抱えてやると、ジーナは仰向けで、マリオに両脚を固定されたまま、困惑した声を出した。


「あ、あの、この状態でヤるんですか……? ど、どういうふうに、ヤったらいいんでしょうか?」

「は? おまえ、マジで言ってんのか? 別に、普通にやりゃあいいんだって」

「え、えー……ふ、普通のヤリ方って……」

「そんなこともわかんねえのかよ……しょうがねえなあ。おれがやってみせるから、ちゃんと見てろよ」

「はい!?」


 驚き慌てふためくジーナをよそに、マリオは床の上に仰向けに寝っ転がった。


「目ン玉開けて、よーく見てろよ」


 両脚を上げ、膝を九十度の形に固定。自分の肩を抱き、ファラオの死体のようなポーズを取る。そして、それらのフォームを崩さないよう、ゆっくりと息を吐きながら上体を起こす。


「いいか? ……これが腹筋運動の基本、シットアップだ」

「は、い……?」


 なぜかジーナが口をあんぐりと開け、愕然とした表情になっている。


「ちゃんと見てろって! 筋トレはフォームが大事なんだぞ!」


 なぜかジーナが混乱した様子で頭を抱えているので、叱咤する。


「そんなんだから、筋トレの正しい普通のやり方もわかってねえんだよ。しっかり聞けよ――トレーニング全般に言えることだが、常に使ってる筋肉を意識しろ。それと、呼吸はゆっくり、筋肉に力を込めるときに息を吐け。フーッ、イッチニ、サンシッ……回数が大事なんじゃねえ、一回一回を丁寧にやることが大事なんだ。おい、ちゃんと聞いてんのかよ」


 なぜかジーナは虚ろな瞳で膝を抱え込んで、ブツブツと何かをつぶやいていた。


「筋トレ……筋トレ、筋トレって……ははは、私バカみたいバカなマリオさんに期待してバカみたい……死にたい死にたい死にたい……」


 どうして、ジーナは生ける屍のような虚脱状態になってしまっているのだろうか。どうして、筋トレの正しい方法を教えてやろうとしただけで、好きな男に裏切られたかのような酷い状態になってしまっているのだろうか。何かを期待して勘違いしていたようだが、その思い違いの内容がマリオにはさっぱりわからない。


「おい、ジーナ」

「も、もう、死ぬしかないです……で、でも、なんで私だけ死ななきゃいけないの? こんな恥をかかせた人が悪いんじゃないですか……そ、そうですよ、マリオさんが悪いんじゃないですか……も、もう、こうなったら……」


 何事かをつぶやき続けるジーナが心配になって、マリオがその顔を覗き込もうとしたときだった。


 ジーナが突然、涙目の顔を真っ赤にして躍りかかってきた。


「うおっ!」


 予想外のジーナの動きに対応できず、ひっくり返るマリオ。その上に馬乗りになったジーナは、マリオの胸ぐらを掴んで顔に殴りかかってきた。


「マ、マリオさん! 私と一緒に死んでください!」

「なんでだよ! あの世に逝くなら、一人で勝手に逝けよ!」

「ひ、一人で勝手にイけだなんて……あそこまで乙女に誤解させといて、まだそんなこと言うんですか!」

「誤解って、意味わかんねえよ。しかも、またなんか誤解してねえか?」

「うるさいです! マリオさん、うるさいです! 黙って責任取ってください!」


 ジーナはマウントポジションからマリオの肩関節を取って、鮮やかな関節技を極めてきた。ミシリと、嫌な音が響く。


「このまま、破壊してやります!」

「おいコラ、ジーナのくせに生意気だぞ」


 テクニックではなく、力技で、マリオは体重の軽いジーナの体を跳ね飛ばした。そのまま逆に、寝技を返してやる。


「ナメてんじゃねえぞオラ」

「へ、変なのが! 変で、お、おっきいのが当たってます! イヤ! また犯される!」

「またってなんだよ、またって」

「私、初めてのときは、夕日の見える海沿いのホテルで紳士的な人にリードされながらって、決めてたのに……こんなケダモノ童貞に貞操を奪われちゃうなんて……」

「このアマ、マジで犯してやろうか……ん?」


 ふと、背後に妙な気配を感じて、マリオは後ろを振り返った。


 エルマがドアをわずかに開けて、その隙間からじーっとこちらを見ていた。その隣では、グラスが関わり合いたくたいといったように、表情を消して置物のように突っ立ている。


「……エルマ姐、グラス兄ィ。いつからそこに?」

「ジーナがあんたを押し倒したところから、じっくり見させてもらってたよ……お二人とも、ずいぶん仲がよろしいことで」

「ち、違います、エルマ姐さん! これはマリオさんが変なことばかり言って、私を勘違いさせたから……!」

「おぼこのくせにジーナもやるねえ。まさか、昨日の今日で弟分を寝取られるとは、さすがのあたしでも思いもよらなかったよ。けっ」

「寝取ってません! むしろ、化物級に襲われた感じです!」


ギャーギャーと喚くジーナだったが、グラスがそれを遮った。


「黙るんだ、ジーナ。今は、痴話喧嘩よりも先にやってもらうことがある」


 エルマもそれで何かを思い出したようだった。


「ああ、そうだった。あんたらには今夜の喧嘩の前に大事な用があるよ」

「ジーナはエルマ姐さんの部屋に行って準備しろ。マリオは僕の部屋に来い」


 そこで初めてマリオは気がついたが、エルマとグラスの様子はいつもと違っていた。


 エルマは普段のスリップドレス姿から一転、艶やかな黒のイブニングドレスを身にまとっていた。フォーマルな装いに合わせて、いつもは流したままにしている銀髪を後ろでシニヨンに結いあげている。伝法な態度もどこかへと影を潜め、まるで上流階級の貴婦人のように見えた。が、世の男どもを魅了し、それでいて彼らに一切媚びないような、その気高き瞳は変わっていない。

 グラスの方もフォーマルなクラシックスーツを着ていた。普段からだらしない格好はしない男だが、三つ揃いを一分の隙もなく着こなすその姿はさすがだった。高めのゴージラインと鋭角的なシルエットを持つジャケットは、グラスのシャープな魅力をうまく引き出している。眼鏡もいつものものから変えたのか、胸ポケットに差したハンカチーフと調和する色のものになっていた。


 正装に着替えた二人は厳粛な面持ちで、マリオとジーナのことを見つめていた。


「さあ、あんたらもとっとと着替えるんだよ」

「着替えるって……なんで?」


 思わず、呆けた声を出してしまう。


「いいから」


 エルマに急かされてジーナは五階に、マリオはグラスと一緒に四階へと向かった。

 案内されたグラスの部屋は、マリオの部屋と同じような間取りだったが、持ち主の性格を表すかのように几帳面に整理整頓されていた。


「さて、おまえに合うものがあればいいが……難しそうだな」


 いまだに何がなんだかよくわかっていないマリオをよそに、グラスは部屋の隅に置かれた衣装箪笥を開けた。中には、グラスがいつも着ているのと同じようなスーツがいくつも並んでいる。


「グラス兄ィ、なんで同じようなのばっか持ってんだ?」

「バカ、どれもちょっとずつ違うんだよ。ほら、襟の形や袖の長さが違うだろう」


 スーツはどれも似たような生地や色合いだったが、確かに、襟や袖などのディティールはそれぞれ微妙に異なるようだった。


「おまえもこういう違いがわかる男にならなきゃな」

「別に服とかどうでもいい。全裸でもかまわない」


 適当に言ったが、グラスは思いのほか真剣な顔をしていた。


「これからはそうも言ってられなくなるさ」

「は?」

「一人前の男だったらな、自分のファッションぐらい気にしなきゃダメだ。外見は重要だぞ。人はたいてい見かけで判断されるんだ。だらしない格好をしてると、おまえだけじゃなくて、ボスの評価まで落とされるんだぞ。そうならないように、これからはおまえもちょっとずつ自分のスタイルってものを磨いていかないとな」


 グラスは箪笥にかけられた自分のスーツを一つずつ出しては、マリオの身ごろに合わせていった。


「うーん、わかってたけど、やっぱりダメだな。身長は同じぐらいだけど、肩幅が全然違う。ここにあるのはフルオーダーのものばかりだから、おまえに合わせるのは無理があるな」


 そもそも、どうして着替える必要があるのかもわからない。今頃、ジーナも同じようなことをやっているのだろうか。


「……おっ、これだ。こいつはどうだ」


 グラスが取り出してきたのは、黒に近い濃紺のクラシックスーツだった。それに合わせたネクタイも一緒に出して、着るように勧めてくる。


「うん、悪くないじゃないか。とりあえず今日はそれでいいだろう」


 マリオが着たのは、シングル三つボタンのスーツだった。グラスのシャープな印象とは対照的に、ゆったりとしたデザインで、マリオの筋肉質な体型をうまく強調している。


「へえ、そうやってちゃんとした格好をしてると、なかなか貫禄があるじゃないか」

「そうか?」


 スーツなんて初めて着るが、意外に着心地は悪くなかった。それに、身が引き締まる感じがする。


「そのスーツは特別だからな。ボスが若い頃に着ていた一張羅らしい。このギルドを立ち上げたときに仕立てたものだと聞いてる」

「なんでそれをグラス兄ィが持ってるんだ?」

「ボスは体型が合わなくなったらしくて、何年か前にもらったんだよ。普通、仕立て服というのは、ある程度体型が変わっても、直せるようになってるんだが……」


 マリオは、ルチアーノの失った片腕と不自由な片足のことを思い浮かべた。


「……まあ、そんなわけで、ボスが僕にくれたんだ。今のボスとは合わないし、僕も着られないから箪笥の肥やしになってたんだがね。そいつはおまえにピッタリみたいじゃないか。大切にしろよ」

「くれんのか?」


 このスーツは明らかに上質な生地で作られていた。おまけに、下手なカジュアル服よりも着心地がいい。作った職人の腕がよかったに違いない。


「おまえ以外に着られるやつがいないんだからな。しかし、若い頃のボスが着てたのがピッタリってことは……へえ、昔のボスと今のマリオは同じ背格好だったってことか。なんか面白いな」


 グラスがしきりにうなずいて感心していたが、そう言われると、なんだかこのスーツが身の丈に合っていないかのような気がしてきた。


「……それで、なんで着替えさせたんだよ」

「ああ」


 グラスは神妙な顔つきになった。


「エルマ姐さんは手際がいいから、ジーナもそろそろ準備ができているだろう。行こうか、マリオ」

「だから、何しに行くんだよ」

「大事な抗争の前に、見習い分二人を正装させてやることなんて、決まってるだろう」


 グラスは振り返って答えた。


「ギルド加入式――ボスと《狼の血族》に血の誓いを立てる儀式さ」

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