第15話 エルマ百花繚乱
「兄ちゃん、ビール追加!」
「こっちはワイン、グラスで! いや、ボトルの方かな。あ、いや、やっぱグラスで」
「はい、喜んで―……」
夕刻、ぞろぞろと酒場に集まり出したおっさんたちに気のない返事を返すマリオ。
エルマが料理を作るかたわらで、マリオは金色狼の宿にやってきた客たちに給仕をしていた。
「えーと、そっちのデブはビールで、こっちのハゲはワインをボトルで?」
「ちげえって。ワインはグラスだよ……って、誰がハゲじゃコラ。バカにしとんのか」
「いや、バカにしてないって。あー、ほら、ハゲはハゲでも、いい方のハゲだよ」
「なるほど……って、ハゲにいいも悪いもあるか! こちとら、女房に逃げられてから二十年、生え際が後退しっぱなしだよチクショウ!」
「そう言うなよ。諦めなければ人生いいことあるって」
「おう……」
「じゃあ、ワイン、ボトル三本でいいな? ほら、一気一気!」
「って、飲めるかバカ!」
「お客様に何やらしてんだい、このクソガキ」
フライパン片手にやってきたエルマにパシンと頭をはたかれてしまった。
「いや、このしょぼくれたおっさんどもに景気づけをしてやってたんだが」
店にやってきた客たちはどいつもこいつも、小汚い格好をした場末の中年男ばかりだった。この店のメニューの価格はほとんどのものが良心的を飛び越して、赤字覚悟の激安値だった。ジーナは店の売り上げがいいとかどうのこうの言っていたが、こんなので本当にやっていけるのだろうか。
「おっさんども、この一番高いウイスキーをボトルで入れりゃあ、今ならおれの姐さんの胸もませてやるぞ」
「ウイスキー、ボトルで二本!」
「こっちは五本で!」
「おれは十本いくぞ!」
「……あんたら、ぶっ殺されたいのかい?」
エルマの凍えるひと睨みで調子にのったおっさんどもはあっという間に静まり返った。
「エルマ姐、せっかくおれが店の売り上げに貢献してやろうとしたんだから……」
「あんたはもう一回死んでみな」
みぞおちにエルマの拳がクリーンヒットした。
エルマがハイヒールをかつかつと鳴らしながらカウンターの中へ引っ込むと、えずいているマリオにハゲのおっさんがヒソヒソ声で話しかけてきた。
「兄ちゃん、エルマさんが怖くねえのかい?」
「……」
「そんなブルブル震えるんなら、なんでバカな真似すんだよ……」
特に理由はないが、最近エルマに殴られるのもなんとなく楽しくなってきている気がする。
「しっかし、エルマさんも今日はチャキチャキしてて景気がいいねえ」
「そうなのか?」
「おうよ。こりゃあアレだな、おれが見るところ男ができたか、あるいは――」
おっさんはそこで言葉を切って意味ありげにマリオのことを見てきたが、そこでストップがかかった。
「そこのハゲ、何くっちゃっべってんだい。うちの新入りに余計なこと吹き込んでんじゃないよ!」
「エルマ姐、そんな言い方ねえだろ。このおっさんはいいハゲだぞ」
「だから、ハゲにいいも悪いもねえだろ!」
憤慨してみせるハゲに他のおっさんたちから野次が飛ばされ、それにまたハゲが怒って、マリオがそこに乗っかって、エルマがたしなめて……。
店の扉が壊れそうな勢いで開かれたのはそのときだった。
「んー? ここかい、《狼の血族》がやってる酒場ってのは」
「なるほどねえ、飛べば吹くような弱小ギルドが汗水たらしてやってそうな汚ねえ店だぜ」
ぞろぞろと店に入ってきたのは五人の男たちだった。みんな揃ったような開襟シャツにダボダボの幅広ズボン、そして趣味の悪い金色のアクセサリーをジャラジャラさせている。
男たちは空いていた席にどんと腰掛けてテーブルに泥だらけのブーツを乗っけると、辺りにガンを飛ばしながら威勢よく言った。
「おい、酒だ! この店で一番高い酒持ってきな!」
マリオが目で問いかけると、エルマは肩をすくめて棚の隅に置いてある酒瓶を指さした。
「へい、お客様、こちらうちで一番高い酒になります」
「トロトロしてんじゃねえよ、兄ちゃん! ツマミも一緒に持ってこんかい!」
「はあ」
「はあ、じゃねえよ! 走れってんだよこのアホ!」
店の雰囲気は最悪だった。お気に入りの店をコケにされ、血走った目で男たちを睨みつける者もいれば、関わりあいになるのを恐れて店を出て行く者もいた。先ほどまで賑やかだった店内は荒みきっていた。
と、そこでエルマが男たちのテーブルに歩いて行った。
「お客さん方、酔っ払ってるのかどうかは知りませんが、ここは一見さんも馴染みの方も一緒に楽しく飲む店。あんまり無粋な真似なさるんじゃございやせん」
「ああ?」
「見たところ、カタギとも見えない御仁方ですねえ。とはいえ、名のあるギルドの方にも見えませんが……どこぞのチンピラかは存じませんが、ここに酒飲みに来たわけじゃないでしょう? いったいうちに何の御用で?」
「おい、姉ちゃん。垢抜けたこと言いやがるじゃねえか」
五人の中でリーダー各と見られる男が立ち上がって、エルマの美しい顔に小汚いハイエナのようなツラを寄せた。
「この店は客が素性明かさにゃ飲めないってのかい? ん?」
「おい」
いい加減我慢ができなくなったマリオが止めに入ろうとしたが、それをエルマが手を降って止めた。
「マリオ、あんたが出ると話がややこしくなる。黙って見ときな」
ハイエナのような男がけたたましい笑い声を上げた。
「黙って見ときな、だって? 姉ちゃん、いっぱしの口きくじゃねえか。おれたちが誰だかわかってんのか」
エルマは余裕綽々で煙管に葉を詰めるとそれに火をつけて、煙をハイエナに吹きかけた。
「話がわかんない男だねえ。だから、さっきからそれをお聞きしてるわけで」
「人に名前聞くときゃ、てめえが名乗るもんだろうがこのアマ! 見たとこハーフエルフみてえだが、汚ねえ血が流れる売女の分際でおれに偉そうな口きくんじゃねえよ!」
エルマの顔色がさっと変わり、煙管を握るその手に青白い血管が浮かぶほど力が込められたときだった。
店内に鈍い音が響き渡ったかと思うと、ハイエナは頬骨がへこむほど顔の形を変えて、床に突っ伏していた。
「おれの姐御になんて口きいてんだ、このドアホ」
マリオは血のついた拳を握りしめてエルマの前に立っていた。エルマがため息と一緒に煙管の煙を吐き出した。
「あんたねえ、黙って見ときなっつったじゃないか」
「だって、このアホが――」
「いいじゃねえか、エルマさん! おう、兄ちゃん、よくやったな!」
エルマが諦めたように首を振り、おっさんたちが拍手喝采するかたわらで、残り四人の男たちは顔を引きつらせていた。
「て、てめえら、いきなり殴るなんて……」
「お、おれたちが誰だかわかってんのか!」
「知らないねえ。だが、喧嘩にいきなりもどうしたもないよ。そんなことグチグチ言うようじゃ、やっぱりチンピラには違いないだろうねえ」
エルマは煙管の灰を倒れたハイエナの体の上にポンと落とすと、また新しい葉を詰めた。
「マリオ」
「うん?」
「今度こそ黙って見とくんだよ。あんたみたいなクソガキは喧嘩の妙ってのをわかっちゃいない。今夜はエルマ姐さんが生意気な新入りにそこんとこ教えてやろうかい」
「ふ、ふざけやがって」
四人の男たちが一斉に飛びかかってきたが、エルマは横にすいと動くだけで避けてしまった。煙管に火を入れながら、男たちの足をひっかけるおまけつきだった。
「マリオ、喧嘩ってのはね――」
「このクソビッチがぁ!」
男の一人が刃物を腰だめに構えて突進してきたのを、エルマは軽くいなしてそのゴツい顎に掌底をカウンター気味に食らわした。しっかりと固められたエルマの細腕に自分から突っ込んでしまった男は呆気無く床に崩れ落ちた。
「喧嘩ってのはね、こう――」
「死ねクソおらぁ!」
二人目、三人目が掴みかかってきたに対して肘鉄と膝蹴りを浴びせて昏倒させる。
「マリオ、喧嘩ってのは――」
「ははっ、これで終わりだアマぁ!」
最後の男は魔法使いだった。いつのまにか、手に小さな火球を作ってそれを野球ボールのようにエルマに投げつけてきた。
が、それはエルマに当たることも、酒場の壁を燃やすこともなく、不可視の壁に阻まれたかのように宙で止まってしまった。
「……煙?」
マリオの目の前で火球を空中に繋ぎ止めたのは、先ほどから店内に充満していたエルマの煙管の紫煙だった。巨大な生き物の手のような白い煙が火球をすっぽりと包むと、見る見るうちにそれはしぼんでしまった。
「ゲッ、ゴフッ……」
エルマが操る紫煙は最後の男の動きをも止めてしまっていた。煙が大蛇のように体中に巻き付いた男は指一本動かせずに、体中を締め付けられ意識を失った。
マリオが殴り倒したハイエナ以外の男四人、全員を倒すのに一分もかかっていないエルマの艶やかな喧嘩だった。
「さっすが、エルマさん! そこらのチンピラなんぞ屁でもねえ!」
「よっ! 《狼の血族》紫煙使いのエルマ!」
「ああ、おれの体も傷めつけてくれえ!」
おっさんたちが手を打ち鳴らし指笛を鳴らして喝采を送る前に立って、エルマは銀幕女優のように一礼して言った。
「旦那さん方、お楽しみのところを無粋なもんでお目汚ししてしまったようで。つきましては、今宵は当店のおごりで好きなだけ酒を召し上がってくださいまし。何卒、今後も当店をご贔屓に」
割れるような歓声が店内に響くと、エルマはマリオに向かってにっこりと笑った。
「どうだい、マリオ。このエルマ姐さんの喧嘩、ちゃんと目ぇ開けて頭に焼き付けたかい?」
「エルマ姐……」
「なんだい、自分の姐御がどんなタマか今さらわかったってのかい。はっ、まあこれでこれからはふざけた真似しないように、あたしを敬ってお姐様と――」
「あのさ、それで喧嘩ってのは、結局何なんだよ?」
「あん?」
「さっきから何度も言いかけてたじゃねえか。喧嘩ってのは、って。その続きは?」
「……」
ピクピクと気まずそうにエルマのエルフ耳が動いた。
「もしかして何にも考えてなかったのか?」
「そ、そんなわけないじゃないか! いいかい、マリオ。喧嘩ってのはね――」
再びエルマは固まり、エルフ耳だけが動揺したかのようにビクビクと動き続けていた。
「け、喧嘩ってのは――」
「おう」
「け、喧嘩ってのは口で語るもんじゃないんだよ!」
「……おう」
「な、なんで目ぇ逸らすんだい!」
戦ってる最中から何度も口で語ろうとしていた人に矛盾したことを言われたら、誰だって目を背けたくなる。
「マリオ、ちゃんと姐さんの目ぇ見な! あのね、喧嘩ってのは口でどうこう言うより――」
「兄ちゃん、ビール!」
「新入りさんもこっち来て一緒に飲みねえ!」
「はい、喜んでー!」
「マリオ! 弟分の分際で逃げるな!」
マリオはエルマの言い訳めいた説教をくどくどとされながら、陽気なおっさんたちと楽しく酒を飲んだのだった。
チンピラどもを店の外へ放り出し、客たちが帰ってその後片付けを終えた後。マリオはエルマと向かい合って、ビールをぐびぐびやっていた。
「んで、結局あいつらは何だったんだ?」
「ああ。外で口を割らせてみたら、冒険者崩れのチンピラだったよ。うちが鬼の一派とゴタついてるってのを聞いて、あわよくばシマを奪って成り上がろうとしたらしいねえ。まあ、うちのことをほとんど知らないで喧嘩売ってきたバカたちだよ。他のとこと揉めてるときはよくある話さ」
「ふーん」
「それにしてもね、マリオ」
エルマは煙管でポンと頭を叩いてきた。
「相手がどういう連中かも確かめないで喧嘩を売るのは、姐さんとしちゃ感心しないね。今回はチンピラが相手だったからよかったものの、ただでさえ鬼の連中とゴタついて忙しいときに、いらぬ相手にトラブって敵増やしてたらキリがないよ」
「でも、あいつら姐さんのこと、ナメやがった」
「……」
「汚えとか、売女とかふざけたこと言いやがった。黙って見てらんなかった」
「……しょうがない子だねえ」
エルマはふっとため息をつくと、マリオの横に腰掛けて身を寄せてきた。花のような香りが鼻孔をくすぐり、エルマの暖かい手がぴったりと頬に添えられた。
「まったく、暴れん坊の弟分持つと苦労させられるよ」
「……んなこと言って、姐さんだって暴れた――」
「こいつはあたしのために体張ったご褒美だよ」
頬にしっとりと柔らかい唇が優しく押し当てられた。
「グラスは可愛げがない野郎だけど、あんたはなかなかいい男じゃないか。まあ、目ぇ離してらんないから、弟分として認めてやることにするよ」
耳元でくすぐるようにそう囁かれたときだった。
「エルマ姐さん、マリオさん……何やってるんですか……?」
「おや、じゃじゃ馬な妹のお帰りかい」
ジーナが扉の前で仁王立ちしてこちらを鬼のような目で睨んでいた。シマの見回りから帰ってきたのだろう、グラスはそのそばで気まずそうに突っ立っている。
「グラスもお帰りかい。ずいぶん遅かったね。さて、ジーナ。ちょっと遅いけど、夕飯作るのを手伝って――」
「その前に! エルマ姐さん、マリオさんに何やってたんですか!」
「何って、ちょいとご褒美をくれてやってただけさ。最初はとっぽい野郎だと思ってたけど、なかなかどうしてかわいいやつだねえ。そんで、まあ、弟分としてちゃんと認めてやろうかと思ってね」
「それがどうしてキスすることになるんですか!」
「どうしてだって? そりゃあ、弟ってのは姐さんのもんだって決まってるだろう? 自分のもんに何しようが、あたしの勝手じゃないか」
エルマは意地悪くにやりとジーナに笑った。
「それとも何かい? マリオはあんたのもんなのかい?」
「そ、そうですよ! そうですとも! エルマ姐さんは最初、マリオさんのこと弟分として認めないみたいなこと言ってたじゃないですか! 私はとっくに姉弟分になること認めてましたからね、私の方がマリオさんを先に弟分にしたんです! マリオさんは私のものです!」
「へえ、ジーナのくせに言ってくれるじゃないか。じゃあ、マリオに聞いてみようか」
「は?」
「マリオはどっちの姐御がいいんだい? あたしか、ジーナか」
「そりゃあ、エルマ姐さんに決まってる」
エルマのたわわに実った巨乳にしっかりと視線を合わせながらマリオは答えた。
「ちょっ、マリオさん! どこ見て言ってるんですか!」
「よく言ったね、マリオ! 物分かりのいい弟を持ってあたしは幸せもんだよ!」
エルマが抱きついてきて柔らかい乳がマリオの胸にぐにっと押し当てられた。が、すぐにジーナに引き離される。
「マリオさん! こんな駄肉の塊に欲情しちゃダメです! 欲情していいのは、私のお尻だけです!」
「はんっ、男っ気の欠片もなかったあんたが健気にこいつの気を引こうなんて泣かせるねえ。だけどね、ジーナ。あんた、上下ってやつを忘れてないかい? 姐御のあたしがマリオは渡さないって言ってんだ。大人しく引いときな」
「エルマ姐さんこそ、スジってものを忘れてませんか? この人は私が面倒見るって決めたんです。一度放り投げたものをまた拾おうなんて、それこそスジが通りません。っていうか、別に私、マリオさんの気を引こうとかしてませんし!」
「おうおう、言い訳苦しいねえ。このデカ尻娘は」
「うるさいです、牛乳姐さん」
こうして、血で血を洗う姉妹分の仁義なき戦いは、ボスのルチアーノが帰ってくるまで、果てしなく続けられたのだった。
「鬼を潰すぜ」
帰ってきたルチアーノはメンバーを前にして、そう言った。
「今日一日、連中の動向を調べてきた。明日、《中鬼の矛鎚》と《大鬼の雷鎚》がそれぞれのホームで集会をやるらしい」
ルチアーノはぐるりと子分たちを見回した。。
「チャンスだ」
《狼の血族》ドン・ルチアーノは凄みのある笑みを浮かべた。
「この喧嘩が長引けば、シマ内のカタギさんに迷惑がかかる。人数が少ないおれらが不利になる。これを機に一気に片をつけるぜ」
「ボス、オーダーを」
グラスが組織のナンバー2に相応しく、落ち着いた態度で言った。
「今回はオーダーもクソもねえ。てめえら四人が中鬼をやれ。おれは大鬼を潰す」
「ちょいとそれは無理があるんじゃないですかねえ」
エルマが眉をしかめた。
「あたしら四人で中鬼をやるってのはいいでしょうよ。しっかし、いくらボスでも、大鬼を一人で相手どるってのはちょいと――」
「《大鬼の雷鎚》はボスのトマーゾを入れても、三人ぽっちしかいねえ、いわば鬼の一派をシメる幹部組織よ。三人なら、奇襲かけりゃ、おれでもなんとかなる」
「でも、トマーゾって人はお父さんと同じ、Sランクなんでしょ?」
ジーナは明らかに養父の身を案じていた。
「……やっぱり、そのプランには無理があるんじゃないの?」
「いや、これでいい。これしかねえ。中鬼と大鬼は同時に潰さにゃ、あとあとになって面倒になる」
グラスがうなずいた。
「確かに、一度に全てを終わらせないと、連中はガラを隠すでしょうね。そうすれば、あとはゲリラ戦です。ネチネチとこっちのシマに攻撃を仕掛けてこられたら、対応しきれません」
「その通りよ。さあ、これで話は終わりだ。明日の夜、おれらは鬼を喰い殺す。いいな、てめえら」
ルチアーノの覇気がこもった視線を、メンバーはそれぞれしっかりと受け止めた。その中でジーナだけが胸中の不安を隠し通せない面持ちでいた。
「よし、今日はもう解散だ。明日の夜まで、各自自由行動。マリオ、てめえはちょっと残れ」
他の三人が部屋に引き上がる中、マリオだけがその場に残された。
マリオは椅子に腰掛けているルチアーノを見た。先ほどまでの覇気はどこへやら、今はどこにでもいる一人の老いぼれた男に見えた。シャツから覗く腕や胸元には白い傷跡がいくつも走り、その肌は皺だらけだった。普段どこへ行くにも持ち歩いている剣を、今は杖のようにして床についている。外見から想像できる歳のわりには、体は頑丈そうだし、筋肉だって十分すぎるほどついているのだが、それでも、その背中は長年重荷を背負い続けてきたかのように丸まっていた。
ルチアーノがふとため息をついた。サングラスを外し、どこか遠くを見つめて言った。
「マリオ。おめえ、なんでうちが《狼の血族》っていうか、知ってるか?」
マリオはかぶりを振った。
「おれがおめえと同じくらいの、まだほんの若造だった時分の話よ」
その昔、ルチアーノは数人の仲間とともに、獲物や宝を求め、新大陸西部、未開拓地へと旅立ったらしい。
そこはまさに魔境、秘境と呼ばれる類の土地だった。森を歩けば、見たこともない植物が我が物顔で繁茂し、草原を行けば、凶暴な魔物同士が死闘を繰り広げている、そんな土地。
「そこでおれたちはあいつを見た」
ルチアーノたちが死にそうな思いをして進んでいた、その土地が、まるで自分の庭であるかのように悠々と崖の上に佇む魔物。
それは一匹の黒い狼だった。
全身は漆黒の毛に覆われ、その双眸にはただの魔物とは思えない、底知れぬ凄みと威厳があった。見るからに強靭そうな四本足で崖の上にすっくと立つその姿に、ルチアーノたちは時が経つのも忘れて、ただただ驚嘆し魅入られた。
その黒い狼の背後には、様々な色合いの毛を持つ狼が何匹もいた。先頭に立つ黒狼はその群れのリーダーか、あるいは家族を率いる父親なのかもしれない。
と、ルチアーノが当たりをつけたそのときだった。
群れの中でもっとも小さな仔狼が、突如現われた魔物に襲われた。
黒狼はどの狼よりも早く駆け、戦い、その仔狼を身を挺して守った。その牙は堅く、強く、仔狼を襲った敵を鮮やかに切り裂いた。
「大地を駆ける狼たちの偉大なる王、黒狼」
ルチアーノはその姿をありありと思い返しているように言った。
「その土地の先住民の話じゃ、その狼はそう呼ばれていた。大地に住むどんな魔物よりも、誇り高く、愛情深い獣。それが黒狼だそうだ。竜の一団が襲いかかってきても、自分の群れをその牙で守り抜き、また、その群れも自分たちのリーダーを守ろうと死力を尽くす。黒狼が率いる群れってのはそういうものらしい」
「……」
「憧れたよ、心の底からな。こんなきれいな生き物たちが他にいるのかと思った。おれもあんなふうになりてえと思った」
「それで自分のギルドに?」
「ああ。黒狼とその群れのようなギルドを作りたかったんだが……」
ルチアーノはかつての自分の失敗を思い出すようにして、不自由な片足を撫でた。
「おれはどうやら黒狼にはなれなかったらしい。《灰色狼》がおれの器の限界だったってことだ」
「……そんなことねえだろ」
「いいや、そんなことあるさ。おれももう歳だしな。自分ってもんはよぉくわかってる。おれは黒狼にはなれん。なれるとしたら――」
ルチアーノはマリオをじっと見た。
「おまえみてえなやつさ、マリオ」
「……」
「もちろん、まだまだ仔狼もいいとこだがな。だが、いい兄貴や姐貴がいりゃあ、うまく群れを率いることもできるだろう」
「……ボス、何の話をしてんだ?」
「……」
ルチアーノは答えず、もう話は終わりだというように椅子から立ち上がった。
「さて、明日は忙しいぜ。今日はゆっくり寝な。おう、そうだ。なんなら、景気づけにジーナとシッポリかましてもいいんだぜ?」
「おい、ボス」
「じゃあな、マリオ」
――じゃあな。
それは普通の挨拶のはずだったのに、マリオにはひどく不吉に響いたのだった。
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