第13話 マリオの親

 エルマが手ずから注いでくれた酒とジーナの作ってくれた夕食でマリオが喉と腹を満足させると、ルチアーノとグラスは二階の事務所へとマリオを呼んだ。ジーナが心配そうに、エルマがまた鼻を鳴らしてそれを見送った。

 《狼の血族》の事務所には初めて入ったが、一階の酒場とは雰囲気がまたずいぶんと違っていた。内壁が赤茶色のレンガ組みなのは変わらないが、中に置かれている家具は明らかに上質な木材で作られていた。床も一階が石板むき出しのままだったのに対して、ここには毛足の長い絨毯がひかれている。

 ブーツの裏に血や反吐がついていないか確認したいのを我慢していると、グラスから氷のように冷えきった声がかけられた。


「さて、今日は街へ帰って早々ずいぶんお楽しみだったようだな?」

「……」

「おまえがどこで道草食ってきたのかはすでに僕たちの耳に届いているが……一応、おまえにも言い訳のチャンスをやる。マリオ。何があったかを僕とボスの目を見ながら話すんだ」


 静かに怒り狂うグラスの目を見るのはなんでもないことだった。殴られても構わないし、なんならナイフでブッスリいかれても構わない。それで兄貴分の気が済むのなら安いものだった。

 だが、ルチアーノの目を見るのは怖かった。


「マリオ、おれの目を見な」

「……」

「さあ、何があったか話してみろ」


 何の感情も読み取れないルチアーノのサングラスの奥の目に必死に視線を合わせながら、ベガスに着いてからのことを話し出す。ガイを人質にとってオルクをうまくやり込めた段になっても、ルチアーノの不透明な目の色は何一つ変わることはなく、顔に刻み込まれた皺は一つも動くことがなかった。ホームに帰ってきたときにこちらに投げかけてくれたニヤニヤ笑いが嘘だったかのようなルチアーノの表情に、マリオはこの街のギルドのマスターというもう一つのボスの顔を見ていた。


「――で、最後にシアーズ商店に寄ってジーナの言伝を聞いて帰ってきた」

「……」


 ルチアーノは事務所の一番奥に置かれた高い背もたれのついた黒革の椅子に座っていた。一本だけ無事に残った片腕を飴色に磨きぬかれた書斎机につき、その手に顎を置いてじっとこちらのことを見つめている。話し終えたマリオはその前に突っ立って、ルチアーノの口が開かれるのを待つほかなかった。

 どれくらいの時間が流れただろう。いつしか階段下の酒場から聞こえてくる音も遠くなって、マリオが沈黙に耐えられなくなった頃、ルチアーノはようやくその重たい口を開いた。


「マリオ」

「……うっす」

「今の話でおれが一つだけ――一つだけムカついてしょうがねえところがある。どこだかわかるか?」

「……わかんねえ」

「わかんねえじゃねえ。考えろ」

「……《狼の血族》の見習い分のおれが粋がったことか? あいつらに喧嘩売ったことか?」


 ルチアーノは額に手を当ててため息をついた。そしてゆっくりと立ち上がると、片方の足を引きずりながらマリオの前に立った。

 一瞬、何が起こったのかわからなかった。

 自分がオルクとガイにしたのと同じように、いや、それ以上の技で、ルチアーノがタメをまったく作らない拳を自分の腹にぶち込んだのだと気づいたのは、床に崩れ落ちてから数秒間も経ったときだった。


「おいナメんなよクソガキ」


 マリオの頭上のはるか高みから、絶対的な力を持つ声が降りてきた。


「こちとら片腕もがれてようが目ン玉と片足悪くしてようが、ドタマの巡りが悪いアホなルーキーにヤキ入れるぐれえワケねえんだぜ」


 ルチアーノはまだ息もできないマリオの胸ぐらを掴みあげた。


「おいマリオ。おい――おれの目を見ろっつったろうが」

「……」

「けっ、しょうもねえ目で睨んできやがって。おらしっかり立て」


 ルチアーノは片腕片足を悪くした老人とは思えないほどの力でマリオを無理やり立たせると、頬に手を添えてきた。その手の温度は初めて会ったときと変わらず熱かった。


「質問を変えてやろうか――どうしておれが街の連中にボス・ルチアーノじゃなくて、ドン・ルチアーノって呼ばれてるか知ってるか?」

「……わかんねえ」


 意地を張って返すと、ルチアーノは脳天にまで突き抜けるような衝撃の平手打ちを頬に見舞ってきた。


「見習いが親分にナメた口をきくんじゃねえよ。いいか、せっかくだから教えといてやる。耳の穴かっぽじってよく聞きな――ボスもドンも、言葉の意味事態はそんなに変わんねえんだよ。どっちも組織の頭って意味だからな、おめえらもおれを呼ぶときゃ好きに呼ぶといい。だがな、ボスとドンじゃその重みは違うぜ。ボスなんてのは、くだらねえ手下集めて好き勝手やってりゃサルでもやれるもんよ」


 だがドンは違う。ボスはたんなる役職名にしか過ぎないが、ドンは本当の男だけに贈られる敬称なのだとルチアーノは言う。


「この世界じゃドンって呼ばれるのは本物の男だけだ。街の連中はそれがわかってる。誰が本物の男なのかってことをちゃんと知ってるのよ」


 マリオは腹の奥から出てきた血反吐の塊をぺっと吐き捨てた。


「……本物の男ってのは子分をワケもなくブン殴るやつのことかい?」


 マリオはいきなりの仕置きに混乱し、怒っていた。

 自分はうまく喧嘩を収めて帰ってきた。ギルドのボスも仲間もみんなが暖かく迎えてくれた。そんな中で食う飯は今までにないくらいうまかった。

 それなのに、どうして今自分は殴られているのだ。どうしてボスはこんなにも怒り狂っているのだ。マリオは顔を歪ませながら言った。


「……本物の男だと? 意味のわかんねえことほざきやがって。笑わせるぜ――」


 クソったれ、と続けようとしたマリオをルチアーノは力の限りぶん殴った。


「まだわからねえのかこのアホンダラ!」


 今までに食らったどんな攻撃よりもキツイ拳がマリオを再び床に打ち倒した。


「いいかマリオ、よく聞きな――てめえ、《中鬼の矛鎚》と楽しくやり合ってたとき、ジーナのことを一瞬でも考えたか?」


 いったいどういう意味だと口を開こうとすると、ルチアーノの蹴りが腹にめり込んだ。疑問は言葉にならず、血が口から飛び出た。


「てめえだけがマトにかけられたかと勘違いしてたか? てめえはルーキー、ルーキーと呼ばれて、いつのまにか大物気分だったか? このクソったれめ!」


 床に這いつくばりながら身を起こそうとすると、グラスが冷たい表情を浮かべているのが目に入った。その口が淡々と事実を紡ぎだす。


「マリオ。おまえがシアーズさんの店から出たあと、ジーナはおまえを探しに行った。あのいかがわしい通りにまでだ。おまえらは北門を通ったときから中鬼の連中に張りつかれてたんだよ。二人ともまっすぐホームに帰ってくればいいものを、人目につかない暗がりが多いあそこまで行ってしまうとは」


 目の前が真っ暗になったのは痛みのせいばかりではなかった。話の続きを聞くのが恐ろしかった。

 そんなマリオの心の動きを読んだのか、グラスの声が少しだけ柔らかくなった。


「まあもちろん何も問題はなかった。僕たちにも協力者はいるから、連中がジーナにおかしなマネをする前に見つけて無事にホームに連れて帰ることができたよ。ポン引きに釣られて奥へと入り込んだ馬鹿を探すのはボスに止められたけどね」

「仲間のことをすっかり忘れてぶらつく阿呆の面倒までは見きれねえからな」


 ルチアーノはこちらを見下ろして煙草に火をつけた。


「おいクソガキ。これでわかったか。おれは何もてめえが中鬼のシマでやらかしたことにキレてるわけじゃねえ。てめえが自分の口でそいつを話すとき、ジーナのことがこれっぽちも出てこなかったことにムカついてるんだ」


 ルチアーノはしゃがみ込んでマリオの顎を持ち上げた。


「てめえがこの街に来る前にどんな人生送ってどんなヤマ踏んできたのかは知らねえ。それなりの修羅場くぐって人のためにてめえの体を張ることぐれえはあったのかもしれねえ。だがな――」


 煙草を口の端にくわえたまま、ルチアーノはその煙をマリオの顔に吹きかけた。


「てめえは体の張り方ってのがなっちゃいねえんだ。別にムチャやるな、派手に暴れるなと言ってるわけじゃねえぞ。てめえ一人のときならそれもよかろう。エルマやグラスのときも問題はねえだろう。だが、ジーナは違う。あいつはてめえや姐貴分たちに比べりゃまだ弱ぇ。そんくれえわかってただろう?」


 それがどうした、自分の身ぐらい自分で守れ。


 そう言いかけたマリオの口をそっと閉じるようにして、ルチアーノはマリオの口元についた血を自分の手のひらでぬぐってから言った。


「男は自分の周りにいるやつのことをいっときも忘れちゃなんねえんだ――それが本物の男ってやつだ。わかるか?」


 わからなかった。

 わかるわけがねえ、わかりたくもねえと叫んで唾を吐きかけてやりたかった。どうして自分がジーナのことを気にかけなかったぐらいで、ここまで痛めつけられなければならねえんだと叫びたかった。

 それでもルチアーノの熱い手のひらに支えられ、その不思議な色の瞳を見ていると、思っていることとまったく違う言葉が出てきた。


「……わかる、ような気がする」


 ルチアーノは笑った。


「よおし、今はそれでいい。ばっちりわかったなんて言いやがったら、今度こそぶち殺さにゃならんとこだった。うっし、これで説教はしめえだ。今日あったことは頭冷やしてもう一度よく考えてみろ。おいグラス連れてけ。んで、エルマとジーナ呼んでこい。次はあのバカ娘をぶっ飛ばさなくちゃなんねえ。あの馬鹿、いい加減自分の身ぐらい自分で守れるようになれってんだ。それもできねえくせに冒険者になりてえだなんのと抜かしやがって……」

「立てるかマリオ」


 片足が不自由だというのに、グラスがマリオの脇の下を肩で支えて立たせてくれた。


「僕からも言いたいことは山ほどあったんだが――それは今度にしておこう。おまえの顔見てたらその気もなくなったよ」


 グラスに背負われるようにしながら事務所を出たマリオはやっとの思いで口を開いて言った。


「……グラスの兄貴。おれ、そんなひでえ顔してるか?」

「親に殴られて泣きそうなガキみたいな顔してるぞ。腕と度胸があっても、まだまだガキだなおまえ」


 二人が三階へ続く階段を上ろうとしたとき、不機嫌そうな顔をしたエルマに連れられてジーナが一階からの階段を上ってやってきた。


「……マリオさん」

「おう、ジーナ」


 ジーナはこちらの顔を見て少し口ごもってから言った。


「……ひどい顔です」

「おまえも今からこうなるんだよ――ったく、あのクソジジイ意味がわかんねえ。おれには、おまえを守れって言っておいて、本人には自分の身は自分で守れって説教するハラらしい。結局何が言いてえんだ」

「おまえがボスの頭の中を読もうとするなんざ、百年早いんだよこのタコ」


 エルマが煙管でこちらの頭をポカンと叩いてきた。


「はっ、粋がったクソガキが親に叱られてブツクサ言いやがって。みっともないったらありゃしない。ったく、ボスもなんでこんな殴られっぷりが悪いやつを可愛がるのかねえ。いっそぶち殺してドブにでも捨てちまえばいいのに。まあいいさ。ほらジーナ、何ボサッとしてんだい、次はあんたの番だよ。とっととボスに可愛がられてきな」

「はっ、はい……」


 ジーナもエルマに煙管でポカンとやられると、居住まいを正してから事務所の中へと入って行った。


「マリオ、あんたは今日のところはとっとと寝ちまいな――こいつを飲むのを忘れんじゃないよ」


 エルマが乱暴に投げて寄越してきたのは何かの錠剤のようだった。グラスが耳打ちしてくる。


「エルマ姐さんの回復薬だ」


 礼を言おうとしたときには、すでにエルマは煙管の煙だけを残して事務所の中へと姿を消してしまっていた。


「……これ、効くのか?」

「エルマ姐さんのとっておきだ。それさえ飲んでれば明日にはすっかり元通りだろう。はあ……なんだかんだ言って、姐さんが一番甘い。僕が世話してやるのも馬鹿らしいな。おいマリオ、ここからは自分で歩け」

「言われなくたってそうする……それでよ、グラス兄ィ」

「話なら明日にしろ。もう寝ろ」


 ジーナを守ってくれたことについての礼を言おうかと思ったのだが、機先を制されてしまったようで、グラスはマリオから体を離すとさっさと一階に降りて行ってしまった。


「……自分だって甘いじゃねえか」


 壁を伝って三階の自分の部屋へと辿り着くと、マリオはマットレスの上に倒れこんだ。水もなしにエルマの回復薬を飲み下すと、腹で荒れ狂っていた痛みと吐き気がすっと収まった。と同時に、マリオの意識は深い渦に飲み込まれるに混濁していった。


 その渦の中でマリオは過去の自分を見た。


 マリオの親はろくでなしだった。

 母親はマリオに愛情の欠片も持たなかった。彼女の自己中心的な愛情の対象は夫以外の、金を持っている男に限られており、子どもはその範疇には含まれなかった。いや、そもそも彼女が自分の子どもの存在をはっきりと認識していたかさえ疑わしかった。彼女は子どもに食事を作ることも世話をすることもなかったし、そもそも家にいることさえ稀だった。まだ幼かったマリオが、男との逢瀬からたまに帰って来た母親を求めて泣きついても、彼女はうるさい目覚まし時計を黙らすようにして何も言わずにマリオを叩くだけだった。だから、マリオが物心ついてまず覚えたことは、母親の前では静かにしていることと自分で冷蔵庫から食事をくすねて生きていくことだった。

 だが、めったに接触のない母親は父親に比べればまだマシだった。

 父親は事あるごとにマリオを殴った。マリオが冷蔵庫から勝手に食べ物をとった。これは腹に一発。マリオが自分の見ているテレビの前を横切った。頬を平手打ち。殴られたマリオが泣きわめいて黙らなかった――意識を失うまでマリオはぶちのめされた。

 父親は才能あふれる男だった。ろくに仕事もしないのにどこかから酒を飲むための金を稼いでくる才能を持ち、子どもを殴り殺さないだけの分別も持っていた。それどころか、目立つ傷を残さずにマリオを痛めつける方法においては熟知しており、学校でのマリオの様子を不審に思った教師や役所の人間を騙して脅すことについては天才的だった。

 そんな父親の英才教育のおかげだろう――マリオが自分一人の力で生き延びていく力を身につけることができたのは。

 最初は冷蔵庫の食べ物。次は親の財布から気づかれないように。その次は店の食べ物を直接――マリオは生きるために盗んだ。体が大きくなり、食べ物を盗むだけでは足りなくなってくると、人から金を奪うことを覚えた。面倒なことにならないよう、後ろ暗いところがあるやつから金を巻き上げることもそのときに覚えた。

 だが、その行為が父親に知られたときは凄絶な仕打ちを受けた。気を失うことすら許されない仕打ちの中、父親はいつもマリオを見下ろして言った。


「周りのことを考えろ」


 その言葉はもっと簡単な言葉に置き換えることができた――おれに迷惑をかけるな。

 父親にとって、マリオは気晴らしのためのおもちゃであり、役所から扶助の金を受け取るための道具だった。そんなものがくだらない罪のために自分に迷惑をかけるなどあってはならないことだった。

 だが、そんな人でなしの父親もマリオが中学校にあがる頃、姿を消した。人に聞いた話では逮捕されたとか、やくざとトラブって殺されたとかいうことだったが、はっきりとしてことはわからなかった。母親の方もそのときにはすでにどこかに男を作って家を出てしまっていたので、マリオは父方のいとこだか、はとこだかの遠い親戚に預けられることとなったが、マリオにとってはそこもそれまでの環境と大した違いはなかった。

 つまり、「周りのことを考えろ」

 世間体のためにマリオを引き取った親戚は事あるごとにそう言った。うちの家計を考えて飯を食え。うちの世間体を考えて学園では行動しろ。うちの子どもたちのことを考えて生活しろ。

 この言葉をある意味では忠実に実践して、数年もしない内にマリオはその家を出た。

 そうしてみてわかったことは、自分一人で家を見つけて生活する方が今までよりもはるかに簡単だということだった。書類の保護者の欄をでっち上げて学園に通い続けることは簡単だった。周りのことを考えずに街のクズ共から自分の生活費を巻き上げることは簡単だった。保証人なしで住むことのできる家を見つけるのなんて、それこそ朝飯前だった。むしろ、周りのことを考えずに食事をして風呂に入ることができるなんて夢のような生活だったし、それまでは手を触れることさえ許されなかった漫画やゲームで自由に遊べることもマリオには嬉しかった。

 唯一厄介だったのは、そういった生活をするための金稼ぎの手段のせいで、会いたくもない連中がこぞってマリオに会いたがってくることだった。

 学園で喧嘩を売ってきた馬鹿を殴って金を巻き上げたら、その先輩とかいう馬鹿が出てきたし、そいつを締めあげてATMから金を引き出させると、そいつの父親だとかいうやくざが現れた。そのやくざに土下座させて札束を出させると、黒い車に拉致されて殺されそうになったので、逆に半殺しにした。自分一人生きることだけ考えて動けば、それらは全部難しいことではなかった。拳や刃物からうまく身を守る方法も、他人の気配に敏感になることも、相手を殺すつもりで、だが殺さずに痛めつける方法も、全て才能あふれる父親に教わったことだった。

 だがそうすると妙なもので、今度はそんなマリオを慕ってくるやつらが現れ始めた。相手が誰だろうと恐れを知らないマリオに憧れたのだと、そいつらは言った。

 自分の周りをうろちょろするそういうやつらが増えても、マリオは無視していたが、そいつらが自分の名前を使って勝手なことをするとそうも言ってられなくなった。こちらにまで被害が飛び火してくることが増えてしまったのだ。それで自分に振りかかるトラブルを解決するためにいろいろと動くと、結果的にそういう連中を助けてしまうことが多かった。そうして、ますます取り巻きじみた連中は思い上がり、最終的にはマリオを命の恩人だとか抜かすやつまで出てきた。そういったやつらは口を揃えてマリオを褒め称えた。「マリオほど、周りのことを考えられる人はいない」。

 そして、マリオが自分たちの意に沿わない行動をとると、こう言った。「おれたち周りのことを考えてほしい」

 生まれてから日本でマリオが死ぬまで、どいつもこいつも同じことをぬかしてきた。その言葉をマリオは嫌っていた。憎んでいたといってもいい。そう言う本人は自分のことしか考えていないのに、人には好き勝手なことを言うクズ共。そんなやつらとは一切の関係を持たずに、マリオは本当に自分一人で好き勝手に生きてみたかった。まったく新しい世界で自分の力を試してみたかった。どうして自分に第二の人生のチャンスが与えられたのかはわからないが、マリオはこの世界での新たな人生に心の底から期待していた。

 だが、結局はこの世界でも、誰かさんに同じことを言われる羽目になってしまった。

 男は自分の周りにいるやつのことをいっときも忘れちゃなんねえんだ――それが本物の男ってやつだ。わかるか?

 しかし、新しい親分のその言葉と拳は熱く、不思議と体と心にその燃えるような温度が伝わってきた。


 実の親のそれらは死にそうなくらい冷たいものだったのに。


 夢とも記憶ともつかない眠りの中から、マリオは目を覚ました。


 体を起こして寝具を片付けたところで気づいたが、昨日あれだけルチアーノにぶん殴られたはずの体にはまったく痛みが感じられない。見てみると、体には痣も切り傷も残っていなかった。エルマの回復薬とやらのおかげだろうか。

 体の調子にすっかり気分がよくなったが、一階に下りてルチアーノとまた顔を合わせることを考えると、気分は崖下に真っ逆さまになった。


「……しょうがない。気合い入れていくか」


 自分に喝を入れて、気合いを出す。昨日のことは昨日のこと。今日のことは今日のこと。ルチアーノの顔色を気にしていてもしかたがない。誰かの顔色を気にするなんて、そんなの全然自分らしくない。

 一階への階段を下りて酒場に足を踏み入れる。

 テーブルの上で何かの帳簿を開いているグラス。食事の準備をしているエルマとジーナ。だが、最初にマリオの目に入ったのはルチアーノだった。

 ルチアーノはこちらに気づいてニカッと笑った。


「おう、やっと起きたかこのねぼす」


 ルチアーノのその笑顔はまるで昨日のことなんてもう忘れちまったといわんばかりに快活で、それを見たマリオは、


「死ねこのクソジジイ」


 ドカンと。


 ドロップキックを食らわせた。ギルドマスターであるルチアーノの顔面に。見習いであるはずのマリオが。それはたとえるなら、新入社員が社長にコブラツイストをかけるとか、足軽が大名に向かってシャイニング・ウィザードをかますとかいう所業だろう。到底許されることではなかったが、マリオは一斉攻撃のチャンスです! とばかりに追撃にかかった。


「てめえ、昨日はよくもあんだけボコスカ殴りやがって」

「お、おいッ、ちょっ待っ」


 椅子から転げ落ちたルチアーノをガシガシと踏みつける。不意打ちと追撃は喧嘩必勝の法則だって、マリオ知ってるよ!


「だいたい言ってる意味がわかんねーっつーの何が周りのこと考えろだこのクソジジイ」

「だ、だれがクソジジイだこの――ぐへっ」

「おっと腹に入ったか? いてえよな? 腹に蹴りが入るといてえよな? んじゃもう一発食ら――」

「あんたが食らいなこのクソガキ」


 黒いハイヒールのかかとがマリオのみぞおちにピンポイントで入った。ヒールで人を痛めつけることには慣れた感じのエルマ女王のお仕置きだった。


「自分のボスに何をやってるんだ、おまえは」


 ナイフの柄で頭を殴打され、あやうく意識が飛びそうになる。見ると、グラスが肉切り包丁みたいにでっかいナイフを握りしめて、魔王の兵卒みたいに怖い顔をして立っていた。


「じゃ、邪魔しねえでくれ姐御、兄貴。おれはこのクソジジイに復讐を……」

「だれがクソジジイだこのボケッ」


 最後にクソジジイ本人のジャブが見事に顎に入って、マリオはぶっ倒れた。


「マ、マリオさん、生きてます?」

「ジーナ、ほっとけ。このバカ、昨日の今日じゃおれっちと顔合わせんのが恥ずかしくてしかたねえのよ。クソガキはほっといて、飯だ飯」


 ルチアーノの言葉でマリオ以外の四人は席について勝手に食事を始めてしまった。

 まるで昨夜のことなどみんなすっかり忘れてしまったといわんばかりの様子だった。

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