第7話 エルマ姐御とグラス兄貴

「マリオさん、起きてください! 起きてくださいってば! テント張ってる場合じゃないですよ!」

「……はい?」


 体を揺り起こされて起きる。どうやら思った以上に疲れていたらしく、いつの間にか朝が来ていた。


「……って、まだ薄暗いじゃねえか。ジーナ、ライナス君。おやすみ」

「あーもう! だから起きてくださいってば! もう、ギルドメンバーみんなが待ってるんですよ!」

「……ライナス君を乱暴に扱わないでくれ」


 朝っぱらからうるさいジーナに毛布を剥ぎ取られる。


「……なんで朝から全裸なんですか?」

「おれは寝るときはいつも全裸だ」


 ジーナは絶句して、こちらの下半身を凝視していた。


 今日もムスコは元気だった。


「……化物級です」

「おう」

「……早く服着てください。お父さんとエルマ姐さん、グラスさんが待ってます」


 背を向けたジーナが昨日警官にもらった黒ズボンと半袖シャツを放り投げてきた。ムスコが言うことを聞かないので、ズボンを履くのに苦労した。

 ジーナと一緒に一階へと下りると、酒場の方からはいい臭いがしてきた。足を踏み入れると、テーブル席には朝から豪勢な料理と酒が並べられており、それを囲むように、ルチアーノを含む三人の男女が立っていた。


「おう、マリオ。おはようさん。こっち来い。飯の前に、おめえをうちのメンツに紹介してやる――エルマ、グラス。こいつが新入りのマリオだ。マリオ、こいつらがおめえの姐貴分と兄貴分だ」


 目の前に立つ二人の男女は胡散臭そうにこちらのことを観察していた。

 エルマとかいう女の方は背が高く、左目に黒い眼帯をつけていた。亜人というのだろうか、長くまっすぐな艶のある銀髪からは短く尖った耳が突き出していた。服は黒い袖なしのワンピースで裾にはレースの縁取りがされているが、丈は膝上までしかなく胸元が大きく空いているから、いろんなところが見えている。肉感的な太ももや豊かな胸が作る深い谷間とか。

 ぶっちゃけ、エロかった。


「こっちがエルマ。うちでは一番の古株で、ハーフエルフだ。金色狼の宿の経営、魔法薬の調合なんかを任せてる。マリオ、姐貴分に挨拶しな」

「よろしく、エロマ姐御」


 緑色の右目がぎろりとこちらを睨んできた。


「誰がエロマだい。あたしの名前はエルマだよ。新入りのくせに、ナメた口きくじゃあないか。だいたい、あんたなんぞに姐貴呼ばわりされる筋合いはないよ」


 エルマは伝法な口調で苛ついたように言うと、手に持った煙管を吸って、煙をこちらの顔にぶわっと吹きかけてきた。

 その様子をニヤニヤして眺めながら、ルチアーノはもう一人の男の方を紹介した。


「こいつが《狼の血族》の金庫番を務めているグラス。ギルドの金を取りまとめてるってこたあ、実質、うちのナンバーツーよ。上下で言やぁ、エルマの下になるがな」


「おまえがマリオか。おまえの話はもういろいろと僕の耳に入ってるよ」


 グラスは銀縁眼鏡の奥の目を細め、気に入らなさそうにふんと鼻を鳴らした。歳は二十歳過ぎだろうか。美青年ではあるが、線の細い顔と長めの髪の持ち主で神経質のようにも見える。黒い上下のスーツも手入れが行き届いていて、塵一つついていない。

 だが、黒いスラックスに包まれたその右足は不自然な形に曲がっていた。体重も左足だけでほとんど支えているようだった。


 グラスの不自由な右足。エルマの片目の眼帯。ルチアーノの弱い視力と失われた右腕。


 冒険者にとってこれらのハンディは致命的なのではないかと気になったが、一応そこは聞かずに挨拶しておく。


「よろしく、眼鏡兄貴」


 こちらを見るグラスの目がいっそう細くなった。


「……人の名前を間違える趣味でもあるのかい? しかし――」


 グラスは面白そうにこちらの様子を見守るルチアーノに向き直った。


「ボスの決定に逆らうつもりはこれっぽっちもありませんが、一応一言言わせてもらいますよ」

「おう、どんどん言え」


 ルチアーノは煙草をうまそうに吸っている。濃い色のサングラスに隠された目は楽しそうだった。ジーナはその隣で不安そうに事の成り行きをうかがっている。


「僕はこんなやつを見習いにするのは反対ですよ。ただでさえ、今の《狼の血族》に人を養う余裕はありません。おまけに《小鬼の大鎚》とは、今までにないほどキナ臭くなってきています――こいつが向こうの送り込んできた野郎でないとも限りません」


 グラスは芸術家のように繊細そうな指先で眼鏡のツルを押し上げた。すると、ルチアーノはニヤリと笑った。


「グラス。おめえは頭は良いが、まだまだ修行が足らねえようだな。そんなんだから、エルマには頭が上がらねえんだ」

「……」

「冒険者を長くやってりゃあ、自分の下のやつが敵かどうかは一発でわかる。敵味方の区別がつかねえようじゃ、この世界じゃやっていけねえからな」

「……ボスがそう言うのでしたら、僕からはもう何も言うことはありません。無礼な物言い、失礼しました」


 自分のボスには従順なのか、グラスは意外にもあっさりと引き下がったが、エルマの方は納得がいかないようだった。煙管の灰を灰皿に打ち付けて落としながら言う。


「あたしぁ、イヤですよ。そりゃあ、グラスと同じように決定には従いますがね。ボスがなんといっても、エルマはイヤなもんはイヤです。こんな口のきき方も知らない半端者の面倒は見たかありません」


 エルマがぷいっと顔を背けると、ルチアーノはもう耐えられないというように笑い声を上げた。


「エルマ、昨日と言ってることが違うじゃねえか。昨日はおめえさん、おれの話を聞いてこんなこと言ってやがった――バアさん助けるために《小鬼の大鎚》に一人で喧嘩を売ろうとするたあ、見どころのあるやつだ。ボス、そいつはあたしがもらって面倒見るってな」


 ルチアーノに向いたエルマの耳が赤く染まった。エルマはそれを誤魔化すかのように煙管に葉を詰めた。


「そいつはお忘れになってください。この業界、昨日の友は今日の敵。このエルマの気分だって一日経ちゃぁ、東から西へと変わります。といっても、ボスの命令には逆らいたくありません。かといって、そんなちんちくりんをあたしの弟分にもしたくありません。ということで、そいつはジーナの弟分にでもしてやりましょう。なあに、見習い同士うまくやるでしょうよ」

「おれはエルマ姐の方がいい」

「誰もあんたの意見なんか聞いてないよ。だいたい、あたしのどこ見て言ってんだい、このエロガキ!」


 エルマが怒鳴ると、それに合わせて大きい胸がぷるんと揺れた。ジーナも小さいというわけではないが、このS級の胸には劣る。姐と呼ぶなら、包容力のある胸を持つ方が絶対にいい。


「……はあ」

「なんですか、マリオさん。人の胸見てため息つかないでください」


 ジーナは胸を張って腰に手をやると、偉そうに言った。


「今日からマリオさんは私の弟分になるわけですから、私の言うことには従ってもらいますよ。この業界、上の者が言えば、黒いレイブンもシロになります。私の言うことは絶対です」

「おまえ歳いくつ?」

「えっ?」


 戸惑いながらもジーナが歳を言う。この世界の暦は日本と同じと聞いている。


「おまえ、おれより一つ年下。おれ、人生の先輩。おまえ、後輩。おい、ぼーっとしてないで飲み物注げよ」


 テーブルの上に用意されていた杯を手に取り、ジーナに向ける。


「あっ、気づかないですみませんでした……って、だから私の方が偉いんですって!」


 ルチアーノがまあまあと仲裁に入った。


「この世界、上下は大切だが、所詮は見習い同士のことだ。そこんとこはあんまし気にせず仲良くやりゃあいい。まずは乾杯だ。ずいぶん久しぶりに新入りが入ったんだ。みんな仲良くやろうじゃねえか」


 グラスがやれやれと首を振って、エルマが不満そうにスパスパと煙管を吸う。ジーナも頬を膨らませていたが、三人ともそれぞれ杯をきちんと手に持った。

 ルチアーノも左手で杯を持った。


「さて、《狼の血族》に新しい子狼が加わった。こいつとは血の誓いは交わさねえ。それに、いずれ群れを出て行くかもしれねえやつだ。だが、それまではうちの大事な家族の一員だ」


 ルチアーノがエルマとグラスの方を見ると、胸の内に何を抱えていようがボスの言うことは絶対なのか、二人はそれまでの態度が嘘のようにはっきりとうなずいた。


「マリオ。実の血が繋がってなかろうが、仮初だろうが、おめえはおれの息子だ」


 ルチアーノは昨日と同じように熱い手のひらでマリオの頬を包んだ。


「おめえに何かあったら、おれやおめえの兄弟分たちが死ぬ気で守ってやる」

「……」


 これまで誰かにそんなことを言われたことはなかったし、こんなに熱い誰かの温度を感じたことはなかった。実の両親にもこんな風に触れられた記憶はない。

 不思議な感じがした。

 こちらの心情を察したのか、ルチアーノは陽気な声を張り上げた。


「まあ、マジな話はこれぐれえにして、ジーナが朝から気合い入れてくれた飯を食おうじゃねえか! 乾杯!」


 五つの杯が高く掲げられ、ルチアーノの後に続いて唱和する声が、金色狼の宿に厳粛に響いたのだった。


 まだ日も昇りきっていないような時間にも関わらず、誰もが豪華な料理に夢中になってしばらくは食器の触れ合う音だけが聞こえた。

 昨夜と同じコカトリスの唐揚げには今朝は香草がかけられていた。新鮮な野菜サラダの上に乗せられたコカトリスはさっぱりとしていてドレッシングによく合う。濃い味に作られたシチューに入ったコカトリスの肉は口に入れるとふわりととろけるほどに柔らかく、コカトリスの丸焼きはしっかりとした歯ごたえと旨味があった。


「って、コカトリスしかねえのかよ」


 朝から肉尽くしのコカトリスフルメニューだった。


「すいません、今あんまりお金がなくて、私が獲ってきたコカトリスしか出せないんです……」


 グラスが先ほどルチアーノに進言したことは誇張ではなかったようだ。


「うまいからいいんだが」

「ふん、だったらグダグダ言うんじゃないよ。男のくせにうるさいやつだね。ほら、下っ端は上のもんの杯が空になったら、すぐに注ぐもんだよ」


 エルマが空の杯をこちらに向かって突き出した。


「へい、エルマ姐御。失礼しやす」

「おや、素直じゃないか……って、どこに注いでんだい!」


 ちょっとミスって、でっかい胸の谷間に注いでしまった。グランドキャニオンにワインが滴り落ちる。ワンピースの薄い布地が濡れて、大きな乳房に張り付き形がはっきりと出る。

 薄い布地一枚に覆われたエルマの胸は形といい大きさといい、全てにおいて完璧だった。


「あっ、すいやせん。こっちの方が注ぎやすそうだったもんで、つい」

「……どうやら死にたいようだねえ」


 エルマの片目から得体の知れない力がゆっくりと放たれる。すると、ルチアーノが大声で笑った。


「《混血の魔女ハーフ。ウィッチ》にデカい態度をとるたぁな。やっぱり大したタマだぜこいつは」

「マリオ。僕にも注いでもらおうか」


 ジーナが慌ててエルマのフォローに回る向かいの席で、グラスが静かに言った。眼鏡の奥の目は油断なく光っている。


「おう、グラス兄ィ」


 ワインの瓶を手に取って、左隣に座っているグラスに向ける。


「おっと、それじゃない。僕はそっちのシャンパンが飲みたいんだ」


 グラスが指したのは先ほどテーブルの上から転げ落ちてしまったシャンパンの瓶だった。開けられていない瓶の中ではまだ液体が激しく泡立っている。


「これか? まあ、そう言うんなら……」


 妙に思いながらも、マリオがシャンパンのコルク栓に手をかけたそのときだった。

 何かが風を切る音がしたかと思うと、瓶の首は真っ二つに両断されていた。噴水のようにシャンパンがマリオの顔に飛びかかってくる。


「ああ、すまないね。かわいい弟分の手間を省こうと思って、久々に瓶切りをしてみたんだが」


 右の壁に目をやると、向こうのレンガ壁に一本のナイフが深々と突き刺さっていた。それを見たルチアーノが手を叩いてはしゃぐ。


「《必殺必中パーフェクト》グラスのナイフ投げか! 久しぶりにいいもん見せてもらったぜ。やっぱり活きのいい野郎が入ってくるとおもしれえな」

「どうも、下らないものでボスのお目を汚してしまったようで。おや、マリオ。どうしたんだい、そんな顔をして」

「……いや、なんでもない」

「そうか、ならよかった。エルマ姐さんもそんなに怒らないで。今日はめでたい日です。ここは一つ、上の者から下の者に酒でも注いでやったらどうです」

「……そいつぁいい考えだねえ、グラス」


 エルマは自分で杯を手に持ってワインをそれに注いだ。片目からはなおも謎の力が放たれていた。


「ほら、ぐいっとお飲み」


 エルマが差し出してきた杯には変な色合いのワインがなみなみと注がれていた。おまけにそれはグツグツと沸騰したように揺れている。それを見たジーナが驚いた声を上げる。


「エルマ姐さん、それは……!」

「どうしたんだい、マリオ。あたしの注いだ酒が飲めないっていうのかい」

「……ありがたくいただく」


 酒を注ぐ前にエルマが何かの粉末を杯にさっと入れていたのが見えたが、覚悟を決めて一気に液体を喉に流し込んだ。

 途端に口の中から喉、その奥の胃にまで焼けるような感覚が走った。ぐっと耐えようとしたが、思わず床に向けて吐き出してしまう。

 マリオの口からは真っ赤な炎が吹き出して、石で組まれた床を焦がした。


「おやおや、下品な子だねえ。《混血の魔女》エルマ姐さんの特製調合ワインを吐き出しちまうなんて。この街にゃ、こいつを欲しがる薬屋が掃いて捨てるほどいるってのに」

「……ガッ、ゴホッ、悪いな。せっかく注いでくれた酒を」

「はっはっは! そのへんで勘弁してやれ、エルマ、グラス。マリオ、おめえも姐貴たちを試そうとする真似すんじゃねえ」


 ルチアーノがこちらの頭の中を見透かしたように言った。


「足が悪くとも、片目が見えなくとも、おめえの姐貴分たちの腕は確かよ」

「……」

「とはいえ、子分どもがいいもん見せて親のおれが何もしねえってのは興ざめだ。マリオ、ちょいと立ちな」


 訝しむこちらに向かって、ルチアーノはニヤリと笑った。


「おめえ、昨日からおれとやりたがってたろう」


 ルチアーノの言葉に、意地悪く笑っていたエルマとグラスがたじろいだ。


「……ヤリたがるだなんて、おれはホモじゃない」

「誤魔化すな。ちょっとだけ相手してやるよ」

「ボス、それはちょっとやめた方がいいと思いますが」

「マリオ。今のうち、ボスに謝っちまいな。怪我するよ」

「お父さん! ふざけないで!」


 三人の制止を聞かずにルチアーノとマリオは立ち上がると、酒場のテーブルの間の狭い空間で向かい合った。ルチアーノは手に年季の入ったボロボロの剣をぶら下げている。


「どっからでもかかってきな。この《灰色狼》ルチアーノ。右腕もがれていようが、目ン玉の調子が悪かろうが、なあに、ガキには負け――」


 言い終わる前に、マリオはすでにルチアーノの懐に飛び込んでいた。

 先手必勝のインファイト。

 頭で考えずとも、狭い空間で長剣を持った格上に対する最適の戦い方を体は選んでいた。

 周囲の流れがゆっくり見える。驚くジーナや姐貴分たちの顔まではっきりと見える。そして、こちらに向かって抜き放たれるルチアーノの剣も。

 髪が一筋、鋭い剣に持っていかれた。だが、拳はすでにルチアーノの顔面数センチのところに――。


「――は?」

「いや、こいつは驚いた。ここまでやるとは思わなかったぜ」


 自分はルチアーノの剣をかわして、相手の真正面、腕の届く位置にまで迫っていたはずだ。


 なのに、なぜ。


 なぜ、ルチアーノが自分の体の横に立っているのか。

 なぜ、かわしたはずの剣身が自分の首に添えられているのか。


 ルチアーノの声が耳元で聞こえた。


「一撃目をかわされるとは思ってなかった。こりゃ嘘じゃねえ、マジよ。どんな修羅場くぐってきたか知らねえが、おめえは相当強え――上には上がいることを知った今なら、もっと強くなれるだろうぜ」


 ルチアーノはマリオの肩をポンと軽く叩いた。マリオの金縛りがとけて、途端に冷や汗がどっと出てきた。


「さあて、余興はこれで終わりだ。今日はやることが山ほどあるぜ。デザート食って食後のエスプレッソコーヒーと洒落こもうじゃねえか」


 ルチアーノの普段と変わることのない声が酒場の金縛りまでといたようだった。呆然としていたエルマとグラスは、はっとした表情を見せると目の前の食事にまた手を伸ばし始めた。ジーナはまだ何が起こったのか理解できていないようだった。


「マリオ、おめえももっと食え。今日からガッツリ働いてもらうんだからな」

「……わかった、ボス」


 いまだに冷や汗が止まらないままに返事をすると、ルチアーノは嬉しそうに顔を歪めた。


「初めてだな」

「は?」

「今のが初めてだっつったんだ。おめえがおれをボスって呼んだのは」


 それで体の緊張がようやく緩んだのがわかった。

 そういえば、誰かを目上として見るのは初めてのことだ。自分より強い男に出会うのも初めてのことだ。

 マリオにはそれが思っていたよりも悪くないことのように思えたのだった。

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