第2話 ジーナ・ウルフルズ

 目を開けると、そこは鬱蒼とした森だった。


「おお、こりゃマジで異世界だわ……」

 

 こんな自然見たことがない。

 大人数人で手を広げても囲いきれそうにない太い幹の木々。その天辺は目がかすみそうなくらいはるか上にあり、豊かな枝葉を広げて日光を遮っている。周囲は薄暗く、鬱蒼とした藪の向こうは見通しが悪かった。

 マリオがいたのは木々と藪の中にある小さな泉だった。水は澄んでおり、中心にはきれいなピンク色の花が咲いていて、その上をハチに似た虫たちが飛んでいる。が、花も虫もマリオが見たことのない種類だった。


「こういう形の花の蜜、ガキの頃よく吸ったな」


 ピンクの花を摘んで、口をつけて蜜を吸ってみる。


「うっ……うまい! なんじゃこりゃ!」


 泉の水が澄んでいるからだろうか。その中心に咲く花の蜜は蜂蜜を思わせる甘さだった。


「でも、後味すっきり爽やか。やべーな、異世界。感動した。いくつか摘んでいくか」


 目の前をブンブン飛んでいるハチっぽいやつも、なんだかファンタジーというか、メルヘン的な感じで大変よい。


「ブンブンブン、ハチが飛ぶ……ってか」


 思わず口ずさんでしまう。


「お池の周りにお花が咲いたよ……って、あれ? なんかハチ増えてねえか?」


 さっきは数匹しかいなかったハチもどきたちが、いつの間にか蚊柱のような大群となっていた。おまけにバチバチとした攻撃音のようなものまで出している。


「……落ち着け。ハチはあれだ、黒いものに寄っていくはずだ。確認だ。おれが今着ている服の色は……」


 肌色。

 というか、全裸だった。

 裸一貫異世界ワープ。公務員さんの言葉が脳裏をよぎる。


「落ち着け……落ち着け……喧嘩は焦ったら負けだ。ゆっくりと後ずされば平気のはず……」


 数匹が警告するように、後ずさるマリオの黒髪の周りを飛ぶ。


「そうか、髪が黒いから寄ってくるんだな…ってことは、それ以外の部分は平気かもしれ――」


 一際大きなハチもどきが一匹、マリオの股間付近にゆっくりと近づいてきた。


「ア、アンダーヘアーか!」


 マリオは全裸でハチもどきの大群から逃げ出した。

 死に物狂いの逃走だった。マリオは警察も暴走族も、ヤクザだって怖くはなかった。死ぬことだって怖くはなかったし、実際死んだときも平然と落ち着いていた。

 だが、男の象徴を失うのは死ぬよりも怖いことだった。

 木々の間を抜け、藪の中を駆け抜けた。岩を乗り越え、崖を飛び降りた。

 今のマリオは、走れメロスよりも必死だった。メロスは親友のために走ったが、マリオはムスコのために走っている。親友は所詮他人だが、ムスコは一生共にあるべきものだった。全裸で走るという点では似ていたが、二人が賭けているものは重みが違った。


「ムスコよ、安心しろ! おまえはお父さんが必ず守ってやる!」


 マリオはためらいなく川へ飛び込み、まるで水泳選手のように鮮やかな泳ぎでそのまま対岸へと泳ぎきった。


「こ、ここまで来ればだいじょうぶだろ……」


 ハチもどきたちは川の向こうでウロウロとしていた。こちらへ渡ってくる様子はない。

 ほっと一息ついたマリオは川に頭を突っ込んで、ごくごくと水を飲んだ。


「あー、うまい! すごいうまい! さすが異世界!」


 生き返った気分になって、ふと川の上流を見ると一匹の見慣れぬ生物がいた。


「ゴブリン……?」


 ゲームで見かけるゴブリンそのままの姿だった。緑色の肌をしていて、頭部がやけに大きく、耳は尖っていた。身長が高いマリオの胸くらいまでの大きさがある。片手には血のついた棍棒を持っていたが、マリオが注目していたのはそんなところではなかった。

 ゴブリンは川に向かって腰を突き出し片手を添え、用を足していた。


「……ということは、おれが今飲んだ川の水は」


 あー、うまい! すごいうまい!

 

先ほどの自分の発言が頭の中でリフレインした。

 呆然とその場に立ち尽くすマリオだったが、ゴブリンがこちらをじっと見ていることにはっと気づいた。


「……ガン飛ばされてる?」


 魔物というものを見たのはもちろんこれが初めてだったが、数十メートル離れたところにいるゴブリンがこちらに飛ばす視線には覚えがあった。


「ヤンキーと一緒だわ」


 視線を返すこちらの前で唸り声を上げて威嚇してくるところも、日本でよく絡んできていた人種と同じだった。


「やっぱりあいつらは人間じゃなくて、魔物寄りの生き物だったのか」


 マリオは生前関わりの多かった人種について深く納得した。連中は同じ人間のはずなのになぜかいつも話が通じず、やたらに大声を出して人を威嚇したり、歯をむき出しにして襲いかかってきた。


「ということはこいつも……」


 こちらにゆっくりと近づいてきた大きなゴブリンは赤黒い歯茎が見えるほどに牙をむいた。両足で立って、棍棒を構えている。今やその威嚇の声は森に響き渡るまでになっていた。


「上等だコラ」


 マリオも流れるような動きでファイティングポーズをとった。堂々たる構えである。ついでに堂々たる全裸である。異世界に来ていきなりの魔物を前にしても、股間のムスコがいささかも縮んでいないところはさすがであった。


「オイコラテメエケンカウッテンノカ!」


 呪文を唱えるようなマリオの威嚇は、ゴブリンの声が蚊の鳴く音に思えるほどの、森の木々を揺るがすほどの大声だった。

 百戦錬磨の威嚇を食らって、ゴブリンは完全にビビっていた。ガクガクと震えている。だがやがて、人間ごときに負けてたまるか、というような勢いで襲いかかってきた。

 人間なら山ほどぶっ倒してきたマリオだが、初めての魔物の動きを読むのは困難だった。


「クソッ!」


 魔物の突進をサイドステップでかわそうとするが、予想以上の速さで振られた棍棒が胸をかすめる。拳を繰り出して反撃するが、跳ねるような動きでかわされてしまった。人間ならあり得ないはずのジャンプ力だった。

 こちらがその動きについていけなかったのを見抜いたのか、ゴブリンがにやりと笑った。ゴブリンはマリオの頭よりも高く跳ねて、棍棒の一撃を脳天に食らわせようとしてきた。

 マリオは慌ててバックステップでかわすが、ゴブリンはそれを読んでいたかのように着地してすぐに殺気のこもったニ撃目を放ってくる。マリオには避けられない動きだった。が……。


「ああ? ナメてんのかコラ!」


 マリオの野獣のようなガン飛ばしが再びゴブリンの動きを止めた。それは一瞬のことだったが、その隙をマリオはついた。

 逃げられないようゴブリンの首をガッと掴む。怯えるゴブリンの目が視界に映る。そして放つ必殺の一撃。


 カウ・ロイ。ムエタイでいう、首相撲からの膝蹴り。


 様々な喧嘩相手と戦う内にいつの間にか覚えてしまった技は、ゴブリンの頭を見事に打ち抜いた。岩をも砕くような衝撃がゴブリンの頭を突き抜け、脳を破壊し、その息の根を止めた。

 異世界からの死神によって命を刈り取られたゴブリンの死体は、悠々と流れる川のそばに横たわった。


「これが魔物との戦いか」


 奇妙な感覚だった。このゴブリンは自分よりも弱かったと思う。だが、格下の相手を倒した後に味わういつもの虚無感はなかった。むしろ、強大な敵と戦って勝利したかのような原始的な喜びがあった。


「こいつはおれを殺す気だった」


 魔物と戦うのはそういうことだと思った。弱肉強食の野生の世界に飛び込んで、命をかけて襲いかかってくる敵を倒す。人間の遺伝子に刻み込まれた狩りの本能が刺激されたような気分だった。このグロテスクな獲物の緑色の肉を食らいたいとさえ思った。

 人間との喧嘩では感じられない激しい感情が胸に沸き起こってきた。


「お……お、おおおおおおおおおお!」


 マリオは勝利の雄叫びを上げた。獅子のそれに似た雄々しく、誇りのこもった叫びだった。

 が、そこに割って入る声があった。


「だ、だいじょうぶですか!」


 さっと振り返ると、一人の少女がいた。

 金髪のポニーテールに、黒革のホットパンツと茶色の革のジャケット、インナーは白いボタンシャツ。ロングブーツを履いて、背中には大きなバッグを背負って腰には細身の剣を差している。

 顔はかわいい。かなりかわいい。すっと通った鼻と大きなブルーの瞳の整った顔立ちだが、それでいてキツさを感じさせない、きれいというよりかわいい系の顔である。ぶっちゃけマリオの好みどストライクである。スタイルも細すぎず、太すぎずで大変よい。ついでにぴっちりとしたホットパンツに包まれたお尻の形は大変良い。

 いつの間にこの川へとたどり着いたのか、金髪美少女は息を切らせながら、マリオの背後に立っていた。


「ゴブリンの叫び声と呪文のような大声が聞こえて、急いで来たんです! 

それでこっちに走って来たら、あなたがゴブリンと戦っていて……」


 剣をぶら下げているところを見ると、腕に覚えがあるのかもしれない。それで助けに来ようとしてくれたのだろう。だが、突然黙り込んだ金髪美少女の様子にマリオは首をかしげた。


「一つ聞きたいんだが」

「……はい」

「なんでこっちを見ようとしないんだ?」


 金髪美少女は頬を赤らめて、マリオから視線を逸らしていた。


「……逆に聞きたいんですけど、なんで全裸なんですか?」

「逆に聞くが、全裸じゃダメなのか?」


 マリオがずいっと歩み寄ると、金髪美少女はざっと後ずさった。


「逆に聞きますけど、なんで開き直ってるんですか? あと、こっちに近寄らないでください」

「逆に聞くが……ああ、もう面倒くせえ。いいだろうが、全裸でも。見ろ、この肉体を!」


 マリオは腕を組んで仁王立ちになった。


「この筋肉! 数々の敵と戦った勲章である傷跡! そして、魔物との戦いに臨んでも、ビビることのない自慢のこのムスコ! おれには何一つ恥じるところがない。それに比べて、あんたはどうだ?」


 マリオが指さすと、金髪美少女はビクッと身をすくめた。


「いや、わからんな……なぜ服を着ている? なぜありのままの自分を誇らない? そんなに恥ずかしい体をしているのか?」

「そんなことありません! むしろ、結構男を惑わす魅惑ボディをしているはず……って、何言わせるんですか! 早くこれで隠してください!」


 金髪美少女はバッグから毛布を取り出して、こちらに放り投げてきた。マリオとしても、そろそろ全裸でいるのは飽きてきたので、ありがたく受け取ることにする。


「……もういいですか?」


 金髪美少女は毛布をマリオに渡すと、もうこれ以上は見たくないというように背を向けていた。


「ああ、いいぞ」


 金髪美少女はくるりとこちらに向き直った。


「っ! そうじゃなくて! そういう風にマントみたいに羽織るんじゃなくて! ちゃんと大事なところを隠してください!」


 全裸スーパーマンスタイルはお気に召さなかったらしい。


「これじゃダメか?」


 金髪美少女は剣の柄に手をかけた。


「……切り落としますよ?」

「わかった。わかったからやめろ」


 マリオが毛布を腰巻風に装備すると、風呂上がりのような格好になった。


「まあ、ひとまずはそれでいいでしょう。やっとまともにお話ができます」

「上半身は裸なのにか。かわいい顔して、結構淫らな生活を送ってんだな」

「もう話をするの面倒なので、切り落としていいですか?」

「ごめんなさい」


 金髪美少女はふっとため息をついた。それから気合いを入れるかのように、視線にぐっと力を込めてこちらを見てきた。


「私は冒険者ギルド《狼の血族 《ウルヴズ・ファミリー》》のジーナ・ウルフルズといいます。この辺りはうちのギルドの縄張りです」


 ジーナと名乗った少女は視線を強めた。


「あなたはここで何をやっていたんですか? ろくな装備も持たず……というか、全裸だったので、シマ荒らしだとは思っていませんが、それでもあなたにはこちらの質問に答えてもらいます」

「……シマ荒らし?」

「シマ荒らしの意味がわかってないんですか? ということは、冒険者じゃない……?」


 いや、意味はもちろんわかっている。喧嘩を売ったり金を得る目的で相手組織のテリトリー、つまりシマを侵害することだ。だが、マリオの知っているシマ荒らしは業界用語である。組織というのもこの場合、犯罪組織のことを指すはずだ。でも、ゲームとかお話に出てくる冒険者ギルドは獲物の取り合いをすることはあっても、シマ荒らしなんて物騒な言葉は使わなかった。


「もしかして冒険者とトラブって拉致られて、スマキにでもされて森の中に置き去りにされたんですか? だとしたら、そんな野郎共は冒険者の風上にも置けません。脅されているでしょうが、どうぞ話してみてください。《狼の血族》はカタギには手出ししないギルドです。あなたにこんなことした連中にナシつけてやります」


「えっ?」


 白人美少女にしか見えないジーナからポンポンと威勢よく飛び出してきた業界用語の数々に、マリオは目を丸くした。


「あっ、えーと、失礼しました。ちょっとわかりにくかったですかね」


 ジーナは恥ずかしそうに笑った。


「いや、わかる」


 わかってしまうのが悲しいが、日本ではこれらの単語に馴染み深い不良生活を送っていた。


「私自身は《狼の血族》の正式な構成員ではないんですが、私の父がファミリーのボス、つまりギルドマスターを務めています」

「はあ……」

「何か事情がおありなんですよね? 任せてください。お父さんに話してみたら、きっと力になってくれるはずです。さ、そうと決まれば、早速出発しましょう! お昼までには森を出られますよ!」


 よくわからないが、何やら勘違いされているらしい。が、お目当ての冒険者ギルドに案内してくれるということなので、そのまま黙ってうなずいた。

川沿いに森を下っていくジーナの後を歩きながら、ふと思いついたことがあって、マリオは空を見上げた。

 太陽は日本で見上げるものと変わらなかった。その位置は低い。ジーナの言葉に従えばまだ昼前ということだから、太陽の運行も地球と変わらないのかもしれない。

 だが、反対の空には大きな月がくっきりと、日本ではあり得ないほどの大きさで浮かんでいた。


「異世界で冒険者ギルドか……」


 こうして、マリオこと、大神真理央の異世界生活がスタートしたのだった。

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