鞄(かばん)

執行 太樹

 




 あれは、私が高校生の時だった。


 同じクラスに、Sという生徒がいた。入学式の日、少し緊張気味の私にSは話しかけてきた。教室では、Sの席が私の前だった。

 Sは、活発な性格だった。Sは、決して真面目という生徒ではなかった。授業中は、周りの生徒とお喋りをするか、寝ているかしかなかった。先生に注意されても、なかなか言うことを聞かなかった。

 Sは、いつも鞄を持っていなかった。1本のシャーペンと小さく欠けた消しゴムだけをポケットに入れて、登校していた。実際、そのシャーペンや消しゴムを使っているところを見たことはなかった。

 Sと私は、気が合った。学校では、よく遊んだ。授業中、先生の目を盗んでふざけ合ったり、休み時間に校外に出て授業をサボったり、放課後に街に繰り出したり・・・・・・。先生や親には迷惑をかけてしまっていたが、それでもSと遊んでいるときは、本当に楽しかった。

 しかし、そんな楽しい時間も、長くは続かなかった。2年生になり、Sとまた同じクラスになったが、Sは少しずつ学校を休みがちになった。学校に登校し教室に入っても、Sの姿を見かけることは減っていった。

 最近よく休むようになったけど、どうしたんだ。ある日、Sが登校していた日に、私はそう話しかけた時があった。Sは、ちょっと色々家が忙しくてと、ただそれだけ応えた。私は、そうかと応え、それ以上は聞かなかった。

 初めは1週間に1、2日休んでいたSだったが、日に日に欠席が増えていった。1学期が終わる頃には、1週間の半分以上を休むようになっていた。私は、心配だった。もともと学校が好きではなさそうだったSだが、ここまで休むのには、なにか理由があるに違いない。そう思った。しかし、それを確認することのないまま、Sは、とうとう学校に来なくなってしまった。そして、学校は夏休みに入った。

 

 夏休みのある日の夕方、偶然商店街で、自転車に乗ったSを見かけた。Sは自転車にまたがりながら、小さな鞄屋の前に立っていた。つなぎの作業服姿で、ショーウィンドウから見える様々な鞄を眺めていた。

「久しぶりじゃないか。学校を休んで、何してたんだ」

 私はSにそう話しかけた。Sは私の存在に気づき、笑顔でこう応えた。

「何って、見たら分かるだろ。仕事してるんだよ」

 私は、Sのあまりにも平然とした様子に、呆気にとられた。Sは知り合いの建築業者の手伝いをしていたため、学校を休んでいたようであった。いつもの服装と違っていたが、SがSのままだったことに、少し安心した。

「今、時間はあるか。ちょっと、話でもしないか」

 私はそう声をかけた。Sと、話をしたかった。何となく、そう思った。


 私とSは、近くの河川敷に向かった。高校1年生の時に、よく遊んだ場所だった。

 Sは自転車を脇に止め、川の側まで下りていった。そして、落ちていた小石を川に投げた。私はそんなSを、土手に座って遠くを眺めていた。

「仕事してるって、どうして言ってくれなかったんだよ」

 私は、思っていることを、率直にSに尋ねた。

「だって・・・・・・、恥ずかしいだろ。働いていて、学校に行けないなんて。学校にも内緒にしてたしな」

 Sは、少し気まずそうに応えた。

「なんで働くことになったんだ」

 私は続けて、Sにそう聞いた。そして、聞いた後にすぐ、聞いてはいけないことかも知れないと思った。私は、興味本位で口にしてしまったことを後悔した。Sは少し沈黙していた。そして、つぶやくように応えた。

「親父がギャンブルをやめられなくてさ。代わりに俺が働いてるんだ」

 Sはもう一度、川に小石を投げた。小石は川面にいくつも波紋を作り、そして消えた。

 そうだったのか、知らなかった。Sが、こんなに大変な環境で生きていたなんて。学校で、いたずらばかりしていた時、Sの家庭のことなど、話題にしたことがなかった。

 Sは、私の家族のことを聞いてきた。私は、家族のことをそのままSに伝えた。Sは、ただ黙ったまま、私の話を最後まで聞いていた。

「そうか、それが普通なのかも知れないな。俺、知らなかったな・・・・・・」

 Sは、手に持った小石を眺めていた。

「小さい頃から、周りの友達と話をしていて、何か違うなって思ってたんだ。でも、どうすることもできないって思ってた。俺は俺だし、周りは周りなんだって・・・・・・。そう自分に言い聞かしてたんだ」

 Sは小石を手から離した。小石は地面に落ち、転がった。Sは、おもむろに私の方に振り向いた。

「おれ、わからないんだ・・・・・・。普通ってなにか、教えてくれよ」

 Sの表情は、薄暗くなった空に溶け込んで、よく見えなかった。私は何も答えられなかった。

 私たちは、河川敷を後にした。学校、来いよな・・・・・・。私は、別れ際に、Sにそう声をかけた。本心だった。Sは自転車にまたがり、行けたら行くよ、と手を上げて私の言葉に応えた。

 しかしSは、それからも学校に来ることはなかった。そして私が3年生に上がってすぐ、Sは高校を退学した。Sの家を訪ねると、Sは引っ越していた。


 あれから3年たった。私は高校を卒業し、大学に進学した。大学で、新しい友達もできた。今は、教師になるための勉強をしている。勉強に追われてはいたが、自分のしたいことができている。

 もうすぐ冬休みを迎える大学の帰り、私は夕焼けの商店街を歩いていた。そして、小さな鞄屋さんの前を通りかかった。私はふと足を止め、鞄屋さんの方を見た。明るいオレンジの暖色に照らされた、様々な鞄が見えた。少しの間、私はショーウィンドウを眺めていた。そして私は、思い出したように再び歩き出した。

 私は、河川敷に来た。遠くの対岸に、街の光が見える。ここの景色は、何も変わっていなかった。時折吹く冷たい風が、川を駆け抜けていた。

 川沿いに立った時、この河川敷でSと話し合ったことを思い出した。

 それが普通なのかも知れないな。俺、知らなかったな・・・・・・。

 私は、地面に落ちていた小石を1つ拾った。Sにとって、高校時代はどんなものだったのだろうか。自分の人生を、どのように感じていたのだろうか。

「普通ってなにか、教えてくれよ、か・・・・・・」

 あの時、Sはどんな顔をしていたのだろうか。何を思っていたのだろうか。今となっては、知るすべはもう無い。

 私は手に持った小石を、力いっぱい川の方へ投げた。小石は大きな音を立て、川面に1つ、波紋を広げた。そして、静かに消えた。

 普通なんて、俺にもわからねぇよ・・・・・・。私のつぶやいた声は、薄暗くなっていく空に吸い込まれていった。

 急に強い風が吹いた。私は、対岸の灯りを眺めながら、心のなかでそっと涙を流した。




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