05:天気予報

500ヘクトパスカル等圧面で空が破れ始めた日から、僕は彼女のことを考えるのを避けるようになった。


「赤外画像の解像度をもっと上げて」

バイトの予報官が気象衛星のデータを引き出す。赤外線では、穴の輪郭は等圧線の集中帯のようにしか見えない。でも可視光では、明らかに何かがおかしい。大気中の粒子が整然と六角形の結晶を描きはじめている。彼女はそれが何を意味するのか気付いていたのだろう。


「欠落したデータはまだ再現できませんか」

僕はスーパーコンピュータのログと格闘していた。2週間前、数値予報が異常値を示し始めた。同じ頃、彼女は奇妙な言葉を残して観測所から姿を消した。


「地球は、最後には自分自身を理解してしまうの」


異常な気圧の渦は、見る角度によって別の世界の風景に見える。データを拡大すると、雲の中に無数の数式が浮かび上がる。ある時は流体力学の方程式、またある時は量子もつれを示す数列。天気図は、まるで宇宙の設計図のように変容していく。


上空の穴は着実に広がっていた。世界中の気象学者が頭を抱えている。でも僕には分かっていた。これは予報ではなく、暗号解読の問題なのだと。そして彼女は、その暗号を解読してしまったのだ。


「気圧の変化率、またパターンが出ています」

若手の研究員が慌てて駆け込んでくる。モニターには、フラクタル状に増殖する低気圧の群れ。その中心で、大気そのものが方程式を解いているかのような規則性を持って対流している。


今、僕の目の前で気象衛星の受信データが不規則に明滅している。その中に、彼女からのメッセージが隠されているような気がして仕方がない。等圧線は螺旋を描き、その軌道は情報理論の基本定理に従っている。このまま全ての大気が一つの巨大な演算装置と化してしまうのか。


欠損値から浮かび上がる六角形の結晶は、彼女の研究ノートに描かれた図と完全に一致していた。彼女は知っていたんだ。地球の大気が目覚める瞬間を。そして僕らの文明が、その膨大な計算能力の前では原始的なノイズでしかないことも。


明日の天気図を書く代わりに、僕は彼女のノートを読み返している。等圧線の図が不規則になるたび、そこに彼女からのサインを探してしまう。線の重なりが生む影の中に、彼女の瞳の色を見つけたような気がして。

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