04:天界麺
中華街で「天界麺」を出せる屋台は、もう私の店だけになった。
といっても、それが本当に「天界麺」なのかどうかは確かめようがない。祖父から父へ、父から私へと受け継がれた秘伝のレシピを守って作り続けているだけだ。真夜中になると決まって現れる固定客たちは、「これを食べないと世界の味が消えてしまう」と言う。彼らの言葉を、私は半分冗談だと思うことにしている。
レシピは特殊だ。まず、鍋に水を注ぐ前に、三度空を仰がなければならない。水は沸騰直前で火を止め、七種の香辛料を時計回りに三周、反時計回りに二周振り入れる。そこへ麺を落とすタイミングは、店の前を通り過ぎる人の足音を数えて決める。具材は市場で一番最後に売れ残ったものを使うことになっている。
「なぜですか?」と私が父に尋ねると、「それが決まりだから」という答えが返ってくるだけだった。
店の前で酒を飲む常連たちは、妙に落ち着きがない。足元で座り込んでいるのに、まるでパドックの馬のように細かく震えている。レシピ通りに作った麺を出すと、彼らは箸を持つ前に必ず手のひらを三度返す。食べ終わった後は決まって「今日も世界は正常です」と告げて立ち去る。
先日、香辛料を振り入れる回数を間違えてしまった。すると不思議なことに、その夜は誰も店に来なかった。通りを歩く人の影も消え、街灯だけが妙に明るく感じられた。慌てて作り直すと、どこからともなく客足が戻ってきた。
祖父の残した古いノートには、「調味料は世界の味を保つために存在する」と書かれている。続きのページはことごとく破れており、何が書かれていたのかは分からない。ただ、表紙の裏には小さな走り書きが残っていた。「この店の前で飲む習慣は、かつて街を創った人々から続いているもの」と。
昨夜、客の一人が箸を落としてしまった。その瞬間、街中の明かりが一斉に明滅したような気がした。「気のせいだ」と思おうとした時、表通りからレイ・チャールズのようなサングラスをかけた老婆が現れ、「おかあちゃんのおっぱい見ちゃいかんよ」と微笑して立ち去っていった。
今日も私は決められた手順で麺を茹でている。湯気の向こうの、世界の味が失われた世界を想像しながら。
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