03:空を支える仕事
人々は空が落ちないよう、毎日それを支え続けている。
なぜ空が落ちるのか、あるいはそもそも本当に落ちる可能性があるのかさえ、誰も確かめたことはない。ただ、人類は古来よりそれを信じ、恐れ、そして支え続けてきた。
その仕事を担うのは「天衡師」と呼ばれる人々だ。彼らの体内には「天衡器」という特殊な分子機械が埋め込まれている。拳の大きさほどの装置は、第二頸椎から第七頸椎の間に取り付けられ、脊髄神経と直接接続している。装置を介して空からの信号を受信し、また人体からの反応を返すことで、空は支えられ続けているとされる。
管制塔と呼ばれる施設の窓からは、雲が悠々と流れ、鳥たちが自由に飛び交う様子が見える。時折、高層ビルの建設現場から天衡師たちに問い合わせが入る。「この高さまで建てても大丈夫でしょうか」と。その度に天衡師たちは真剣な面持ちで波形を確認し、慎重に検討を重ねる。誰も、その質問の妥当性自体を疑おうとはしない。
共鳴作業には三つの段階がある。初期調整では、天衡師は管制塔の専用チェアに座り、背筋を伸ばし、呼吸を整える。やがて体内の天衡器が起動し、背骨から四肢へと細かな振動が広がっていく。その振動は徐々に強まり、ついには全身の筋肉が微細に震え始める。これを「同調」と呼ぶ。同調には個人差があり、早い者で10分、遅い者では1時間を要する。その間、窓の外では蝶が羽を休め、猫が屋根の上で昼寝をしている。
定常維持は、天衡師の主たる業務だ。同調を終えた天衡師は、天衡器を通じて空からの信号を常に受信し続ける。その信号は特殊な波形としてモニターに表示され、天衡師はその波形を一定の範囲内に保つよう、体の緊張度や呼吸を微調整する。8時間の定常維持を終えた天衡師の多くは、強い疲労を訴える。しかし、その疲労が空を支えた証なのか、単なる精神的な緊張の結果なのか、誰にも分からない。
最も困難を極めるのが緊急対応だ。突発的な空の揺らぎが観測された際、天衡師は通常の数倍の強度で共鳴を行い、その乱れを抑え込まなければならない。この技術の習得には10年以上の経験を要するとされ、現在その技能を持つ者は全体の2割にも満たない。ただし、これまで緊急対応が実際に空を救った証拠は、どこにも記録されていない。
管制塔の壁には、作業手順を記したポスターが隙間なく貼られ、その多くは経年で色褪せている。ポスターの端が剥がれても、天衡師たちは決してそれを捨てない。新しいものと交換することもない。それらの紙片には、先人たちの手書きのメモが残されており、時として命を守る重要な指示となるためだ。しかし、その指示が本当に効果を持つのか、それとも単なる心理的な安心材料なのか、検証しようとする者はいない。
近年、天衡器の製造技術が失われつつあることが、深刻な問題となっている。残された装置を修理・改良しながら使い続けているが、その数は年々減少している。一方で、ベテランの天衡師の中には、天衡器の機能が低下しても、なお正確に空の状態を把握できる者が現れ始めた。彼らの多くは、壁に貼られた古いポスターの記述に着目している。そこには天衡器の使用法ではなく、人体の在り方についての詳細な記述が残されているためだ。
もしかしたら、人類は初めから何も支えていなかったのかもしれない。あるいは、支える必要などなかったのかもしれない。だが、その可能性を口にする者は誰もいない。
今日も管制塔では、天衡師たちが黙々と作業を続けている。モニターには規則正しい波形が表示され、空は静かに、そして当然のように彼らの上に広がっている。丁度その時、一羽の鳥が窓の前を横切っていった。
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