02:模倣する釘
最初の発見は、深夜の実験室の片隅でなされた。徹夜続きの技術者が、測定器の異常な数値にため息をつきながら、モニターの電源を切ろうとした。その時、目の前の釘が変形していく様子を目撃した。ゆっくりと、だが確実に、となりに置かれた釘と同じ形になっていく。技術者は三度目の徹夜で幻覚を見ているのだと思い、こめかみをつねった。痛かった。幻覚ではない。慌てて上司に連絡を入れた。
電話を受けた上司の態度は冷ややかだった。「そろそろ帰って寝たほうがいい」。しかし実験室に駆けつけた上司の表情は、三十秒で豹変した。測定器の数値は狂っておらず、ビデオカメラは全てを記録していた。釘は確かに、隣の釘を模倣していたのだ。
現象は倉庫全体に広がるのに、わずか三日しかかからなかった。工場長は真っ青な顔で在庫調査を命じた。十万本の釘が、次々と形状を変えていく。品質管理部の主任は、突然爆笑しながら叫んだ。「これじゃ規格品として出荷できないじゃない!」彼女は笑いすぎて倒れ、三日間の休暇を取ることになった。
しかし、これは始まりに過ぎなかった。釘たちは建材の模倣にとどまらなくなった。コンクリートに打ち込まれた釘は、コンクリートの結晶構造を真似始めた。建築現場の職人は、打ち込んだ釘が勝手にコンクリート化していく様子を呆然と眺めた。「俺、もう酒やめるわ」と彼は独り言を言った。禁酒を決意した職人は、その後地域の防災リーダーとして活躍することになる。
神社の屋根の釘群は、雨の日に突如として集団で配列を変え始めた。老宮司は「ご神体のお導きだ」と喜んだが、実は釘が雨滴の落下パターンを模倣していただけだった。しかし参拝客は増え、神社の賽銭箱は潤った。老宮司は悠々自適な老後を過ごせることになった。
橋の補強に使われた釘は、交通振動を模倣して新しい構造を作り出した。土木学会は緊急会議を開いたが、結論として「この構造の方が従来より強度が高い」という驚くべき事実が判明した。橋の設計基準は世界的に見直され、複数の技術者が「模倣釘構造理論」でノーベル賞を受賞した。受賞者の一人は記者会見で「釘には感謝してもしきれない」と涙を流した。
廃墟の釘は建物の崩壊を予測し始めた。不動産鑑定士たちは、釘の形状変化から建物の寿命を計算できるようになった。ある鑑定士は「釘の気持ちになれば、建物の未来が手に取るようにわかる」と豪語した。
時間の模倣が始まったのは、ある雨の金曜日だった。古い釘が錆を巻き戻し始め、未使用の釘が突如として百年前の古釘と同じ錆び方をする。考古学者たちは大喜びで、「釘の年代測定なんて必要なくなった。釘に聞けばいい」と宣言した。しかし彼らの喜びも束の間、釘は次第に時間軸を無視し始めた。未来の錆び方をする釘が現れ、考古学者たちは頭を抱えた。
そして事態は思わぬ方向へ進んだ。世界中の釘が、突如として意識を模倣し始めたのだ。考える釘、感じる釘、夢見る釘。当初は大パニックになった。研究施設からは悲鳴が聞こえ、記者会見場からは怒号が響いた。各国首脳による緊急会議も開かれたが、結局のところ、誰も釘を止めることはできなかった。
しかし人類は意外と早く、この事態に慣れていった。結局のところ、釘は相変わらず釘としての仕事はきちんとこなしていたからだ。机は机として保たれ、建物は建物として建っている。ただ、時々奇妙なことは起きる。突然、家具の釘が全て天井を向いて打ち直されていたり、橋の釘が無数の小さな模様を刻み始めたり。でも、そういうことも、まあ、釘のすることだから、と誰もが肩をすくめるようになった。
この報告書を書いている机の釘も、もう何を考えているのかわからない。たぶん宇宙のことを模倣しているのか、芸術を模倣しているのか。正直なところ、もう調べる気にもならない。釘はそういうものだ、と。
科学技術振興機構の報告書の末尾には、諦めにも似た一文が記されている。「本報告書の綴じに使用された釘の正確な数は不明。数えるたびに変わる。まあ、それはそれとして、とりあえず報告書としては成立している」
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