愉快痛快

小狸

短編

「書けるわけねえだろ」


 僕は筆を投げた。正確には、キーボードでの打鍵を止め、途中まで書いていた小説のファイルを上書き保存して閉じた。上書き保存する理性が残っていただけ、ありがたいと思う。


 契機きっかけは、友人からの言葉だった。


 彼は、定期的にネット上に短編を公開している僕のことを知っている、唯一の友人である。


「なんでそんな陰鬱な私小説ばっかり書いているの?」


「もっと楽しくてさ」


「幸せな話が読みたいな」


 いやいや、僕だって敢えて陰鬱な私小説を書いている訳では無いのだ別段小説は僕の人生の鏡面反射ではないだからこそそんなこと言われて書けないなどということなどないのだ――と、証明しようとして。


 結果として。


 僕は、書くことができなかった。


 楽しい話も。


 幸せな話も。


 いやいやいやいやいやいやいや。


 これでも小説を書くにあたって、色々様々多種多様な物語を読んできたつもりだ。今までもこれからも、読み続けるつもりではある。そんな中で、読了してきた作品の中には読後感として「楽しい」「幸せになる」作品というのも、十二分に存在していた。僕の中にその欠片はまだ残っているのである。

 

 しかし、書けなかった。


 楽しげにしようと努力することはできる。幸せにしようと邁進することはできる。しかしそれは意図的なものだ。作者の意図が介在して、読者に見え透いてしまうのだ。


 そして僕はスランプ状態に陥っていた。


 それほどのことか? と思うかもしれないけれど、僕にとっては、重大な瑕疵である。


 だって、僕には楽しいという気持ちも、幸せという思いも、分からないから。


 よく巷間で囁かれている「作者の考え以上の作品はできない」という言葉が、まさしく当てはまっていた。


 僕は――まあここで過去を開示するのは吝かではあるのでしないが――まあ酷い人生を歩んできた。


 幸せなことなんて、一つもなかった。


 いや、違う。


 幸せなことは、全部僕から逃げて行った。


 掴んだと思ったら、それらは全て手からすり抜けていった。


 畢竟、何一つ残るものはなかった。


 そんな僕が、楽しいや幸せを題材、あるいは主題として物語を作ることなど、はなから不可能なのである。


 友人はこうも言っていた。


「身近な幸せについて、書いてみれば良いんじゃないかな。今日良かったことを手帳の隅にメモするとか」


 なるほど、と納得すると同時に、僕はその言葉をメモした。その日から、手帳の隅には、良かったことを書き続ける習慣は続けている。


 でも、駄目なのだ。


 いざ物語を書こうとすると、幸せや楽しいとは程遠いものになってしまう。


 そもそも、世の中に幸せや楽しい、なんてものが存在するのか、と――僕は懐疑的な方の人間である。


 幸せだと思ったことは、誰かから与えられたもので。


 楽しいと思ったことは、何かの偶然で得たもので。


 結局自分の力で幸せを実感したことなど、ないのである。


 ふと世の中を見渡してみれば、圧倒的に幸せより不幸の方が多いではないか。


 ネット上なんてその最たる例だ。


 毎日仕事に行きたくない、旦那死ね、から始まり、誰々の誹謗中傷、終わることのない罵詈雑言のリプライ欄、地獄の様相を呈するネットニュースのコメント欄、悪口、讒謗は一生なくなることはない。


 僕の人生も、こんな感じだった。


 母の口癖は「不幸だわ」であった。


 そうか、僕らは不幸なんだなと思った。

 

 こんなものの中にどうやって幸せを見出せば良いのか、という話である。


 手を差し伸べてくれなかった身近な人は、死んだ後に当たり前のように「あの時助けていれば」なんて台詞を口にする。どうせそんな気もなかったくせに。


 人生はクソで、社会はゴミで、生きることは苦痛。


 骨の髄までそう教えてくれたのは、僕の周囲の大人である。


 そして今でも、介護という面で僕ら兄弟を苦しめている。


 生き地獄である。


 ああ、うん。


 そうだな。

 

 きっと僕には、小説家は、向いていなかったのだ。


 僕は、友人に連絡を返した。


「不快にさせてごめん、もう書くのやめるわ」


 そのままLINEのアプリごと削除して、布団にもぐった。


 もうどうでも良かった。




(「愉快痛快」――了)

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