第32話
『カフェ・ド・アルエット』の店内では、ソファ席で真美がうたた寝をしていた。
苦笑を浮かべる真理がブランケットを取り出し、真美にかぶせる。
「どうしてこの子は、お店にいたがるのかしら。
眠たいなら部屋で眠ればいいのに」
カウンター席で美代子が応える。
「ここだと甘いものが飲み放題食べ放題ですからね。
子供にとって、魅力的なんですよ」
カウンターの中でコーヒーを飲む拓海がクスリと笑った。
「赤ん坊の頃からいる店だから、気分が落ち着くんだろう」
真理が店内を見回して告げる。
「ここも年季が入ってきたわね」
拓海も天井を見上げながら応える。
「親父の代から続く店だしね。
そろそろ、改装工事をした方がいいのかも」
美代子が不満げに声を上げる。
「えー、これがいいんじゃないですか。
レトロでシック、これぞ『喫茶店』って感じですよ」
真理が真美の頭を優しく撫でながら告げる。
「この子の思い出もあるし、なるだけ現状を維持してあげたいわね」
拓海が小さく息をついた。
「そうか、じゃあ補修工事程度に抑えておくかな。
今度オーナーに相談してみよう」
真理がカウンター席に戻り、愛し気にお腹をさすっていた。
美代子が真理に尋ねる。
「順調ですか?」
「そうね、もうじき四か月よ。
今度は男の子かしら、女の子かしら」
拓海が嬉しそうに告げる。
「真美もお姉さんか。
お姉さんらしくなると良いんだけどね」
「どうかしら?
あの子も甘えん坊だから」
美代子がコーヒーを片手に真理を眺めた。
「このビルで三人目の子供ですね。
――綾女さんの子供、いつ頃でしたっけ?」
「春頃だったはずよ?
タイミングが合えば、この子と同学年ね」
カランコロンとドアベルが鳴り、優美が顔を出した。
「真美はおるかな? ――なんじゃ、寝とるのか。
拓海、ブレンドとチーズケーキじゃ」
「はいはい」
優美は真っ直ぐ真美の元へ向かい、枕元へ腰を下ろした。
そのまま愛おしそうに真美の頭を撫で、優しく微笑んでいた。
美代子はその光景を眺めながら、コーヒーを味わっていく。
――幸せって、身近にあるんだなぁ。
コーヒーが香る、穏やかな空間。
美代子はモダンジャズの音色に身を任せながら、ゆったりとした時間を味わっていた。
****
カランコロンとドアベルが鳴り、優美が姿を見せる。
「拓海――は、おらんのか。
どこに行ったんじゃ?」
カウンターの中の美代子が、優美に応える。
「真理さんが産気づいて、付き添いで病院に行きましたよ」
優美があきれたような声で告げる。
「すぐに生まれる訳でもあるまいに、せっかちじゃのう。
――美代子、ブレンドとモンブランじゃ」
「はーい、ちょっと待ってくださいね」
美代子がケトルでお湯を沸かし、コーヒーを淹れていく。
その姿をカウンター席で眺めながら、優美が告げる。
「おんしがここに来て、何年経ったかのう?
随分と様になっとるではないか」
「んー、真美ちゃんが生まれる前からですから、そろそろ八年ですかね?
私もすっかりおばちゃんになっちゃいました」
優美がクスリと笑った。
「何を言うとるか。今年でいくつじゃ?」
「三十を超えたら、もう何歳でもいいじゃないですか」
「まだまだ若いじゃろうに。
おんしは恋愛をせんのか?」
「私は恋愛至上主義じゃないので。
独身で終わっても、別に構いませんよ。
――はい、ブレンドお待ちどうさま」
美代子が優美の前にカップを置いた。
厨房の冷蔵庫からモンブランを取り出し、トレーで運んでくる。
優美はフォークで美味しそうにモンブランを味わいながら、コーヒーを一口飲んだ。
「やはり、特別な日には特別な味じゃな。
美代子が来てくれて、拓海も随分と助かっとるはずじゃ。
おんしは良い買い物じゃった」
美代子がクスリと笑って応える。
「買い物だったんですか?」
「そうじゃよ? 投資じゃ。
金と労力を惜しまなければ、こうして良い体験が待っておる。
それで迷うた人間を救えるなら、それに越したこともあるまい」
「それがオーナーの趣味、でしたっけ」
「そう、趣味じゃ」
二人がクスリと笑いあう中、勢いよくドアベルが鳴らされた。
「おかあさん、ただいまー!
――あれ? お父さんとお母さんは?」
賑やかになった店内に真美の歓喜の声が響いた。
三人はやがて生まれてくる命を待ち遠しく思いながら、明るい未来を語り合っていった。
****
穏やかなモダンジャズとコーヒーが香る店内。
拓海はカウンターキッチンでカップを磨き、美代子はカウンター席でスマホを眺めている。
真理は店内を歩きながら、第二子の圭太をあやしていた。
勢いよくドアベルを鳴らし、元気な声が飛び込んでくる。
「ただいま! 圭太は?!
――圭太! お姉ちゃんだよ!」
真美が真理の元に駆け寄り、圭太を覗き込む。
「真美、先に宿題を片づけなさい」
「はーい」
すごすごとカウンター席によじ登る真美に、美代子が告げる。
「今日は何を食べる?」
「んー、エッグタルト!」
美代子がニコリと微笑んで、厨房に向かう。
拓海が何も言わずにココアを作っていき、カウンターに置いた。
真美はココアを一口飲んだ後、ランドセルから教科書やノート、筆記用具を取り出していく。
美代子がカウンターに置かれたものを脇によけ、エッグタルトを真美の前に置いた。
「頭に甘いものを充電してから宿題をしたら?」
「もちろんだよ!」
パクパクと美味しそうにエッグタルトを食べていく真美を、美代子が優しく眺める。
「どう? 美味しい?」
「うん! これ、美代子さんが作ったんでしょ?
お父さんのと少し味が違う!」
驚いた顔で美代子が真美を見た。
「あら、わかるの?」
「わかるよ、これぐらい!」
美代子が苦笑を浮かべて拓海を見た。
「――ですって。合格をもらったはずなのに、子供には勝てませんね」
拓海は得意げに応える。
「真美は舌が肥えてるからね。
そこら辺の調理師より、味にうるさいんじゃないかな」
「うわぁ、親馬鹿」
拓海が軽妙な笑い声をあげ、自分のコーヒーを口にした。
真理はそんな三人を、幸せそうな微笑みで見つめて居る。
子供が慈しまれる環境は、何物にも代えがたい。
今ここにある幸せを、真理は噛み締めていた。
****
夏になり、小学校が夏休みに入った。
拓海の提案で、いつものメンバーが海に向かって出発する。
子供が増えたので、二台の車に別れて湘南に向かった。
一台目は直也と綾女、その子供の健太郎の車。
真理や拓海、真美や圭太、それに瞳と厚樹の車だ。
今回は優美も参加し、子守りで活躍していた。
綾女たちの車に乗りこみ、綾女と一緒に健太郎をあやしていく。
「海に行くのも久しぶりじゃのう」
綾女が健太郎を見つめながら尋ねる。
「いつ以来なんですか?」
「そうさなぁ……百年以上は行っておらん」
直也が楽しそうに笑い声をあげた。
「オーナーはスケールが違うな!」
拓海が運転する車では、真理が瞳や厚樹に尋ねていた。
「二人は一緒に暮らしてるんだよね?
いつ結婚するの?」
瞳と厚樹が顔を見合わせ、フッと笑った。
瞳が真美に告げる。
「私たちは、ただのルームパートナーだから」
厚樹も優しい笑顔で告げる。
「恋人同士って訳じゃないんだ」
「ふーん? 家族じゃないのに、一緒に暮らすの?」
真理が穏やかな声で告げる。
「色々あるのよ、大人の世界は」
小首をかしげる真美を囲んで、車内が笑い声で包まれた。
真美が初めて体験する海。
真理たちが乗る車は、真っ直ぐ江の島を目指した。
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