第31話

 静かなモダンジャズが流れる中、店内で真理が赤ん坊をあやしていた。


 胸に抱いた子供を愛おしげに見つめて居る。


 拓海も業務を忘れたかのように、隣で子供を見守っていた。


 そんな二人をカウンター席から見ていた美代子が、あきれながら告げる。


「マスター、そんなに見つめてたら子供に穴が開きますよ?」


「仕方ないじゃないか。

 今この一瞬が愛おしいんだから。

 ――ほら真美、パパだよー」


 不明瞭な言葉で応える真美に、とろけそうな笑顔を拓海は返した。


 真理が小さく息をついて告げる。


「言葉を話すのは、もう少し後よ?」


「わかってるさ。

 それでも声を聞かせるのは、無駄じゃないだろう?」


「もう、しょうがない人ね。

 ――真美、私がママだからね。

 最初に『ママ』って呼ぶのよ?」


 変なところで張り合っている真理と拓海の姿に、思わず美代子は苦笑した。


 これはこれで、幸せの形なのだろう。


 美代子はカウンターに入りながら、二人に告げる。


「ブレンド淹れますけど、飲みますか?

 真理さんは煎茶ですよね」


 拓海が「ああ、頼むよ」と真美を見つめたまま応えた。


 美代子は困ったような笑みで息をつき、ケトルでお湯を沸かす。


 ――あの親子の役に立ててるなら、それもいいか。


 自分の役割を自覚し始めた美代子は、丁寧にコーヒーを淹れ始めた。





****


 午後になり、ドアベルを鳴らして優美が姿を見せた。


「――どれ、儂の真美はどこじゃ?」


 テーブル席で座っている真理の元へ、優美は一直線に向かった。


 真理の胸に抱かれている真美は、お昼寝中だ。


 優美は隣の席に座り、遠くからその寝顔を見守っていた。


 オーダーを取りに近寄ってきた美代子が、優美に告げる。


「今日はどうしますか」


「そうじゃな、ブレンドとショートケーキの気分じゃ」


「かしこまりました」


 拓海がコーヒーを淹れながら優美に尋ねる。


「それで、今日も真美の顔を見に来ただけですか?」


「悪いか? 稚児ややこの顔は、いくら見ても飽きることがない。

 この子は儂の顔を目で追ってもくれる。

 間違いなく、『あやかし』が見える子じゃ」


 優美のテーブルにコーヒーとケーキを運んだ美代子が、優美に尋ねる。


「真美ちゃんも『あやかし』混じりなんですよね?

 どんな子になるんでしょうね」


「この子は拓海より力が弱い。

 人間と大差ない力しか持たぬじゃろ。

 瞳の色だけは琥珀色じゃがな」


 充分に目で真美を堪能した優美が、今度は口でショートケーキを味わっていく。


 その幸せそうな笑顔に、美代子が告げる。


「あ、次回で借金は完済ですよね?」


「そうじゃな。そこまで焦らんでも待つと言うておうるのに。

 美代子はせっかちじゃのう」


「借金があると、落ち着かないんですよ。

 返せるなら、とっとと返したいだけです」


 優美がクスリと笑みをこぼした。


「真面目な子じゃの。

 それはそれで美徳じゃ。

 最初の頃より、心も開くようになった。

 良い傾向じゃの」


「余計なお世話です」


 カウンター席に戻った美代子に、拓海が告げる。


「僕らもおやつを食べようか。

 イチゴのタルトが少し余ってる。

 真理にも出してあげて」


「はーい」


 美代子は軽やかにカウンター席から降り、厨房に向かった。


 拓海は三人分の飲み物を用意し、カウンターに置いて行く。


 穏やかなもん暖ジャズが流れる中、幸せを噛み締めるような微笑みを拓海は浮かべていた。





****


 カランコロンとドアベルを鳴らし、和夫と敦子が姿を見せた。


「真理、真美の様子はどうだ?」


 真理は黙って口に指を立てた。


「おっと、お昼寝中か」


 静かな声で拓海が告げる。


「ブレンドでいいですか?」


「ああ、たのむ」


 和夫と敦子が、テーブル席に座る真理の隣に座る。


「この子は大きくなったら、どんな子に育つかねぇ」


「あなた、気が早いですよ。

 今はこの瞬間を楽しみましょう」


 美代子が和夫たちのテーブルに、コーヒーを運んでいく。


 和夫たちは月に一回、こうして孫の顔を見に来ていた。


 ――自分もこんな風に、愛されて育ったのかな。


 美代子は親子三代の姿を眺めたあと、足音を立てないようにカウンター席に戻った。



 コーヒーを飲み終わると、和夫たちが席を立った。


「長居をしても悪い。今日はこのぐらいで失礼するよ」


「真理、体には気をつけるのよ?」


 敦子に微笑みながら真理が応える。


「大丈夫よ、お母さん。

 ちゃんとわかってるから、大丈夫」


 和夫たちは店から出るまで何度も振り返り、真理と真美の姿を瞳に納めていた。


 カウンター席で美代子がぽつりと告げる。


「孫って、そんなに可愛いものなんでしょうかね」


「お義父さんたちを見ていると、そうみたいだね。

 いいんじゃない? 本人たちが幸せなら」


 ――一番幸せそうなのは、目の前の拓海さんだけど。


 父親にとって、娘は可愛いものなのだろう。


 そう理解した美代子は、小さく息をついてスマホの画面に向かった。





****


 十二月二十四日、クリスマスイブ。


 その日の『カフェ・ド・アルエット』は貸し切りで、小さなクリスマスパーティが開かれていた。


 シェアハウスの面々に加え、優美と和夫や敦子も加わっている。


 拓海がみんなの顔を見回して告げる。


「それじゃあ――真美の笑顔に乾杯!」


「乾杯!」


 小さな我が子が初めて迎えるクリスマスイブ。


 拓海はその日、張り切って店内を飾りつけていた。


 美代子は改めて店内を見回し、呆れながら告げる。


「ここまでする必要、あったんですか?

 まだ真美ちゃんの視力、ほとんどないですよね?」


 拓海は真理の胸に抱かれる真美を見つめながら応える。


「いいんだ、それでも。

 この空気だけでも感じてくれれば、それで」


 ――こういうのを親馬鹿というのではないだろうか。


 美代子は苦笑を浮かべながら、ローストチキンに手を伸ばした。


 直也のそばにたたずむ綾女も、羨ましそうに真理を見ていた。


「やっぱり、産むなら早い方が良いかしら」


 直也が綾女にニヤリと笑って告げる。


「ん? 子供が欲しくなったのか?

 それじゃあ挙式の予定を早めるか?」


 綾女が手の平で直也の腕を叩いた。


「馬鹿ね、今さらスケジュールなんてずらせないわよ。

 それに六月のジューンブライド、いいじゃない」


 優美が満足そうに綾女たちを見て告げる。


「場所を選ばなければ、割り込み予約ぐらいはしてみせるぞ?

 遠慮なく儂に言うがよい」


 直也が小さな声で笑った。


「そこまでオーナーに頼れんよ。

 大丈夫、きちんと綾女を幸せにしてみせよう。

 記憶に残る挙式にするとも」


 綾女が小さく息をついた。


「本当に大丈夫かしら。

 直也さん、大事なところが抜けるのよね」


 皆が笑い合う中、瞳と厚樹、美代子が固まっていた。


 瞳が綾女を見てぼやく。


「いいな……私もああいう相手が欲しい」


 厚樹は苦笑を浮かべながら応える。


「しかたありませんよ、私たちは独身貴族を謳歌しましょう」


 美代子は淡々と料理を口に運んでいた。


「結婚だけが人生じゃないですし、気にしたら負けですよ」


 和夫と敦子は、真理の周囲で孫の顔を堪能していた。


 静かで温かなクリスマスイブが、ゆっくりと過ぎていった。





****


「おかあさーん! ただいまー!」


 『カフェ・ド・アルエット』のドアを、元気よく開いて真美が帰ってくる。


 ランドセルを揺らしながら、カウンター席によじ登った。


 カウンターの中から拓海が告げる。


「お帰り真美、今日は何を食べたい?」


「んー、ショートケーキ! あとココア!」


 とろけそうな笑顔で拓海がうなずき、ココアを作り始めた。


 厨房から真理が出てきて、真美の前にショートケーキを置く。


「これを食べたら、宿題をするのよ?」


 真美は唇を尖らせて応える。


「はーい。

 ――美代子さんは?」


「今日はバリスタの学校よ。

 そろそろ帰ってくるはず――ほら、帰ってきた」


 カランコロンとドアベルが鳴り、美代子が姿を現した。


「ただいま戻りました。

 マスター、ブレンドください」


「はいよ」


 真美の前にココアを置くと、拓海がコーヒーを淹れ始めた。


 真美の横に座った美代子が尋ねる。


「学校は楽しい?」


「うん! 楽しいよ!

 美代子さんは?」


「私は……うーん、あまり楽しくはないかなぁ」


 資格を取るための学校だが、実技はこの店で充分に養っている。


 やることが覚えきっていることばかりで、新鮮味がないのだ。


 真美が口の周りにクリームをつけながら告げる。


「小学校は楽しいのに、楽しくない学校なんてあるんだ?」


「大人の世界は、色々あるのよ」


「ふーん」


 木のない返事をした真美は、美味しそうにココアを飲み干していた。

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