第30話

 食事を済ませた美代子が帰ろうとしたところで、真理が呼び止めた。


「ちょっと待って秋元さん、あなた今夜、時間があるかしら」


 美代子が振り返って尋ねる。


「今夜ですか? 別に大丈夫ですけど」


 真理が微笑んで告げる。


「あなたの歓迎会をしようって、みんなが言ってるの。

 午後九時に私の家に集まれないかって。

 参加費は無料だけど、どうする?」


「はぁ、無料なら構いませんけど」


 真理がニコリと微笑んだ。


「決まりね。時間になったらあなたの部屋に迎えに行くわ。

 それでいいかしら?」


 美代子は黙ってうなずいて、『カフェ・ド・アルエット』から出ていった。


 その背中を見送った真理が、ぽつりと告げる。


「消極的な子ね。

 若い子との付き合い方、ちょっとわからないわ」


 拓海がクスリと笑って応える。


「君と四歳しか違わないよ。

 まだ打ち解けられてないだけさ。

 同じビルの住人同士、そのうち仲良くなれるって」


 真理はうなずき、ゆっくりと食事を食べ進めていく。


 拓海はそんな真理を幸せそうな微笑みで見守っていた。





****


 午後九時になり、真理が四階一号室のインターホンを押した。


『――はい』


「私よ、千石真理。迎えに来たわ」


『ちょっと待っててください』


 扉の向こうで足音が聞こえてきて、ゆっくりとドアを開けて美代子が顔を出した。


「お待たせしました」


「じゃあ行きましょうか。

 私の家は六階よ」


 ゆっくりとエレベーターホールに移動し、六階に上がっていく。


 六階は家族用の賃貸物件が並ぶフロアで、辺りは静まり返っていた。


 真理のあとを歩きながら、美代子が尋ねる。


「どんな人が参加するんですか?」


「このビルの住人よ。

 みんないい人だから、怖がる必要はないわ」


 真理が一号室のドアにスマホをかざし、ロックを解除して扉を開ける。


 中から響いてくる賑やかな声が、美代子の耳に届いた。


 整頓された玄関から続く短い廊下を抜ける。


 ドアを開けると、広いリビングではすでに酒盛りの準備が済んでいるようだった。


 豪快な声で直也が告げる。


「おー! 今日の主賓が来たな?!」


 声の大きさに驚いた美代子が、体をすくませた。


 真理に背中を押されながら中に入り、ローテーブル周りに腰を下ろす。


 今日の参加者は美代子を淹れて七人。


 真理が美代子に微笑んで告げる。


「改めて、私が千石真理よ」


 その隣に座る拓海が告げる。


「僕が夫の千石拓海だ」


 直也が楽し気に笑いながら告げる。


「俺は戸田直也、ジムのインストラクターだ」


 その隣、ひょろっとした厚樹がおずおずと告げる。


「松島厚樹、システムエンジニアです」


 綾女がニコリと微笑んで告げる。


「私は佐藤綾女、二号室だからお隣さんね。

 ライター業をしているの」


 その隣で瞳が缶ビールを手にしながら告げる。


「私は吉田瞳……漫画家」


 最後に美代子が恐縮しながら告げる。


「えっと、秋元美代子です」


 拓海が手を打ち鳴らして告げる。


「お酒は行き渡ったかな?

 それじゃあ――秋元さんの入居を祝って、乾杯!」


 缶ビールが打ち合わされ、賑やかに飲み食いを始めた。


 美代子はちびちびとビールを飲みながら、隣でお茶を飲む真理に告げる。


「いろんな人が居るんですね」


「そうかもね。

 困ったことがあれば、いつでも相談して。

 私たちで良ければ、力になるから」


「はぁ……」


 美代子が部屋を見回すと、棚に育児雑誌が置いてあった。


 老舗のブランドなので、美代子でも聞いたことがある雑誌だ。


「今時、紙の雑誌を買ってるんですか?」


 真理がクスリと笑って応える。


「私ね、元出版業なの。

 だからつい、紙の雑誌を買ってしまうのよね。

 あの雑誌ひとつを作るのに、どれだけの手間がかかってるか。

 ――そう考えると、なんだかスマホで済ませる気になれなくて」


「はぁ……」


 美代子はサラダを小皿に取って口に運びつつ、部屋を見ていく。


 すでに用意されたベビーベッドやおもちゃ類。


 整理された部屋の一角で、それらが異彩を放っていた。


「もう用意してるんですか? ベビー用品」


「オーナーが買ってきちゃうのよ。

 待ち遠しくて、仕方がないみたい」


 ――変な座敷童だな。


 もっとも、座敷童自体が変なのだが。


 自分の認識が崩壊しつつあることに、美代子はまだ気づいていなかった。



 歓迎会も無事終わり、それぞれが家に戻っていく。


 美代子も立ち上がり、「ごちそうさまでした」と告げて出ていった。


 淡白な反応の美代子を見送り、真理が告げる。


「やっぱり反応が薄いわね」


 宴会跡を片づけながら、拓海が応える。


「そのうち慣れてくれるって」


「そうかしら。少し不安だわ」


 心配している真理の額に、拓海がキスをしていく。


「大丈夫、僕とオーナーがなんとかするよ」


 うなずいた真理が「先に寝るわね」と寝室に向かった。


 拓海は真理を支えながら、一緒に寝室に歩いて行った。





****


 初夏に入り、『カフェ・ド・アルエット』の店内で美代子はのんびりとスマホを見ていた。


 滅多に客が来ないこの店は、実に快適だ。


 暇をつぶす手段さえ持っていれば、こんなに条件が良い就職口はないだろう。


 真理はもう臨月に入り、自宅で体を休めている。


 拓海はカウンターの中で静かにコーヒーを淹れていた。


「そろそろ慣れてきたかな?」


 美代子がスマホから顔を上げて応える。


「そうですね、だいぶ。

 お給料の大半が返済に回るのが苦しいですけど」


 拓海がクスリと笑った。


「無理して返済しなくてもいいんだよ?

 オーナーは『いつでもいい』と言ってるんだろう?」


 美代子が真面目な顔で応える。


「そうはいきませんよ。

 境遇に甘えて居たら堕落します。

 『借りたら返す』! 基本じゃないですか」


「真面目なんだねぇ、秋元さんは。

 ――はい、ブレンド」


「あ、ありがとうございます」


 美代子がコーヒーに口をつけていると、カランコロンとドアベルが鳴った。


「――拓海、ブレンドとエッグタルトじゃ」


 拓海が「了解」と応え、再びコーヒーを淹れていく。


 美代子は優美に水を出してから、小走りで厨房に入っていった。


 カウンター席に座る優美が、拓海に告げる。


「どうじゃ? 巧くやれておるか?」


「どうかなぁ? まだ壁を感じるかな」


 優美がため息をついて応える。


「おんし、人付き合いは得意ではなかったのか?

 まっこと情けないのう」


 拓海が苦笑しながら告げる。


「面目次第もございません。

 ――真理の様子は見てきたんですか?」


 優美がニタリと微笑んだ。


「もちろんじゃとも。

 日々成長していく稚児ややこが愛おしいわ。

 あの子は儂が見えるかのぅ……少し心配じゃ」


 美代子がトレーにエッグタルトを乗せ、優美の元へ運んだ。


「お待たせしました」


「うむ――なぁ美代子や。

 おんしはもう少し、愛嬌があってもよいのお」


「愛嬌、ですか?」


「人に対して、心を開けと言うておる。

 これが今どきの若者やもしれんが、それでは人生がつまらんぞ?

 孤独のまま生きるのも道じゃが、関わって生きるのも楽しいものじゃ」


「はぁ……」


 美味しそうにエッグタルトを頬張る優美を見て、美代子があきれていた。


 人の道を説く座敷童――理解の外だ。


 苦笑を浮かべている拓海のスマホが鳴り、それを手に取る。


「――はい、どうしたの真理。

 え? 救急車? ――待ってて、すぐ行くから!」


 通話を切った拓海が、美代子に告げる。


「ごめん、真理の出産が近いみたい。

 お店任せるけど、大丈夫かな」


 優美が手で追い払うように拓海に告げる。


「どうでもよいから、おんしははよう真理のところへゆけ。

 あとのことは儂に任せよ」


 拓海は「ごめんね!」と叫んでエプロンを脱ぎ捨て、店の外に駆けていった。


 優美はコーヒーを口にしながら、ぽつりと告げる。


「さすがの拓海も、初めての稚児ややこでは冷静になれぬか。

 あやつもまだ青いのう」


 美代子がおずおずと優美に尋ねる。


「あのぅ、私はどうしたら?」


「外の看板を店内にしまってしまえ。

 店を閉めたら、そのまま帰るが良い。

 鍵は儂が閉めておこう」


「はぁ……」


 うなずいた美代子が、言われた通りに閉店処理をしていく。


 店を閉めたあと、美代子は「おつかれさまでした」と告げ、自宅に戻っていった。

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