第7章:バトンタッチ
第28話
真理は大きなお腹を抱えながら、山下公園のベンチで日に当たっていた。
隣には優美が座り、嬉しそうな顔で真理のお腹を眺めている。
「あとどのくらいかのぉ?」
「うーん、まだ六か月だし。
まだまだ先ですよ、オーナー」
「待ち遠しいのお! 早く顔が見たいのじゃ!」
真理は微笑む優美の笑顔を見て、心が満たされて行くのを感じていた。
こうして待ち望まれて生まれてくる子供。
これほど愛情を受けた子供が、幸せにならない訳が無い。
そう信じられる笑顔だった。
そんな二人を呆然と見る女性が一人、少し離れたところに座っていた。
長い髪の毛を海風になびかせながら、優美の笑顔を凝視している。
――なんでこんなところに、和服の子供が?
しかもお腹の大きな妊婦と並んで、楽しそうに会話をしている。
周囲の人間は、優美に気付く様子が無い。
この辺りであんな服装をしていれば、目を引くはずだった。
女性――秋元美代子は首をかしげて優美を見つめていた。
ふと美代子の視線が優美と重なった。
優美がニンマリと笑い、ちょいちょいと手招きをする。
どうやら自分を呼んでいるようだと気付き、美代子はベンチから立ち上がってゆっくりと近づいて行った。
****
見上げてくる優美の前で、美代子がためらいながら告げる。
「お嬢ちゃん、何のご用かな?」
優美がニンマリと微笑みながら応える。
「おんし、金運がないのう。完全に逃げられておる。
さては仕事がのうなったな?」
美代子は驚いて目を瞬かせた。
「え、もしかしてオーラ出てた?!
そんなに貧相な見た目してる?!」
あわてて美代子は自分の服装をチェックしていく。
コットンの茶色いワンピースは、春にしては地味な色だろう。
だがほつれている様子はない。
優美が楽しげな声で告げる。
「靴じゃよ。足元を良くみぃ」
「あ――」
美代子のローファーは、見事によれよれになっていた。
優美が笑いながら告げる。
「金のないものは、足元がおろそかになる。
わかりやすい、典型的な貧乏じゃのお」
恥ずかしくなった美代子が、その場から離れようと身を翻した。
「まぁ待て。おんし、働き口を探しておるのではないか?
良い条件の就職先を教えてやろうか?」
美代子の足が止まり、優美に振り返った。
「どういうこと?
何が言いたいのか、はっきり教えて」
優美が真理を見ながら告げる。
「ここにおる真理は、出産が近い。
そうなれば、もうじき動けなくなる。
じゃからしばらく真理の代わりに、喫茶店の従業員をせんか?
美代子は困惑しながら真理に尋ねる。
「あなたのお子さんですか?
この子、何を言ってるんですか?」
真理が苦笑しながら応える。
「この人はお店のオーナーよ。
言っていることに、間違いはないわ」
優美がニタリと微笑んだ。
「今なら好待遇で雇ってやろうぞ。
転居費用も格安住居も用意してやれる。
どうじゃ? 話だけでも聞いてみんか?」
美代子は大きく心が揺れていた。
家賃は二か月滞納している。
いつ追い出されてもおかしくなかった。
再就職先を探したが、スキルらしいスキルを持たない美代子は、面接でお祈りの嵐だ。
今さらバイト代程度では負債を返済することもできない。
完全に詰んだ状態だった。
「……話を聞くだけよ?」
優美が満足そうにうなずいた。
「それで構わぬ。
ではついて参れ」
身軽にベンチから飛び降りた優美が、真理をいたわりながら立たせた。
真理が転ばないように手で支えながら、優美は店のある方向へ歩いて行く。
美代子はため息をついてから、二人のあとをおった。
****
『カフェ・ド・アルエット』のドアを真理たちがくぐる。
店内で待っていた拓海が、笑顔で真理を迎えた。
「お帰り真理、オーナー。
……その人は?」
優美が胸を張って応える。
「就職希望の新人じゃ。
ほれ拓海、面接してやれ」
困ったような笑みでため息をついた拓海が、美代子に尋ねる。
「とりあえず、コーヒーでいいかな?
それとも紅茶が良い?」
「え?! その……お金が無いので」
消え入りそうな声の美代子に、拓海が応える。
「おごりだから気にしないで。
好きなものを頼んでいいよ」
「じゃあ――コーヒーで」
笑顔でうなずいた拓海が、お湯を沸かしてコーヒーを淹れる準備を始める。
カウンター席に真理を座らせた優美が、美代子の手を引いて奥のテーブルへ向かった。
「それ、こっちじゃ。ついて参れ」
「ちょっと、引っ張らないで!」
優美に翻弄される美代子を見て、真理がつぶやく。
「あの子、見込みあるのかしら」
「オーナーが見える時点で、有望だと思うよ」
コーヒーを淹れ終わった拓海が、三人分のカップをトレイに載せ、優美たちの末テーブルへと向かった。
****
向かい合って座る拓海に、美代子が告げる。
「えっと、秋元美代子です」
「僕は千石拓海、ここで店主をしてる。
年齢と職歴を聞いてもいいかな?」
「二十五歳です。前職はウェブデザイナーでした」
拓海が驚いたように目を見開いた。
「凄いじゃない、技術職だよ」
「いえ、経験二年なので、実務はほとんど……」
「じゃあ、なんで前職を辞めたのかな?」
美代子が肩を落として応える。
「上司のパワハラに耐えられなくて。
体を壊す前に辞表を出しました」
優美がコーヒーを一口飲んで告げる。
「つまり自主都合、失業保険がまだ下りんというわけか。
大卒二年では貯金もあるまい。
それで金がのうなったか」
美代子が黙ってうなずいた。
「それで、ここではどんな仕事をすれば?」
「店内従業員――ウェイトレスだよ。
オーダーを聞いて、出来上がったメニューを届ける。
最低限これができれば問題ないよ」
美代子が少し考えてから尋ねる。
「好待遇って聞いたんですけど、どんなですか?」
拓海が電卓をたたいて数字を見せる。
「月収だとこれぐらいかな。
賞与は年一回、週休一日」
美代子が電卓を覗き込み、考えだした。
前職と変わらないか、少し良いくらいの金額だ。
優美が楽し気に告げる。
「このビルの上の階がシェアハウスになっておる。
そこの一人部屋を五万で貸してやっても良いぞ?」
美代子があわてて声を上げる。
「――ここ、観光地ですよ?!」
「まぁそうじゃな。おおよそ相場の半額じゃ。
引っ越し代に敷金礼金、諸々を儂が持ってやろう。
滞納している家賃や支払い、債権全てを儂が引き取って支払いを待ってやる。
無利子無利息でな」
美代子が疑念の眼差しで優美を睨み付けた。
「……なんで、そこまでしてくれるんですか」
優美がニタリと微笑んで応える。
「これは儂の『趣味』じゃからな。
この喫茶店の経営もそうじゃ。
採算なぞどうでもよい。
やりたいからやる。それだけじゃ。
――そこな真理も、そうやってここに就職した口じゃ」
美代子がカウンター席で見守っている真理に振り向いて尋ねる。
「本当ですか?
この人の言うこと、信用してもいいんですか?」
真理が苦笑を浮かべて応える。
「大丈夫よ。
美味し過ぎて、信じられないでしょうけど。
本当にオーナーの厚意なの。
シェアハウスも、立派な部屋よ」
優美が楽し気に美代子を見つめた。
「さぁどうする? これでも嫌なら、儂は構わん。
そのまま立ち去り、この店のことを忘れるが良い。
無理に働けとは言わぬ」
美代子が眉根を寄せて悩み始めていた。
苦境を救ってくれる救世主。
だが美味しい話には裏がある。そう親から教えられてきた。
目の前の救いの手を取ってよいのか、決定的なものが欲しかったのだ。
悩み続ける美代子に、真理がニコリと微笑んで告げる。
「オーナーはね、『座敷童』なの。
人間じゃないから、普通の価値観じゃないのよ」
「――は?!」
美代子は頭が真っ白になって固まっていた。
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