第27話

 真理が電話越しに通話をしていた。


「はい……はい……わかりました、それでお願いします」


 通話を切った真理に、拓海が尋ねる。


「誰から?」


「ブライダルコンサルタントさん。

 『九月に一日だけ枠が空いたけど、どうですか』って。

 即答しないといけなかったから、了承しちゃった」


 拓海がニッと笑った。


「いいんじゃない?

 九月だと、真理の誕生日があるね。

 二か月後かぁ。楽しみだなぁ」


「もう! 楽しんでないで、先のことも考えて!

 これから目が回る忙しさよ?」


「わかってるって。

 店が休みがちになっちゃうけど、そこはしょうがないね。

 オーナーには連絡しておくよ」



 昼になり、昼食を食べても『カフェ・ド・アルエット』は穏やかだった。


 クーラーの利いた店内は、変わらずジャズとコーヒーの香りで満ちている。


 その穏やかな空間を、軽快なドアベルの音が破った。


 姿を見せた優美が拓海に告げる。


「キャラメルラテとチーズケーキ、はようせい」


「はいはい」


 拓海がエスプレッソマシンを使ってコーヒーを淹れていく。


 優美が座るカウンター席へ、真理がチーズケーキを届けた。


「聞いたぞ真理。日取りが決まったそうじゃな」


「耳が速いですね。

 でも私はまだ、詳しい日付を聞いてなくて」


「招待状の送付先名簿は提出しておろう?

 ならばあとは、業者が最速で手配してくれるわ。

 あそこは『オールインワン』の業者じゃからな」


 真理が戸惑いながら尋ねる。


「じゃあ、私たちはあと、なにをすれば」


「そうさな、ドレスの合わせとリハーサルぐらいじゃろ。

 おんしらのサイズを確保でき次第、連絡が来る。

 そうしたら出かければよい」


 拓海が申し訳なさそうに告げる。


「じゃあ、そういった日は店を閉めるけど、大丈夫ですか?」


「構わん。おんしらは何も気にするな。

 儂も出席するが、それは構わんな?」


 真理がおずおずとうなずいた。


「もちろんですけど、目立ちませんか?」


「なあに、問題ない。

 どうとでもごまかせる」


 優美が出されたキャラメルラテを美味しそうに味わっていた。


「うむ、特別な日には特別の味じゃ。

 実にめでたいのぅ」


 ニコニコと微笑む優美の笑顔に、真理は自然と笑みが漏れていた。





****


 八月に入り、真理たちはドレスやタキシードの合わせを行っていった。


 アイボリーのウェディングドレスを姿見で確認し、シルエットを眺めていく。


 まだ実感が湧かない真理に、スタイリストが笑顔で告げる。


「よくお似合いですよ。

 苦しい所はございますか」


「はい、大丈夫です」


 軽く体を動かして再確認をした後、アクセサリーやジュエリーも合わせていく。


 一通り確認が済むと、全て返却してスタイリストに一任した。


「あとはよろしくお願いします」


「はい、お任せください」



 真理がフィッティングルームを出ると、廊下で拓海がすでに待っていた。


「お帰り。そっちはどうだった?」


 真理は笑みをこぼして微笑んだ。


「ばっちりよ。当日を楽しみにしておいて」


「そろそろリングもできてくる頃だ。

 既製品でごめんね」


 真理は首を横に振って応える。


「仕方ないわよ、急な挙式ですもの」


 それでもリングにはイニシャルを刻印することになっていた。


 それだけでも、世界で一つだけの指輪だ。


 真理は幸福感に酔いしれながら、拓海の腕に抱き着き、外に向かって歩きだした。





****


 九月中旬、真理は控室でウェディングドレスに着替え、緊張しながら床を見つめていた。


 リハーサルは問題なかった。


 今日の衣装も、予定通りに仕上がっている。


 なにも問題はないはず。


 わかっていても、一生に一度の舞台だ。


 緊張で手が震え、抑えることができなかった。


 ノックの音がして控室のドアが開き、白いタキシードの拓海が現れる。


 穏やかな笑顔で真理に近づき、そっと手を握った。


「大丈夫、僕が付いてるから」


「……そういう拓海さんも、手が震えてない?」


「あれ? ばれた?」


 真理が思わず拓海の顔を見て、クスクスと笑いだした。


 拓海も恥ずかしそうに笑いだし、真理の肩から力が抜けていく。


「――ふぅ、ありがとう拓海さん。

 今日は一日、頑張りましょうね」


「もちろん!

 僕の大切な妻の晴れ舞台だからね」


 ウェディングプランナーが控室にやってきて告げる。


「そろそろ準備をお願いします」


 拓海が肘を差し出し、真理がそれに手をかけた。


 二人はゆっくりと慎重に歩きだし、控室をあとにした。





****


 拓海と一度別れ、チャペルの隣にある親族控室に入る。


 和夫がダークスーツを着て、忙しなく部屋を歩きまわっていた。


 真理が小さく息をついて告げる。


「もーお父さん、リハーサルはしたでしょう?」


「リハと本番は別物だろう!

 俺が失敗すると、お前が恥をかくんだぞ?!」


「別にそんなの、気にしないわ。

 ちょっとした笑い話になるだけよ」


 敦子がスーツ姿で苦笑していた。


「当の新婦がどっしり構えてるのに、父親が取り乱してどうするんですか」


 真理が母親と笑い合いながら、呼ばれるまでの時間を過ごしていく。


 ドアがノックされ、プランナーが顔を覗かせた。


「村上さん、出番です」


 和夫が背筋を伸ばし、真理に肘を差し出した。


 真理は微笑みながら、その手に掴まる。


 ゆっくりと歩きながら、真理が告げる。


「お父さん、今日までありがとう」


「……馬鹿野郎、今から泣かせるようなことを言うな」


 和夫は涙ぐみながら、ハンカチで目元を拭っていた。





****


 優しい照明で照らされたチャペルのバージンロードを、真理と和夫が歩いて行く。


 左右には招待客たちが二人を微笑んで見つめて居た。


 カノンが鳴り響くチャペルの祭壇では、拓海が背筋を伸ばして真理を待っている。


 ゆっくりと拓海に近づきながら、真理は自分の人生を振り返っていた。


 学生時代にあったこと。


 大学で知り合い、破局した伸二との思い出。


 出版業界に就職し、会社倒産で失業した失意の日々。


 そんな中で、巡り合えた拓海という男性。


 そんな彼と自分を結び付けてくれたのは――今も祭壇で微笑んでいる、小さな和服の女の子。


 座敷童の優美が、今の真理を導いてくれていた。


 和夫が祭壇の前で真理の手を拓海に託す。


「娘を、頼む」


「はい」


 短いが、確かな声。


 真理は拓海と微笑みあい、祭壇に向き合った。


 結婚式は滞りなく進んでいく。


「新郎、千石拓海は村上真理を妻として愛し、支え合うことを誓いますか」


「はい、誓います」


「新婦、村上真理は千石拓海を夫として愛し、支え合うことを誓いますか」


「……はい、誓います」


 真理の声は、鼻声になっていた。


 指輪を交換し、互いの薬指にリングをはめていく。


「神の名のもとに、今この場において二人を夫婦として認めます」


 拓海が真理のヴェールをたくし上げ、二人は招待客たちの前で静かに唇を合わせた。


 ――人生で一番大切な、思い出のキス。


 生涯に残る五秒を経験してから、二人は唇を離した。


 友人や親族たちに祝福されながら、拓海にエスコートされ真理がバージンロードを歩いて行く。


 チャペルを抜けた二人は、控室に向かって歩いて行った。





****


 ランドマークタワー最上階の披露宴会場では、真理と拓海が主賓席に座って友人たちと言葉を交わしていた。


 真理の友人たちが拓海を見て告げる。


「真理! あんたどんな徳を積んだらこんな男を捕まえられるの?!」


「すっごい綺麗だよね……芸能人?」


 真理は困ったように笑いながら、友人たちに応えていく。


「失業してどん底だった時に会ったのよ。

 あの時、気まぐれで山下公園に来てなかったら、今日はなかったわ。

 何かに導かれたのかも」


「なにそれ! 『運命の人だった』っていいたいの?! ごちそうさま!」


「ねぇ、拓海さんを撮影していい?」


 真理は笑いながら「だーめ」と応えていた。


 拓海は直也や綾女たちと会話をしていた。


 スーツ姿の直也が声を抑えながら告げる。


「よかったなー! ようやく拓海も身を固めたか!」


 綾女もシックなスーツで微笑んでいた。


「とっても綺麗だったわ。

 あとで写真、ちょうだいね」


 厚樹は酒も飲んでいないのに泣いていた。


「ほんとうにきれいでしたよー!」


 瞳が厚樹の背中をさすりながら微笑む。


「いいよね……私も相手が欲しい」


 真理と拓海の間で優美が嬉しそうに微笑んでいた。


「いつ見ても挙式は心が躍るのう。

 次は誰をくっつけてやろうか」


 優美は真理の前に置いてある料理をつまみながら、次の獲物を探すかのように会場に目を走らせていた。


 和夫と敦子は、遠くから真理たちを見守っていた。


 静かに飲み物を口にしながら、真理の子供時代の思い出を語っているようだ。


 横浜という真理を生んだ土地を象徴する場所、横浜港。


 それを一望できる披露宴会場は、まさに真理の人生を象徴しているようだった。


 真理は今日一日を忘れないように、全てを瞳に納めながら微笑み続けていた。





****


 十月に入った水曜日のある日、真理はひとりで出かけていった。


 部屋に帰ってきた真理を、拓海が笑顔で迎えた。


「お帰り真理。何をしに行ってたの?」


「……ちょっと耳を貸して」


 拓海がかがんで、その耳に真理がささやいた。


 目を見張って驚く拓海が、あわてて真理を見つめる。


 お腹を大切に撫でる真理が、照れたようにはにかんだ。


 拓海は真理を壊れ物のように抱きしめながら、声もなく泣き出していた。


 真理はこれからのことを思いながら、拓海に抱擁されていた。





****


 『カフェ・ド・アルエット』は今日も平常運転だ。


 拓海がカウンターキッチンでコーヒーを淹れ、カウンター席に座る真理がカップを受け取る。


 静かなモダンジャズが流れる店内で、真理は今日もマンデリンを味わっていた。


 真理と向かい合ってコーヒーを飲む拓海は、真理を慈しむ微笑みで見つめている。


 愛を込めてお腹をさする真理は、『その日』が来るのを今か今かと待ち望んでいた。


 窓の外には、いつもの山下公園が見える。


 穏やかな日常が、今もそこにあった。


 カランコロンとドアベルが鳴り響き、今日も和服の少女が姿を見せる。


 真理は心からの笑顔で優美を出迎え、感謝を込めて告げる。


「いらっしゃいオーナー。今日もブレンド?」


「いーや! 今日はキャラメルマキアートじゃ!

 こういう時に特別な味を飲まんでどうする!」


 笑い声が響く中、拓海がエスプレッソマシンに向かう。


 真理は心を込めて接客しながら、優美と名前の相談を始めていた。

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