第26話

 翌朝、綾女や直也たちが見たのは、手をつないで部屋から出てくる真理と拓海だった。


 二人で温かい微笑みを交わし合い、エレベーターホールに向かっていく。


 瞳がニヤリと笑って告げる。


「朝からお熱い……」


 綾女がクスリと微笑んだ。


「あの笑顔、もう大丈夫ね」


 直也は黙ってうなずいていた。



 朝食も明るく済ませながら、拓海が告げる。


「食事を済ませたあと、どうする?

 もうひと泳ぎする余裕はあるけど」


 厚樹がニコリと笑って告げる。


「本音を言ってもいいんですよ?

 早く帰って、二人の時間を楽しみたいんでしょう?」


 拓海が気恥ずかしそうに目をそらした。


 真理も赤くなりながら目を伏せている。


 綾女が手を打ち鳴らして告げる。


「決まりね。

 朝食後は帰り支度をしましょう。

 海はまた、来年来ればいいわ」


 直也や瞳も賛成し、勢いよく朝食を食べだした。


 賑やかな食事時間は、瞬く間に過ぎ去っていった。





****


 江の島からの帰り道、車を運転する拓海は上機嫌で鼻歌を歌っていた。


 真理はクスリと笑みをこぼし、拓海の横顔を見つめ続けた。


 ふと目を落とせば、左手に輝く確かな証。


 今回の小旅行が、全てこのためにあったのだと気が付いた。


 真理の胸に湧く温かな気持ちが、昨日までの不安をすべて洗い流していく。


 ――この人なら大丈夫。


 新たな確信を胸に、真理は明日に向かって一歩を踏み出す覚悟を手に入れていた。



 シェアハウス前に辿り着くと、直也が告げる。


「車は俺が返しておく。

 拓海は先に部屋に戻ってろ」


 一瞬きょとんとした拓海が、苦笑を浮かべて応える。


「サンキュー、恩に着る。

 ――行こう、真理」


 うなずいた真理が、拓海と手をつなぐ。


 二人は先にエレベーターに乗り、そのまま上がっていった。


 拓海の代わりに直也が運転席に乗り込む。


 綾女が助手席に乗りこんだ。


 驚いた直也が、綾女に尋ねる。


「どうした? 俺一人で問題ないぞ?」


「なに言ってるの。直也さんだけじゃ心配でしょ。

 ついでに、帰りに何か食べていきましょ」


 直也がニヤリと笑って告げる。


「いいだろう。ハンバーガー屋でいいか?」


「もう! 太るじゃないの!」


 豪快に笑う直也が、車を発進させた。


 残された瞳と厚樹が、ぼそりとつぶやく。


「なんだかんだ、仲が良いよね。あの二人」


「……我々も、アニメ鑑賞会でもしましょうか」


「あー、いいねぇ。じゃあうちくる?」


 荷物を担いだ瞳と厚樹も、エレベーターで上がっていった。





****


 日が暮れる頃、拓海がベッドに身体を沈み込ませて告げる。


「さすがに腹が減ってきた」


 真理がクスリと笑って応える。


「冷凍食品でいいなら、作ってあげる」


「じゃあお願い。僕はちょっと動けないかも」


 うなずいた真理が服を整え、キッチンに向かった。


 冷凍ピラフを取り出し、皿に盛ってラップをかける。


 レンジで温まったそれにスプーンを添え、リビングのテーブルに置いた。


「できたわよ」


「待ってました」


 拓海がいそいそと起き上がり、ローテーブルの上でピラフをかき込んでいく。


 真理も自分のピラフをリビングに運び、静かに食べていった。


「ごめんなさい、これぐらいしかできなくて」


「別にいいよ、僕だって冷凍食品で済ます日はあるし。

 子供ができたって、どうにだってできるからさ」


 ――子供か。


「ねぇ拓海さん、子供はいつ作るつもり?」


「んー、入籍したらいつでもいいんじゃない?

 真理は早い方が嬉しいんでしょ?」


 真理は黙ってうなずいた。


 欲を言えば、三十までに一人目を作っておきたい。


 だけど授かるかは、神のみぞ知るというところだ。


 拓海がピラフを食べ終わってから告げる。


「焦らなくてもいいと思うよ。

 下手に焦るとプレッシャーになるし。

 授かる時は授かるもんだと思えば」


「うん……」


 もうじき二十九歳、二十代最後の一年が始まる。


 焦るなと言われても、これが最後のチャンス。


 試せるなら試したかった。


「ねぇ拓海さん、相談なんだけど――」



 その日、二人は夜遅くまで互いを確かめ合う時間を重ねていった。





****


 アラームの音で真理の目が覚める。


「拓海さん、時間よ」


 拓海の体をゆすり、声をかけた。


「ん……もう? まいったな」


 拓海がのそりと起き上がり、服を整えていく。


「じゃあ僕は先に店に行くから」


 気怠そうに部屋を出ていく拓海を見送り、真理は少し後悔した。


 ――私のわがままに付き合わせちゃった。


 自分のお腹に手を当てる。


 いつかこの場所に宿る命。


 それに望みを託しつつ、真理も立ち上がった。


 シャワーを浴びてから身支度を整える。


 真理も疲れ切った体で、部屋をあとにした。



 開店準備を終え、二人は朝食を取っていた。


 拓海はハンバーグライスをもりもりと食べていく。


 真理はサンドイッチを食べながら、サラダをつまんでいた。


「あのね? 拓海さん。

 無理はしないでいいのよ?」


「でも、真理は欲しいんだろ?

 それならできることをするだけだよ」


「それはそうなんだけど……。

 それで拓海さんが体を壊したら、元も子もないわ」


 拓海はニヤリと微笑んで応える。


「大丈夫、体だけは丈夫なんだ」


 ふと気が付けば、拓海の顔には痣らしきものが無い。


 昨日はあれだけ腫れてたのだから、青あざができていても不思議じゃなかった。


「どういうこと? 特別な体なの?」


「ほら、僕って『あやかし』混じりでしょ?

 そのせいなのか、怪我の治りがちょっと早いんだ。

 体力の回復も、たぶん早いんじゃないかな」


 ――そっか、そういえばそう言ってたっけ。


「私たちの子供はどうなるのかしら」


「僕より血が薄くなるはずだけど、多少は同じ体質になるかもね。

 瞳の色がどうなるかは、産まれてみないとわからないかな。

 親父の瞳は黒かったし」


 自分の子供が『あやかし』混じりになる。


 それは不安になってもよさそうだが、不思議と不安を感じなかった。


 目の前の拓海と同じような体質なら、問題になるようなこともないだろう。


 一歩一歩、目の前の男性と家族になろうとしている。


 そのことを噛み締めながら、真理は朝食を食べ進めた。





****


 拓海がカウンターの中でコーヒーを飲んでいた。


 隣に立つ真理も、カウンターの中でコーヒーを口にする。


「不思議なものよね。

 ほんの数か月前まで、私は底辺にいた気がしたのに。

 今は挙式秒読みになってるんですもの」


「長い人生、そういう時期もあるってことだよ。

 終わり良ければ総て良しってね。

 僕だって、今が人生の絶頂期な気がするよ」


 真理がクスリと笑った。


「ここが絶頂期なら、子供が生まれた時はどうなるの?」


「どうなるんだろう?

 想像もつかないね。

 でも、とても楽しみにしてる」


 嬉しそうに語る拓海の笑顔に、真理も微笑みを返した。


 ――この人といつまでも添い遂げたい。


 心の底からそう思えた。


 こんな人と巡り合えた幸運に感謝をしていた。


 これほどの男性に想われる幸運。


 この男性の子供を産める幸せ。


 女として生まれて来てよかったと、幸せを噛み締めていた。


 いつかこの店内を、真理と拓海の子供が走り回る。


 そんな幻視すら見ていた。


 穏やかなモダンジャズが流れる中、コーヒーの香りを鼻に届けながら、ゆったりとした幸福感を味わった。

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