第17話

 アラームの音で真理の目が開く。


 欠伸を噛み殺しながら着替えを用意し、入念にシャワーを浴びていく。


 下着を装着し、洗面台の前でわずかに頬を染める。


 ――やっぱり、ちょっと大胆かなぁ?


 だが豪華な下着は気分を高揚させる。


 自分は『これから戦いに行くんだ』と自覚しながら、真理は自分の両頬を叩いた。


 見られようと見られまいと、下着は『戦いに臨む服』なのだ。


 ベッドの上に服を並べ、コーディネートを確認する。


 順番に自分を着飾らせ、さらに気分が高揚していった。


 化粧を施し、ジャケットを羽織る。


 姿見の前で自分の出来栄えに満足し、会心の笑みを見せた。


 今の自分が一番美しい――そう確信した。


 小ぶりのショルダーバッグを肩に引っ掛け、時計を確認する。


 午前九時三十分。待ち合わせの時間だ。


「――っと、いけない」


 真理は小走りで玄関を飛び出し、エレベーターに飛び乗った。





****


 『カフェ・ド・アルエット』の前では、拓海が空を見上げながら待っていた。


 モスグリーンのジャケットに白い開襟シャツ。


 ダークグリーンのスラックスに、白いスニーカー。


 耳にはいつもと違うピアスをつけている。


「――ごめんなさい、待った?」


 拓海が笑顔で真理に振り向く。


「いいや? ぜんぜん。

 ――それより、すごいね。

 とっても綺麗だ」


 真理が照れながら髪を触った。


「……そう?」


「スマホで撮影していいかな?」


「だーめ!」


 笑い合いながら、拓海がさりげなく手を差し出す。


 真理は緊張に気付かれないように、ゆっくりと拓海の手を取った。



 大通りを、桜木町駅に向けてゆっくりと歩いて行く。


 通り過ぎる何人かの男女が、真理や拓海に振り向いていた。


 拓海が穏やかに告げる。


「気づいてる? 真理が目立ってるよ」


「拓海さんだって目立ってるじゃない」


 ――むしろ、拓海さんの顔の良さに振り向く女性の方が多くない?


 そんな真理の不安を察したかのように、拓海が手を握り直した。


 無言で伝わってくる気持ちを感じ、真理は胸の奥が熱く燃えていた。


 こんな気持ちを味わうのは、何年振りだろう。


 もしかしたら、生まれて初めてかもしれない。


 それほどの高揚を拓海の手から感じ取っていた。


 やがて歩道橋を渡り、桜木町駅が見えてくる。


 真理と拓海は、手をつなぎながら駅前の映画館へ吸い込まれて行った。





****


 拓海が窓口で当日チケットを購入し、席が半分埋まったシアターに二人で入る。


 中央寄り後方の席を確保し、拓海が真理を座らせた。


「ちょっと飲み物買ってくるよ。

 コーラでいい?」


 真理がうなずくと、拓海が軽やかに通路に出てシアターから出ていった。


 客は若いカップルが多そうだ。


 平日水曜日の午前、こんな時間にデートができるのは、大学生がほとんどだろう。


 真理はそっとハンカチを取り出し、手汗を拭った。


 自分でも驚くほど緊張しているのがわかる。


 ――緊張してるの、バレてないかな。


 二十八歳の女性として、大人びたところを見せてやるぞ、と決意していた。


 拓海が無邪気な笑顔で、両手に紙コップを持って戻ってくる。


「はい、真理。

 ――どうしたの?」


 うっかり拓海の笑顔に見惚れていた真理が、あわてて応える。


「なんでもないわ。

 ありがとう、拓海さん」


 澄ました笑顔でコーラを受け取り、一口飲んでからドリンクホルダーに置く。


 拓海も一口飲んだ後、コーラをホルダーに置いた。


 やがてシアターの照明が落とされ、アナウンスが響いてくる。


 ――おっと、マナーモードか。


 真理がスマホを取り出し、マナーモードにセットする。


 ついでに横目で拓海を見ると、ゆったりと椅子に座って真理を見つめていた。


「……どうしたの?」


「なんだか、嬉しくて」


 そっと肘置きの上に差し出された手。


 真理はスマホをバッグにしまってから、おずおずとその手に手を重ねる。


 照明が真っ暗になり、予告編が開始された。





****


 ロマンス映画を見ながら、真理は拓海と小声で感想を言いあった。


 耳打ちで寄せられる顔に戸惑い、耳にかかる息に高揚する。


 すっかり舞い上がってしまった真理は、映画の内容をほとんど覚えていなかった。


 シアターが明るくなり、拓海が告げる。


「どうだった? 楽しめた?」


「うん、とっても!」


 ――映画じゃなく、拓海さんを、だけどね。


 手を握られ、人の流れに乗りながらシアターを出ていく。


 拓海が琥珀色の眼差しで真理を見つめた。


「お腹空いたでしょ、あっちに行こうか」


 真理は黙ってうなずいて、拓海に手を引かれて歩く。


 平日午前でも、桜木町駅前は混み合う。


 そんな人混みから、真理を守るようにしながら拓海が歩いて行く。


 再び歩道橋を渡り、ホテルのレストランに入っていった。



 みなとみらいを一望できる窓際の席で、拓海が告げる。


「ここはビュッフェなんだ。

 食べたいものはある?」


「うーん……」


 正直、真理は食欲どころではなかった。


 朝食も食べていないのに、空腹を感じない。


 胸がいっぱいで、何を食べたらいいのかわからなかった。


 拓海がニコリと微笑んで告げる。


「じゃあ適当にとってくるね」


 拓海が席を立ち、料理を取りに行った。


 混み合ったレストラン、その人波に消える拓海を見届け、真理は窓に目を向けた。


 身近だが遠かった『みなとみらい』。


 学生時代から知ってはいたが、目の当たりにすると感動すら覚えた。


 遠くでは水平線が見えるほど海が広がり、船が行き交っている。


 『カフェ・ド・アルエット』とは別の穏やかさがそこにはあった。


 浮足立っていた真理の心が、少しずつ落ち着いて行く。


 小さく腹の虫が鳴る頃、拓海が真理の元へ戻ってきた。


「はい、これが真理の分」


「ありがとう、拓海さん」


「じゃ、食べようか」


 海を眺めながら、真理と拓海は料理を口にしていった。


 ――でもやっぱり、拓海さんは顔がきれいだな。


 みなとみらいという場所にいても浮くほど綺麗な顔立ち。


 先祖が外国の『あやかし』と言っていたが、その影響だろう。


 日本人離れした拓海は、レストランでも輝いて見えていた。


 拓海がフォークを置き、スマホを窓に向けた。


 撮影音がして、画面を確認した拓海がスマホをテーブルに置く。


「何を撮影したの?」


「初めて真理と見た海を、記念にね。

 これでいつでも、今の気持ちを思い出せるでしょ」


 ――何かを言わなきゃ。


 胸が苦しくて、言葉が出てこなかった。


 目の前の拓海という一人の男性に、真理は完全に翻弄されている。


 そんな自分を自覚しながら、真理は平静を装い、食事を続けた。





****


 レストランを出た真理と拓海は、みなとみらいを堪能していった。


 観光客に混じりながら、赤レンガ倉庫までを歩いて行く。


 拓海は『今日の記念に』と、小さな船のキーホルダーを二つ購入していた。


 そのうち一つを真理に手渡す。


「もらってくれる?」


「……うん」


 真理はキーホルダーを、大切にバッグにしまい込んだ。



 遠目ではいつも見ていた大観覧車前を通り過ぎ、ドッグヤードガーデンまで戻っていく。


 付近ではストリートパフォーマーが彫像芸を見せていた。


 人だかりに紛れ、拍手とチップを送る。


 手をつないでランドマークタワーに入り、喫茶店で一息ついた。


「ちょっとお手洗い行ってくるね」


「あ、じゃあ私も」


 化粧室に入った真理は、ミラーの前で洗面台に両手をついて脱力していた。


 ――し、心臓がもたない!


 真理の胸は鎮まることを知らなかった。


 まさか地元横浜、身近なはずのみなとみらいで、こんなデートになるなど思いもしない。


 鏡で顔を入念にチェックしていく――崩れてないよね?


 軽く化粧を直し、髪を整えて気合を入れる。


 ――負けっぱなしじゃないからな!


 真理は気合を入れて、席に戻っていった。

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