第18話

 喫茶店を出た拓海は、真理と一緒にランドマーク内を散策した。


 多様なテナントでにぎわうショッピングモールを、ただ手をつないで歩いて行く。


 大勢の買い物客の喧騒の中、拓海が真理に告げる。


「あっち行こうか」


 二人が一度、ランドマークタワーの外に出る。


 辺りは夕暮れに包まれ、どこか幻想的だ。


 拓海に手を引かれ、一緒に開店扉をくぐる。


 刹那の密室に、真理は息が苦しくなっていく。


 開店扉を抜け、道なりに進んでチケットを買い、エレベーターに乗りこんだ。


 まるで遊園地のアトラクションのような重力を感じながら、外の景色が流れていく。


 上に到着したエレベーターから、拓海が真理の手を引いて降りた。


 人垣の隙間を見つけ、二人で窓際に立つ。


 すっかり日が暮れた横浜の夜景が、真理の目の前に広がっていた。


「うわぁ……高いのね、ここ」


「そりゃあ六十九回だからね」


 真理が拓海に振り向いて尋ねる。


「じゃあ、ここが最上階?」


「違うよ? この上に結婚式場があるんだ。

 いつか、真理を連れていけたらいいね」


 ――待って?!


 頭が真っ白になった真理は、茫然と辰巳を見つめた。


 その琥珀色の瞳は、まっすぐ真理を見つめている。


 穏やかな微笑みを浮かべたまま、拓海が告げる。


「どうしたの? もう少し夜景を楽しもうよ」


 無言でうなずいた真理が、窓に振り返る。


 拓海が無言で真理を背後から抱きしめた。


 肩越しに拓海が告げる。


「ほら、あそこが僕の通っていた小学校だ。

 ……暗くて見えないね」


 真理は何も考えられないまま、ただ黙ってうなずいた。


 拓海が真理の手を引いて告げる。


「ちょっと下見に行こうか」


 真理がきょとんとした顔で尋ねる。


「下見って、どこに?」


 拓海が人差し指を真上に向けた。


「この上だよ。

 最上階のレストランを予約してある。

 一緒に夜景を見ながら、ご飯にしよう」


 ――式場の下見ってこと?!


 ぼんやりとした真理が、小さくうなずいた。


 拓海は満足げな笑顔で、真理を展望レストランへと案内していった。





****


「それじゃ、乾杯」


 シャンパングラスを静かに打ち合わせたあと、拓海が告げる。


「どうかな? 今日一日を楽しんでもらえた?」


 真理はシャンパングラスに口をつけたまま、小さくうなずいた。


 対抗しようと必死に戦ってみたが、拓海のハードパンチャーぶりが際立つだけだった。


 ひとつひとつが胸に重たく響いて行く。


 最後のとどめが、夜景を見ながらの夕食。


 しかも二十八歳の真理を真摯に見つめた、『式場の下見』という口説き文句。


 完全にノックアウトされたことを自覚した真理が、小さくため息をつく。


「もしかして拓海さん、遊び慣れてない?」


 拓海が嬉しそうに微笑んだ。


「どうかな? そう見えたなら、頑張った甲斐があるよ」


 料理を口に運びながらも、拓海は真理を嬉しそうに見つめていた。


 真理はなるだけ夜景に意識を逃がしながら、料理を口にしていく。


 ――まっすぐあの目を見たら、もう戻れない気がする。


 いや、すでに戻れない自分を自覚している。


 それでも踏み込むのが怖くて、これ以上前にも進めない。


「……ずるいよ、拓海さん」


「なにがだい?」


「だって、私ばっかり取り乱してさ」


 拓海がクスリと笑った。


「そんなことはないよ。

 朝、真理を一目見た時から、僕は浮かれっぱなしだ。

 ずっと緊張して、ここまで連れてこれて安心してる」


 真理が拓海に振り返る。


「それ、本当?」


「嘘を言ってるように見える?」


 うっかり拓海の目を見てしまった真理が、そのまま琥珀に吸い寄せられた。


 優しく微笑みその瞳は、確かに真理だけを映し込んでいた。


 ――この人の心を、独り占めできてるのかな。


 負けっぱなしじゃなかった。


 自分だって、相手をノックアウトできていた。


 自尊心を回復させた真理が、ようやくクスリと微笑んだ。


「拓海さん、詐欺師の才能があるんじゃない?」


「そうかな? 僕はないと思ってるんだけど」


 微笑みを交わし合いながら、二人は食事を楽しんだ。





****


 ランドマークタワーを出た拓海が、真理の手を引いて歩いて行く。


「今度はどこに行くの?」


「内緒」


 真理はランドマークタワーの下、ほとんど街灯が無い場所に連れていかれた。


 薄暗がりの中では、あちこちにカップルが座り込んでいる。


 そんな階段を慎重に降りながら、拓海が告げる。


「ほら、見覚えがあるんじゃない?」


「――これ、船?」


「そう、日本丸だ」


 小学校の遠足で、真理も見たことがあった。


 真理が波打ち際の手すり越しに、船を見上げる。


「子供の頃は、もっと大きく感じたのに」


「今見ると、案外小さいよね」


 真理が気が付くと、拓海が背後から真理を抱きしめていた。


 明かりのない暗がりで、拓海が真理の耳元で告げる。


「今日の感想を聞いてもいいかな」


「……内緒」


「あー、ずるいなぁ」


 ――どっちがよ!


 変わらず心を乱してくる拓海に、真理はなんとかもう一矢報いたかった。


 だがこの先に、本当に踏み込んでいいのかと悩む。


『思った時に思ったことをする。それだけじゃ』


 脳裏に優美の言葉がよぎった。


 真理の手が拓海の頬に触れ、そのまま振り向きざまに唇を奪う。


 わずかな時間、二人は互いを味わってから離れた。


「……今日の感想を聞いてもいいかしら」


「……まいった。僕の負けでいい」


 呆然としている拓海に、真理は勝利の微笑を向けた。


 拓海が困ったように笑い返す。


「このあと、とっておきの場所があるんだ。

 最後にそこに行こうか」


「ええ、いいわ。

 今度はどんな場所かしら」


 拓海は真理の手を引き、再び歩きだした。





****


 桜木町駅から続く静かな裏通りを、真理は拓海と手をつないで歩いていた。


 辺りを見回しながら真理が告げる。


「ここって、オフィス街じゃないの?」


「そう思うでしょ? ――ほらあそこ。見える?」


 拓海が指さした先には、小さな立て看板があった。


 看板が照らし出す階段を、拓海は真理を連れて登っていった。



 カランコロンとドアベルを鳴らし、拓海が店の中に入る。


「久しぶり、マスター」


 白いシャツにベストを羽織った髭の男性が、ニヤリと微笑んだ。


「おお、何か月ぶりだ?」


「三か月かな? カウンター、いいかな」


 静かなブルースが流れる店内で、真理と辰巳がカウンター席に座る。


 歴史を感じるくすんだ色のカウンター、照明は少なく、老年のマスターが黙ってグラスを磨いている。


 真理は店内を見回して尋ねる。


「ここは?」


「ちょっとした隠れ家だよ。

 こじゃれてる店も良いけど、スタンダードなバーも良いでしょ?

 ワインでいい?」


 真理がうなずくと、辰巳は「僕はブランデーで」と告げた。


 マスターがグラスを取り出し、ワインとブランデーを注いでいく。


 慣れた手つきでスッと差し出されたグラスを、辰巳が手に取って告げる。


「じゃあ、今夜の君に乾杯」


 真理がクスリと笑みをこぼす。


「なによそれ、ほんとうにキザね」


「だって本当に完敗したからね。

 朝から僕は滅多打ちだ。

 最後にあれじゃ、立ち直れないよ」


 小さく打ち鳴らしたグラス、揺れるワインを真理は口に含んだ。


「――美味しい! なにこれ」


 マスターが得意げに応える。


「ボルドーワインですよ。

 時々現地で買い付けてくるんです」


 拓海がニヤリと笑ってマスターに告げる。


「マスターはのん兵衛だからなぁ」


「マニアと呼んでくれよ拓海」


 二人のやりとりに、クスリと真理が笑みをこぼす。


「仲が良いのね」


 拓海がブランデーを一口飲んで応える。


「こっちに来てから見つけた店なんだ。

 時々来てあげないと、潰れちゃうだろ?」


 マスターが「おいおい、縁起でもないこと言うなよ」とぼやいた。


 真理はクスクスと笑った後、ワインを喉に流し込む。


「ねぇ拓海さん、今日はもうこれでおしまい?」


「そうだね、明日もあるし。

 そろそろいい時間だ」


 静かなブルースだけが、二人の間に横たわった。


 抑えた情感的な歌声が、真理の背中を押していく。


 真理は悩んだ末に、拓海に告げる。


「このあと、飲み直さない?」


「どこでだい? 真理の行きつけがあるの?」


 真理がコトンと頭を辰巳の肩に乗せた。


「女に全部言わせる気?」


「……わかった。

 ワインしかないけど、それでいいかな?」


「あら、拓海さんがいるじゃない」


 拓海がブランデーを呷ってから告げる。


「なんかもう、今日は負けっぱなしだ」


「お互い様よ。魅力的な自分を恨んだら?」


 拓海が会計を済ませ、真理と手をつないだ。


 微笑みを交わし合った二人は、ゆっくりと自宅へ向かい歩きだした。





****


 暗闇の中、真理の手に拓海の手が絡みつく。


 すべてをさらけ出し、体を預けている真理に拓海が告げる。


「大丈夫? 後悔してない?」


「あら、自信がないの?

 大丈夫、ちゃんと魅力的だったわよ?」


「だって僕ら、出会ってから間がなかっただろう?

 もうちょっと時間をかけてから……って思ってたんだけど」


 真理のクスリと笑う声が、暗闇に響く。


「恋に時間なんて関係ないのよ」


「でも――」


 暗闇の中で、拓海の口を真理が塞いだ。


 二人は互いの体温を交換しながら、長い夜を過ごしていった。

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