第4章:大人のデート

第15話

 真理がドレッサーの前で朝の支度をしていく。


 違和感を感じ、ドレッサーで自分の顔をまじまじと見つめた。


 ――やだ、化粧のノリが良い?


 こんなに肌の状態が良いのは、学生時代以来だ。


 三十歳を目前にして、こんな自分に出会えることに驚いていた。


 自分が拓海にときめきを覚えていることを実感しつつ、鼻歌を歌って化粧を施していく。


 イヤリングをしてから仕上がりを確認していく。


 そろそろ、美容院で髪の毛を整えた方がいいかもしれない。


 明日は水曜日で休日、丁度いいだろう。


「――よし!」


 気合を入れて真理は立ち上がった。


 今日という一日を大切にするため、真理はハンドバッグを手に取り家を出た。





****


 カランコロンとドアベルを鳴らし、『カフェ・ド・アルエット』の中に入る。


 カウンターキッチンでは拓海がロースターで豆を焙煎しているところだった。


「おはよう、拓海さん」


「ああ、おはよう真理。

 ――あれ? 化粧を変えた?」


 きょとんとした真理が、拓海に応える。


「別に昨日までと一緒よ?」


 拓海がふわりと微笑んで告げる。


「なんだか、昨日より輝いて見えたから。

 ごめんね、僕の勘違いかも」


 ――やだ、気付かれてる?!


 胸の高鳴りを気づかれないように隠しながら、真理はエプロンをつけていく。


「今日は気分が良いから、そのせいじゃない?」


「そっか。朝食は何が良い?」


「んー、ナポリタンをもらえるかしら。

 あの味、病みつきになるのよね」


 拓海がクスリと笑って応える。


「オーケイ、ちょっと待ってて」


 焙煎を終えた拓海が、厨房に引っ込んだ。


 真理はカウンターに座りながら、静かに深呼吸をしていく。


 ――落ち着きなさい真理。ここで逃したら最後なんだから。


 三十を目前にした焦り。それを感じていない訳ではない。


 前の彼氏との破局は、仕事にかまけて放置したことが原因だ。


 今度こそ自分の魅力でがんじがらめにして、逃げられないようにしなければ。


 大人の女として、自分を磨き続けてきた自信はある。


 目の前に振って湧いた好物件を、逃す手はない。



 拓海が厨房から戻ってきて、真理の前にサラダとナポリタンの皿を二つを置いた。


「コーヒー淹れるよ、マンデリンでいい?」


「うん!」


 声に微妙な媚びが混じる。


 あざとい自分を自覚してしまい、わずかに真理が頬を染めた。


 コーヒーを淹れ始めた拓海を、真理は幸福感と共に見つめていた。





****


 食事をしながら、拓海が真理に告げる。


「明日は休日だけど、真理は予定とかある?」


「予定? ちょっと街を歩いてみようかなって。

 この辺り、実はあまり来たことがないのよね」


 拓海が一瞬考えこんだあと、口を開く。


「よかったらさ、明日映画を見に行かない?

 ほら、今新作の封切してるでしょ。

 初日は過ぎたから、当日チケットは取れると思うんだ」


「映画館なんてあるの?」


「あるよ、ちょっと歩くけど桜木町に。

 伊勢佐木町でもいいけど、遊ぶなら桜木町かな。

 ここは遊ぶ場所に困らないからいいよね」


 真理が住んでいたのは、ローカル線が通っている程度の横浜の田舎だった。


 みなとみらいという場所に何があるのか、あまり興味がなかったのだ。


 遊ぶなら東京に出ていたし、学生時代も横浜駅止まり。


 拓海がクスリと笑った。


「あるよねー、地元民意識って。

 観光地が地元だと、案外知らないんだよね。

 僕もここに住むまで、詳しく知らなかったし」


「でも拓海さん、せっかくの休日なんでしょ?

 遊びに出ても大丈夫なの?」


「あれ? 僕と遊びに行くのが嫌なのかな?

 それなら仕方ない、一人で映画を見に行こうかな」


 ――それじゃ、ナンパされちゃうじゃない!


 真理が唇を尖らせて告げる。


「意地悪ね、そんなに私と映画を見たいの?」


 拓海が軽妙な笑い声をあげた。


「そういうこと。

 僕のリフレッシュに付き合ってくれると嬉しいな」


「……いいけど。

 何時の映画を見るの?」


「んー午前の部でいいんじゃない?

 そこからはのんびり、ランドマークの中でも見ていこうか。

 あそこは案外、色んな店があるんだ」


 ――それって、完全にデートって言わない?!


 真理は澄ました顔で「いいわよ? 午前ね」と応えた。


 拓海がコーヒーを飲み干し、カウンターに戻っていく。


「約束したからね。忘れて寝坊しないでよ?」


「わかってるわよ」


 拓海から見えない場所で、真理の手が細かく震えていた。


 降って湧いた好物件から、転がり込んできたチャンス。


 女の勘が、『ここが勝負所だ』とささやいていた。


 真理は興奮を隠しながら、朝食を済ませていった。





****


 店を開店させ、いつものように穏やかな日常が戻る。


 軽やかなモダンジャズ、コーヒーの香り、そして拓海の微笑み。


 その全てが真理にとって心地良く、『いっそ時が止まれば』とさえ思っていた。


 そんな心地良い空気の中、ドアベルが軽快な音を鳴らす。


「――拓海、ブレンドとショートケーキじゃ」


 入店早々オーダーを口にし、優美がカウンター席のよじ登った。


「はいはい――真理、ケーキをお願い」


 真理はうなずいて厨房に行き、ケーキを手にして優美の元へ向かう。


 ショートケーキを優美の前に置きながら、真理が尋ねる。


「珍しいですね、オーナーがこんな時間にくるなんて」


「野暮用でな。シェアハウスにスマートロックを付けようと思うておる。

 営業がしつこくてなぁ。試しに付けるくらい、応じてやろうかとな」


 拓海がコーヒーを淹れながら告げる。


「スマートロックですか? いつ施工するんです?」


「明日じゃ。なに、元から対応はしておったのよ。

 システム管理が面倒じゃから、跳ね除けておったんじゃが」


 真理が優美に尋ねる。


「じゃあ、私たちが気にすることはないんですね?」


「特にないな。管理人室の施工はせねばならんが。

 その打ち合わせにきておったのよ。

 デジタルキーは管理人が発行してやる。

 それを受け取ってアプリに設定すればしまいじゃ」


 拓海が優美にコーヒーを出しながら尋ねる。


「カードキーも使えるんですよね?」


「そうじゃよ? 併用型じゃな。

 じゃからおんしらは、今まで通りでも構わん」


 ケーキを口に運ぶ優美を見ながら、拓海が告げる。


「じゃあ僕らの外出は予定通りでいいか。

 それでいいよね? 真理」


「そうね、待ち合わせは何時にするの? 拓海さん」


「十五分もかからないから、九時半にエレベーターホールかな」


 優美が真理と拓海に対し、交互に視線を向けた。


「……拓海、何時間か真理を借りるぞ」


「――ええ?! 突然なんですか、いったい!」


 優美がクリームを口に付けたまま、ニヤリと微笑んだ。


「なあに、女には支度というものが必要じゃろ?

 少しは『おとめごころ』を理解せぇ」


 優美がスマホを取り出し、片手でタップしていく。


 真理はあっけに取られながらその様子を見ていた。


 ――私、どこに連れていかれるの?


 優美が真理を見上げて告げる。


「予約が取れたぞ。これを食い終わったら向かうとしよう」


 甘いショートケーキを美味しそうに食べる優美を、真理は不安げに見つめて居た。



 ケーキを食べ終わり、コーヒーを飲み干した優美が告げる。


「では真理を借りてゆく。

 ――ほれ真理、ゆくぞ」


 優美が真理の手を引いて歩きだす。


「どこに行くんですか?」


「知り合いの店じゃ。

 おんしはなんの心配もいらん。

 儂に任せておけ」


 カランコロンとドアベルを鳴らし、真理と優美は日中の街に出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る