第14話

 午前十時になり、『カフェ・ド・アルエット』は今日も開店する。


 カウンターでコーヒーを飲みながら、真理と拓海が同時にため息をついた。


「何とか間に合ったわね……」


「こういう日もあるよ。

 それより、朝ごはんまだでしょ?

 サンドイッチでいいかな?」


 真理がうなずくと、拓海は厨房に消えていった。


 しばらくして拓海がカウンターの中に戻ってきたので、真理も中に入り並んでサンドイッチを食べる。


 気まずい沈黙の中、二人は黙々とサンドイッチを口にしていく。


 ――どうして、私を抱きしめてたんだろう。


 聞きたいが、聞くのが怖い。


 だが、なんとも思ってない相手を抱きしめて寝るだろうか。


 そう思うと、期待が不安を押しのけていく。


 真理が思い切って口を開く。


「あのさ」


「ん? なに」


「……寝ぼけて私のこと、『真理』って呼んだでしょ」


 露骨にあわてた拓海が応える。


「――あれは! なんか耳元で名前を呼ばれた気がして!」


 真理が拓海を見つめて尋ねる。


「名前を呼ばれたら、私を呼び捨てにするの?」


「……その、夢で見ていたシチュエーションだったから、つい」


 真理の喉がゴクリとなった。


「それって――」


 カランコロンとドアベルが鳴り、来客が声を上げる。


「おはよう二人とも。

 昨晩はよく眠れた?」


 真理と拓海が弾けるように入り口を見ると、綾女が笑顔で小さく手を振っていた。


「あ……佐藤さん?」


「綾女でいいわよ、水臭い。

 それより、ブレンドもらえるかしら」


 カウンター席に進む綾女に、あわてて真理が水を出した。


 拓海も素早くコーヒーを淹れ始め、すぐに香ばしい香りが店内を満たす。


 真理がおずおずと綾女に尋ねる。


「ええっと、じゃあ綾女さん。

 昨晩は何がどうなったんですか?」


 綾女がニコリと微笑んで応える。


「最初に村上さんが酔いつぶれてね。

 それを介抱していたマスターを、戸田さんが酔い潰したのよ」


 ――それって、アルハラでは?


 真理は心の中であきれながら告げる。


「私のことも、真理でいいですよ。

 ――それより、昨晩はマスターのこと『拓海さん』って呼んでませんでした?」


「あーそれ?

 プライベートでは名前で呼んでるだけよ。

 でもお店で名前呼びしてると、勘違いされちゃうでしょ?

 だから『マスター』ってちゃんと呼んであげてるの」


 綾女が真理を手招きして耳打ちをする。


「それで、首尾はどうだったの?」


「どうもこうも、なにもありませんよ」


「あら、私たちだってまだ若いのよ?

 行く時がガンガン行っていいんじゃない?」


 まさか、踏み込んだところを綾女に邪魔されたとは言えなかった。


 きっと気まずい空気になっていることを察して、様子を見に来てくれたのだろう。


 そんな綾女に、文句を言う気にもなれなかった。


 綾女は昨晩の様子を楽しげに語りながら、真理や拓海と言葉を交わしていった。





****


 綾女が笑顔で帰ったあと、真理が小さく息をついた。


「戸田さんったら、何のつもりだったのかしら」


 拓海が苦笑を浮かべながら応える。


「直也は、あれで世話焼きなんだ。

 無神経に見えて気を使うタイプなんだよ」


 ――あれで?


 戸惑う真理が告げる。


「世話焼きって、それでマスターを潰れるまで酔わすの?」


 拓海がフッと笑って告げる。


「それより、コーヒーの淹れ方を教えようか。

 こっちにきて。手順を教えるから」


 はぐらかされた気がした真理は、少し不満げにカウンターに入った。


 お湯の沸かし方、コーヒーサーバーの温め方やコップの温め方。


 コーヒー豆の挽き方からお湯の注ぎ方まで。


 一通りを丁寧に教えられていく。


 時折添えられる手に、真理は胸の高鳴りを抑えられなかった。


 ――これじゃ、まるで若い子みたいじゃない。


 綾女の『私たちだってまだ若いのよ?』という言葉が耳に残っていた。


 まだ二十八歳、恋愛を諦めるには、まだ早いだろう。


 だが拓海とは出会ってそれほど経っていない。


 そんな相手にグイグイと踏み込めるほど、若いとも思えなかった。


 拓海が笑顔で告げる。


「――そう、その調子。

 その感覚で淹れれば、だいたい美味しくなるから」


「こんなに簡単なの?」


「蒸らし時間で味が変わるんだよ。

 粉の状態で蒸らし時間が変わるんだ。

 それは何度もやってればわかるから」


 真理が淹れ終わったコーヒーをカップに注いでいく。


 二人分のコーヒーをカウンターキッチンに置き、二人で試飲する。


 やや薄味だが、きちんとブレンドコーヒーの味わいがした。


 拓海がニコリと微笑んで告げる。


「合格。初めてでこれだけできれば上等だよ。

 あとは自分なりに、味の変化を試してみるといい」


 真理がはにかみながら応える。


「教え方が巧かったのよ。

 私一人で再現できるか、自信がないわ」


「慣れの問題だよ。

 一週間もすれば、自信もつくさ」


 微笑みあいながら、やはり真理は居心地の良さを感じていた。


 モダンジャズとコーヒーの香りに包まれながら、穏やかな時間が過ぎていく。


 ――こうして、一緒に喫茶店を切り盛りするのも、悪くないのかな。


 綾女の笑顔に後押しされて、真理が思い切って口にする。


「ねぇ拓海さん」


「なに? 村……え?」


 驚いて真理を見つめる拓海に、頬を染めながら真理が告げる。


「その、『マスター』じゃなくて、『拓海さん』って呼んでいいかな」


「えっと……構わ、ないけど。

 でもどうしたの? 急に」


 真理が目をそらしながら告げる。


「……朝、名前を呼んでもらった時さ。

 ちょっと嬉しいなって思って。

 だから拓海さんも、私のこと『真理』って呼んでもらえる?」


 胸の鼓動がうるさい時間に耐える真理に、拓海もはにかんで応える。


「いいのかな……じゃあ、改めてよろしくね、真理」


「うん、よろしく拓海さん」


 真理は照れをごまかすようにコーヒーを口にした。


 そんな真理を、拓海は嬉しそうに見つめて居た。





****


 一緒に昼食の賄いを食べ、静かなひと時を過ごしていく。


 時折訪れる客や、優美の接客に対応し終わると、時刻はもう午後四時過ぎだった。


 拓海が時計を見上げて告げる。


「今日は早く閉めちゃおうか。

 ジムはどうする?」


 真理が拓海に振り向いて応える。


「私は行くつもりだけど。

 やることがあるなら、拓海さんは無理に付き合わなくていいわよ?」


「いや、それなら一緒に行こうか。

 ちょっと体からアルコールを抜かないと」


 真理がクスリと笑って応える。


「まだお酒が残ってるの?」


「もう年かなー。

 学生時代より、お酒に弱くなった気がする」


 クスクスと笑いながら、真理が告げる。


「じゃあ、立て看板しまってくるわね」


「頼むね」


 拓海が閉店処理を進めていき、真理も立て看板を店内に回収した。


 二人が並んで店を出て鍵を閉める。


 黙ってエレベーターに乗りこみ、四階で拓海が降りる。


「それじゃ、またあとで」


 エレベーターが昇っていき、お互いの姿が見えなくなるまで見つめ合っていた。





****


 ジムで共に汗を流し、シャワーのあとで閉店後の雑務をこなす。


 すべてが終わってまた二人でエレベーターに乗り、真理は自宅に戻った。


 シャワーのあと、真理はパジャマに着替えてからビールを手に取り、ソファに腰かける。


 ――今日の私、頑張った!


 勢いよく缶ビールの栓を開け、喉に流し込んでいく。


 一息ついて、今日一日を振り返っていた。


 自分の名前をあれほど想いを込めて呼ばれたのなど、いつ以来だろうか。


 勘違いではない手応えを、拓海の言動から感じていた。


 ――もしかしたら、最後の春かも。


 そんな思いで浮かれ気味に缶ビールを空にした後、スキンケアをしてからベッドに入る。


 これから訪れる毎日を思い描き、酔いに身を任せて真理は心地良く寝息を立て始めた。

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