第13話

 三本目の缶ビールを開けた瞳が真理に告げる。


「そう、大変だったのね」


 真理の失業話を聞いた瞳は、とろんとした目で真理を見つめた。


 どうやら瞳も、酒に強いとは言えないようだ。


 綾女が瞳から缶ビールを取り上げて告げる。


「今日はそれぐらいにしておきなさい?

 まだ原稿が残ってるんでしょう?」


「だーいじょうぶだって!

 私の手にかかれば、原稿の十ページやニ十ページ!」


「それで締め切り間際に『手伝ってくれ』って泣きついても、今度は知らないからね」


 構わず缶ビールを手に取りかえした瞳が、一気に飲み干していく。


 綾女はため息をつきながら、総菜をつまみつつビールを口にしていた。


 真理が綾女に尋ねる。


「佐藤さんは、締め切りは大丈夫なの?」


 綾女がニコリと微笑んで応える。


「私はいつも締め切り厳守よ。

 遅れたことは一度もないわ」


 ――担当編集者が羨ましい!


 締め切りを守れないライターも珍しくはない。


 入校ラインをギリギリオーバーしてデータを受け取る事など、ざらにあったのだ。


 前職の嫌な思い出をビールで喉に流し込んでいく真理に、拓海が心配そうに告げる。


「村上さん、ちょっとペースが速くない?

 お水持ってこようか?」


「大丈夫よ、これぐらい!

 それよりおつまみが少ないわね。

 ちょっと買ってきましょうか?」


 立ち上がりかけた真理を、拓海が座らせた。


「そんなに酔ってたら危ないから。

 僕が買ってくるよ」


 直也が立ち上がって拓海に告げる。


「気にするな拓海! 俺が買ってくる!

 お前は村上さんを介抱しておけ!」


 綾女も立ち上がって「私も行くわ」と直也の後を追った。


 厚樹はもう酔いつぶれ、床で涙を流しながら寝ている。


 瞳はマイペースでビールを飲みながら、楽しげに微笑みを浮かべていた。


 拓海が小さくため息をつく。


「これ、僕が酔っぱらったらダメなパターンじゃない?」


 つぶやきつつも拓海は、真理が飲み過ぎないように気を配り続けた。





****


 真理がふと気が付くと、周囲が静かになっていた。


 見回すと綾女や瞳、厚木や直也の姿が無い。


 ――マスターは?


 そう思った時、自分が誰かに寄りかかっているのに気が付いた。


 厚い胸板から、静かな呼吸の気配がする。


 真理がおそるおそる上を見上げると、うとうとと眠っている拓海の顔があった。


 声にならない声を上げながら、拓海からあわてて離れようとする――が、拓海の腕が真理を抱き寄せ、離れられなかった。


 何が起こってるのかわからない真理の目が、テーブルの上のメモを見つけた。


 『あとは頑張れ』と、豪快な字で書き記されている。


 ――この字、戸田さんだな?!


 酔いで身体に力が入らず、拓海の腕を振り切れそうにない。


 真理はため息をつき、手を伸ばして卓上のエビチリを口に運んだ。


 どうしたらいいのか、真理には思いつけない。


 このまま身を寄せるのは心地よかった。


 だけど拓海が目を覚ました時が怖いのだ。


 気まずい関係になりたくはないが、無理に手を振り払うのも気が引けた。


 ――どうしよう。


 悩みながらエビチリを食べ切り、真理は開き直った。


 その手が未開封の缶ビールに伸び、勢いよく栓を開ける。


 追い酒を喉に流し込んでいく真理は、すぐに眠くなり拓海の胸に頭を預けた。


 拓海の匂いに包まれたまま、真理は意識を手放していった。





****


 夜が明け、空が白み始めた頃、拓海の目がゆっくりと開いた。


 自分の腕の中で眠る真理に気付き、頭の中が真っ白になっていた。


 周囲を見回し、仲間が全員帰宅済みなのを確認する。


 そしてテーブルに残された直也のメモを見て、拓海はため息をつく。


「頑張れって言われても、どうしろってのさ」


 つぶやいた後、真理が自分に身を預けているのに気が付いた。


 拓海が抱き寄せただけじゃなく、真理から身を寄せて来ている。


 ――もしかして。


 そんな淡い期待が胸を焦がす。


 悩んだ拓海は、真理を正面から抱きかかえるように抱き締め、真理に頭を預けて目を閉じた。


 互いに体を預け合う二人。


 拓海は鳥のさえずりを聞きながら、再び眠りに落ちていった。





****


 真理がアラームの音で目を覚ます。


「……誰のアラーム?」


 音の発生源は、テーブルの上。拓海のスマホだ。


 ――そういえば、寄りかかって寝たんだ……っけ?


 違和感に気が付き、真理は愕然とした。


 真正面からしっかりと拓海に抱き寄せられ、頭を預けられていた。


 年甲斐もなく胸が苦しくなり、鼓動が胸から飛び出そうだった。


 深呼吸を何度かして、拓海の顔を見る。


 気持ちよさそうに寝ている拓海に、小声で告げる。


「マスター、アラームなってるわよ」


 拓海はわずかに反応したが、起きる様子が無い。


 学生時代を思い出しながら、真理が思い切って告げる。


「……拓海さん、朝だよ」


「ん……真理、あと五分待って」


 興奮で口を押さえ、拓海の胸に顔をうずめた。


 ――真理って! マスター、もしかして私のこと?!


 次第にスヌーズでアラームの音が大きくなる。


 ゆっくりと目を開けた拓海が、寝ぼけた目で真理を捉えた。


「……おはよう、真理」


「……おはよう、拓海さん」


 一瞬の静寂――次の瞬間、あわてた拓海が真理から体を離した。


「うわぁ?! ごめん、村上さん!」


 真っ赤になった真理が首を横に振った。


「ううん、平気。

 それより、時間じゃないの?」


「――あ! ごめん、店に行かないと!」


 拓海がその場でシャツを脱ぎ捨てた。


 真理の鼓動が跳ねあがる。


 拓海はクローゼットから新しいシャツを取り出し、手早く着ていく。


「カードキー、置いて行くから!

 部屋を出る時、店まで持ってきて!」


 テーブルの上にカードキーを置いた拓海が、スマホを手に取りあわてて駆け出した。


 乱雑な足音と玄関ドアが閉まる音で、部屋に静寂が訪れる。


 真理はずるずるとソファからずりおち、深いため息をついた。


「……襲われるかと思った」


 頭を振ったあと、真理は拓海の部屋のカードキーを手にして、部屋をあとにした。





****


 シャワーを浴びて着替えた真理が、『カフェ・ド・アルエット』の前にいた。


 深呼吸をしてからドアノブに手をかけ、思い切ってドアを開ける。


「――おはよう、マスター!」


 厨房の奥から「おはよう!」という拓海の声が返ってくる。


 真理が開店前の準備を進めていると、厨房から拓海が顔を出した。


 気まずそうに拓海が告げる。


「ごめん、村上さん。

 酔った勢いであんなことして」


 真理はあわてて首を横に振った。


「大丈夫、お互い様でしょ?

 ――もう、戸田さんたち、起こしてくれてもいいのに」


 直也の残した『あとは頑張れ』というメモがまぶたの裏によぎる。


 拓海は苦笑を浮かべながら応える。


「あいつ、へんなところで気を回すから。

 それより、急いでシャワーを浴びてくるよ。

 その間、ここを任せて大丈夫?」


 真理ははにかみながら頷いた。


「ええ、平気よ。

 それより急いで。あと三十分切ってるわ」


 真理がカードキーを拓海に返す。


 拓海は時計を見ると、あわてて店の外へ駆け出していった。


 開店準備を終えた真理が、カウンター席に座る。


 そのままカウンターに腕枕をして、朝の感触を思い出していた。


 ――『真理』って、呼んでた。


 寝ぼけた拓海が漏らした言葉。


 その意味を、拓海の体温の記憶と共にゆっくりと噛み締めた。

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