第10話

 カウンター席で真理が拓海と会話を弾ませていく。


 互いの大学時代の話や、高校時代の話。


 よくある何気ない進路の悩みや、淡い恋の話まで。


 微笑みあう二人の会話を切り裂くように、ドアベルが軽快な音色を響かせる。


「――おや、邪魔をしたかな?」


 姿を見せた優美を、あわてて真理が迎える。


「オーナー! どうしたんですか?」


 優美がニコリと微笑んで応える。


「いつも通り、甘味を食べに来た」


 真理が案内するよりも前に、優美はカウンター席に座る。


 カウンターの中に入った拓海が「ブレンド?」と尋ねた。


「そうじゃな、それとイチゴのタルトを所望しようか。

 ――どうじゃ? 真理。少しは慣れたか」


 真理が優美に向き直り、深々と頭を下げる。


「ありがとうございます。

 ジムの手続きまでしていただいて」


 コロコロと笑いながら優美が応える。


「従業員の福利厚生に気を配るのも、オーナーの役目じゃからな。

 ――ほれ、何をぼうっとしておるか。

 拓海はコーヒーを淹れておって手が離せん。

 こういう時に真理が料理をとってこい」


 ハッと気づいた真理が、あわてて厨房に駆け込んだ。


 業務用冷蔵庫の中からイチゴのタルトを一切れ取り出し、皿の上に乗せる。


 銀色のトレーに乗せたタルトを、静かな足取りで優美の元に届けた。


 コトリと置かれた皿に、優美がにんまりと微笑む。


「次はもっとはよう持ってこよ。

 じゃが拓海一人で切り盛りするより、待ち時間が少ない。

 これは投資のし甲斐があったというものじゃ」


 優美はフォークを手に持ち、美味しそうにイチゴのタルトを口運んでいく。


 真理はそのそばで、おずおずと尋ねる。


「でも、これだけのために私の世話を?」


「ついで、という奴じゃな。

 前も言ったであろう? 『趣味じゃ』と。

 趣味と実益を兼ねた投資じゃ」


 拓海がブレンドの入ったカップを優美の前に置く。


「オーナー、それで今日の味は?」


「んー、七十点といったところかの。

 まだまだ泰介の味には届かんな」


 不機嫌になった拓海が優美に告げる。


「あのレシピ、大雑把すぎるんだよ。

 親父の奴、もう少し細かく教えてくれてもいいのに」


「なに、『泰介からの宿題』とでも思うておけ。

 ここから先は、拓海が自力で辿り着いてみせよ。

 時間はある。焦ることもなかろう」


 楽しげに笑う優美の声が、店内のジャズと混じっていった。





****


 優美が身軽にカウンター席から飛び降りて告げる。


「邪魔したな。ではまた来る」


 来た時と同様に、唐突に優美は店から出ていった。


 真理は空になった皿とカップをトレイに載せ、拓海に告げる。


「奥の洗い場で洗ってきますね」


「うん、お願い」


 真理はトレイを厨房の洗い場へと運んでいった。



 食器を洗いながら、真理はぼんやりと考えていた。


 優美が現れるまで、真理は拓海と楽しくおしゃべりに興じていた。


 あの心地良い時間を、もっと味わいたい。


 そんな思いの芽生えを、胸の中に感じていた。



 カランコロンと、遠くでドアベルの音が聞こえた。


 拓海の「いらっしゃいませ」という声も聞こえ、何かを話しているようだ。


 食器を洗い終わった真理は、急いでカウンターに戻っていった。



 拓海がテーブルでオーダーを受けていた。


 席に座っている女性には、見覚えがある――綾女だ。


「佐藤さん! いらっしゃい!」


 真理の言葉に、綾目がニコリと微笑んだ。


「あら、思っていたよりずっと似合ってるわね、そのエプロン。

 今日から出勤と言っていたのを思い出したの」


 拓海がカウンターに戻っていくのと入れ違いに、真理が綾女のそばに立つ。


「それで来店してくれたの?」


「そうよ? 美味しいコーヒーも、気分転換になるでしょう?」


 クスクスと笑いあう二人に、トレーを持った拓海が近づいて行く。


「いつの間に知り合ったんだい?」


 コーヒーとケーキを綾女の前に置く拓海に、真理が応える。


「土曜日、ちょっとジムに行ってみたの。

 そこで知り合ったのよ」


「ああ、なるほど。

 ――でも抜け駆けされたってこと?」


「だって、やることがなくて退屈だったんだもの」


 真理と拓海を見ていた綾女が、薬と笑みをこぼした。


「マスターと村上さん、随分と仲がいいのね」


 真理と拓海が目配せをした後、赤くなって目をそらした。


 言葉にされてしまうと恥ずかしくなる。


 まだ出会って間もない異性に、これほど近づくのを許した覚えはない。


 真理は今までと違う感触を拓海から得ていた。


 拓海が真理の肩を軽く叩いて告げる。


「お客さんの邪魔をしないようにね」


 カウンターに戻っていく拓海の後ろを、真理も静かに追っていった。





****


 会計を済ませた綾女が「また来るわね」と笑顔で立ち去った。


 テーブルを片付けながら真理が時計を見る――午後五時前だ。


 拓海が真理に告げる。


「食器を片づけたら、今日は上がりにしようか」


「ええ、わかったわ」


 真理は厨房へ食器を運び、拓海は店外から立て看板を回収し始めた。



 真理が食器を洗い終わると、拓海はエプロンを脱いでいた。


「今日から一緒にジムに行くんでしょ?」


 真理は戸惑いながら応える。


「そうだけど……閉店してすぐに行くの?」


「この後の雑務を終えてからだと、ジムが閉まっちゃうからね。

 先に事務を済ませてから、店に戻ってくるよ」


「――そんな! 無理に突き合わせるみたいで悪いわ!」


 拓海がニコリと微笑んで応える。


「無理じゃないさ。

 雑務と言っても、大したことじゃない。

 清掃と帳簿づけ、ついでに明日の仕込みぐらいだ」


 ――立派に仕事が残ってるじゃない。


 肩を落としている真理の背中を、拓海が優しく叩いた。


「僕としても、立ちっぱなしは疲れるからね。

 軽く汗を流して、気分転換みたいなものさ」


「……ごめんなさい、気を使わせて」


 拓海がきょとんとした顔で応える。


「別に気を使ってる訳じゃないよ。

 村上さんと一緒にジムに通えるのが楽――いや、なんでもない。忘れて」


 少し頬を染めている拓海を見て、真理は思わず笑みをこぼした。


「――そうね、それじゃあジムに行きましょうか!」


 真理と拓海は、エプロンをカウンター席にかけたあと、二人で店を出た。





****


 三階のエレベーター前で、真理はたたずんでいた。


 手にはジム用具が入った白い手提げ袋。


 ここで拓海と待ち合わせているのだが、五分待っている。


 六分経ち、七分が経つ頃、ようやくエレベーターから拓海が姿を見せた。


「――ごめん、ちょっと電話が入っちゃって」


 真理は微笑んで首を横に振った。


「ううん、私も今きたところ」


「そう? じゃあ行こうか」


 二人で並んで靴を履き替え、エントランスの先に進む。


 にやけ笑いを我慢している受付の女性の前を通り過ぎ、二人は男女別の更衣室に入っていった。


 更衣室でスポーツウェアに着替えた真理と拓海が、入り口で落ち合う。


「今日はどうする?」


「ランニングマシンにしましょう」


 うなずいた拓海と一緒に、真理はトレーニングルームへと向かった。

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