第3章:春の予感

第9話

 スマホのアラームが鳴り響き、真理があわてて起き上がった。


 アラームを止め時刻を確認する――午前六時。


 今日は月曜日、初出勤の日だ。


 シャワーを浴び、身支度を済ませて気合を入れる。


「――いよし!」


 黒いスラックスに白いブラウスを合わせ、ハンドバッグを手に玄関を出た。



 エレベーターの中で時間を確認する――午前九時、五分前だ。


 ――ちょっと早いかな。


 わずかな不安を胸に、『カフェ・ド・アルエット』のドアノブに手をかけた。


 軽快なドアベルと共にドアが開き、真理はゆっくりと店内に入る。


「……おはようございます」


 カウンターで準備を進めている拓海が、クスリと笑った。


「なにを怖がってるの?

 もう何度も来てるでしょ。

 ――おはよう村上さん」


 カウンターから出てきた拓海が、真理の前に立つ。


「じゃあ今日から従業員として、僕はマスターとして接するよ。

 わからないことがあれば遠慮なく聞いて。

 ――ああ、朝ごはんは食べた?」


 真理が応えようと口を開けると、声の代わりに腹の虫が応えた。


 楽し気に笑いだした拓海が告げる。


「じゃあ、開店前に賄いを出すね。

 何か希望はある?」


 真理が真っ赤な顔で応える。


「……サンドイッチ」


「了解、ちょっと待ってて」


 厨房に消えた拓海の背中を目で追った後、真理は店内を見回した。


 開店前の喫茶店。ここが新しい職場だ。


 店内に置いてある立て看板を見つめながら、真理は新生活の実感を感じていた。


 拓海が厨房から戻ってきて、カウンターにサンドイッチが乗った皿を二つ置いた。


「コーヒー、マンデリンでいい?」


「――ああ、うん。お願い」


 拓海が流れる動きでケトルを沸かし、コーヒーを淹れる準備を進めていく。


 挽かれたコーヒーの上にお湯を注ぐ拓海を、真理はカウンター席からぼんやりと見つめて居た。


 ――いいなぁ、バリスタ。やっぱりちょっとかっこいいかも。


 真理の視線に気づいた拓海が、チラリと横目で真理を見る。


「どうしたの? 何か気になることでもあった?」


「――ううん、そういう訳じゃないんだけど。

 バリスタって、簡単になれるの?」


 コーヒーをカップに注いだ拓海が、カウンターから出てきて応える。


「資格を取ろうとすると大変かもね。

 でも店でコーヒーを淹れるくらいなら、簡単だと思うよ」


 真理の隣に座った拓海が、それぞれの前にコーヒーを置いた。


「……いただきます」


 サンドイッチを食べ始めた真理の姿を、拓海が微笑みながら見守っていた。


「……何よ、顔に何かついてる?」


「いや、なんだか新鮮だなって。

 前の人は年上だったからさ。

 同年代の人と働くとは思わなくて」


 見られてることに気恥ずかしさを感じながら、真理はサンドイッチにかじりついた。





****


「立て看板を出しておいて!」


「はい!」


 真理は拓海に言われた通り、立て看板を外に運び出す。


 コンセントを探してプラグを差し、一息ついて店内に戻った。


 カウンターの洗い場で手を洗っている真理に、隣にいる拓海が告げる。


「似合ってるね、エプロン」


「そう? ありがとう」


 他愛ない言葉を交わした真理は、拓海に向き直って告げる。


「あとは何をしたらいいの?」


「喫茶店の接客の仕方はわかる?」


 これまでの人生、喫茶店なら何度も利用してきた。


 真理は自信をもって「ええ、大丈夫」と応えた。


 拓海がニコリと微笑んで告げる。


「それなら、あとはもうお客が来るまで待つだけだよ。

 カウンター席で座って、ゆっくりしていて」


 拓海が有線放送の機材を操作し、モダンジャズが流れだす。


 静かなサックスの音色を聞きながら、真理は拓海の隣に座った。


 穏やかな空間で、共にコーヒーを飲む時間が過ぎていく。


 そんな空気を破るように、真理が口を開く。


「あの……マスター、ちょっと聞いていい?」


「なにかな?」


「前に付き合ってた女性とか、居るの?」


 拓海がクスリと笑みをこぼした。


「どうしたの? 急に」


「……ちょっと自分に自信がなくてさ。

 前の彼氏は、仕事にかまけて構わなかったら、浮気されちゃった。

 そのまま自然消滅――私って、その程度なのかなって」


 拓海が黒いコーヒーの水面を眺めながら応える。


「よく聞くよね、そういうの。

 でもそれは仕方がなかったんじゃない?

 どっちが悪いって言うより、生活が合わなかったんだよ。

 結婚してたって、すれ違えば離婚するじゃない?」


「それは……そうなんだけど」


「大丈夫、村上さんはちゃんとチャーミングだから。

 そんな小さなことで自信を無くす必要なんて、全然ないでしょ」


「……うん」


 拓海がコーヒーを飲み干してから告げる。


「ちょっと料理の仕込みをしてくるね。

 お客がきたら、お水を出してオーダーを受けてから僕に知らせて」


「――あ」


 厨房に消える拓海の背中に、真理の手が伸びた。


 そのまま姿を消した拓海に向かって、真理は小さくため息をつく。


 ――聞きそびれた。


 女性経験がないようには見えなかった。


 相手とどんな付き合い方をしてたのか、聞いてみたかった。


 なぜ自分がそんな気持ちになったのか。


 そんな気持ちを持て余しながら、真理はコーヒーを一口飲んだ。





****


 客が来ない時間を、真理はスマホを操作して過ごしていた。


 ――なるほど、これは読書が趣味になるかも。


 店内で待機しなければいけないが、派手なこともできない。


 読書あたりが無難な落としどころに思えた。


 昼を告げる壁時計の音色と共に、拓海が厨房から姿を現す。


「――村上さん、どう? 初勤務の気分は」


 真理は苦笑を浮かべて応える。


「思ったより暇なのね、喫茶店って」


「今日は平日だからね。

 大通りに面してれば、ビジネスマンも利用するんだろうけど」


 この店が面している通りは、太いが歩道が狭い。


 混んでいる他の店を避けた客が流れつくのを待つ――そんなスタイルなのだろう。


「ねぇ、どうしてこんな場所にお店を構えたのかしら」


「僕に聞かれてもなぁ……オーナーに聞いてみたら?」


 言われてみれば、この店は拓海も父親から受け継いだものだ。


 出店理由など、わかる訳もないのだろう。


 ため息をつく真理に、拓海が告げる。


「賄い、出すよ。

 何か食べたいものはある?」


「……そうね、カレーライスは試してなかったわ」


「オーケー、すぐに用意するよ」


 真理はカウンター席に腰かけながら、モダンジャズの音色に身を任せた。





****


 カウンターの中でカレーを食べる拓海の隣で、真理も立ってカレーを食べていた。


「別に僕の真似をしなくても大丈夫だよ?

 二人いれば、お客が来たときにお皿を下げるくらいはできるし」


「マスターが心がけてることを、私が崩すわけにもいかないでしょ。

 きちんと私も、この店の従業員として心がけるわ」


 拓海がクスリと笑った。


「村上さんは真面目だね。

 前の彼とも、そんな感じだったの?」


「……そうだったかも。

 やっぱり窮屈なのかしら」


「それは相手次第じゃない?

 僕は別に、村上さんが窮屈な人だとは思わないし」


 ――それは、どういう意味なんだろう。


 ほのかな希望が胸に灯る。


 それを自覚した真理が、誤魔化すようにカレーを口に運ぶ。


 二人で静かにカレーを食べ終わると、拓海が真理に告げる。


「この際だから、食器の洗い方を教えておこうか」


「……うん」


 真理はトレーを持った拓海の背を追って、厨房の中に消えていった。

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