第8話

 賄いのミートソーススパゲティを食べながら、真理が告げる。


「悪いわね、働く前から賄いなんて」


 拓海がニコリと微笑んだ。


「僕の昼飯だって必要なんだ。

 一人分も二人分も変わらないよ」


 拓海はカウンターの中で立って食事をしていた。


 それが拓海なりの、昼食の取り方らしい。


 店内に客はいない。


 隣の席が寂しく感じた真理が、拓海に告げる。


「ねぇ、座ったら? 立ったままなんて行儀悪いわよ?」


「お客さんがきたら、対応しなきゃいけない。

 そんな時に食べかけの料理をカウンターに残しておけないだろ?」


 ――けじめをつけるタイプ、か。


 飲食店を任される身として、きちんと自分を律している。


 それを拓海の言動から感じて、真理の頬が自然と緩んだ。


 拓海がニコリと微笑んで真理に告げる。


「どうしたの? いいことでもあった?」


「――なんでもない、これ美味しいなって」


 拓海が満足げにうなずいた。


「そのミートソースも、親父直伝なんだ」


「……お父さんから、どのくらい教わったの?」


 拓海が目を落としながら応える。


「大学生の間は、こまごまと教わってたよ。

 今のメニュー、半分くらいかな。

 残りはオーナーが親父からレシピを聞き出してたみたい」


「そう……」


 優美のお節介は、際限がないらしい。


 あるいは店の味を残すことを考えて行動していたか。


 それがたまたま、父親が急死した拓海を救った形なのかもしれない。


 スパゲティを食べ終わった真理が席を立った。


「ごちそうさま、ありがとう」


「お粗末さま、また夜も来るんだろう?」


「……来て、いいの?」


 拓海が優しい目で真理を見た。


「もちろん! あ、お客さんがいる時は、こっそりね」


 真理はクスリと笑って「じゃあ、また後で」と店を出た。





****


 部屋に戻った真理は、パンフレットを眺めていた。


 ジムの申込書類と一緒にもらったものだ。


 ――体験入会か。言ってみるかな。


 食後の腹ごなしとばかりに、真理はスポーツウェアに着替えた。


 そのままルームシューズを片手に玄関を出た。



 三階に降りた真理が、受付の女性を見つけて声をかける。


「朝はありがとう、体験入会してもいいかしら?」


「あら、体験でいいんですか?

 優美さんから、もう今月分の月謝は前払いで頂いてます。

 『書類はあと回しでいいじゃろ?』ってオーナーに押し通しちゃいました。

 なので村上さんは、もう会員ですよ?」


 さすがの手回しに、真理は少し呆然としていた。


 ――お節介にも、程が無いかなぁ?


 結局、次の機会に必要書類を用意するという話で落ち着いた。


「インストラクターが必要なら、声をかけて下さい。

 マシンを利用するだけなら、一人でも大丈夫ですよ」


 私はうなずいて、小躍りする胸を抑えながらトレーニングルームに向かった。





****


 真理は、朝に見学したトレーニングルームを覗き込んだ。


 まだ午後一時過ぎ、この時間の利用者は多くないようだ。


 ランニングマシンを使う女性が一人、リズミカルに呼吸を刻んでいた。


 五つ並んだマシンの端を選び、真理はマシンに乗る。


 端末はシンプルなタイプで、走る速さを指定するだけのものだ。


 試しに一番遅い速度でマシンを動かす――すぐに真理の足元が回転を始めた。


 ウォーキング程度の速度で歩きながら、真理は目の前に広がる大きな窓を眺める。


 ビルに挟まれた大通り、その向こうには山下公園が覗ける。


 ――なるほど、悪くない眺めね。


 ウォーミングアップを終えた真理が、一段階ずつ速さを上げていく。


 マシンの上でジョギングをしながら、真理もリズミカルな呼吸を刻んでいった。


 次第に汗ばみ、スポーツウェアの上を脱いで腰に巻き付ける。


 上半身タンクトップになった真理は、そのまま気が済むまで走り込みを続けた。



 三十分が経過する頃、真理はマシンを止め、休憩を取っていた。


 息を整えている真理に、マシンの上で走っている女性が語りかける。


「あなた、見ない顔ね。新しい人?」


 真理が女性を見ると、こちらを見ながら笑顔でジョギングを続けていた。


 長い髪をポニーテールで縛り、馬のように揺らしながら走っている。


「ええ、村上真理よ。あなたは?」


「佐藤綾女よ。

 こんな時間に利用するなんて、珍しいわね。

 村上さんも特殊職業なのかしら」


 真理はきょとんとした顔で聞き返す。


「特殊な職業って、何かしら」


「会社勤めじゃない、という意味だけど。

 もっと広い意味で取っても良いわよ?」


 クスクスと笑う女性――綾女に、真理は半笑いで応える。


「月曜から一階の喫茶店で店員をやることになってるの。

 だから今は、ちょっとしたモラトリアムみたいなものね。

 ――佐藤さんは?」


「私はライター業なの。

 部屋にこもって書いていると、体が鈍るでしょう?

 だからこうして気分転換をしにきてるの」


 真理はおそるおそる尋ねてみる。


「ライター業って、儲かるの?」


「アハハ! ものによるわね!

 でも私はジムに通える程度の稼ぎはあるわよ?

 村上さんの住まいはどの辺?」


「私は五階だけど……佐藤さんは?」


 綾女の表情がパッと明るくなった。


「あらやだ! 同じシェアハウス住まいなの?!

 私も五階よ。二号室なの」


「――嘘、お隣さん?!

 私、一号室よ!」


 綾女が目を見張って真理を見た。


「……一号室って、一人部屋じゃない。

 あなたお金持ちなのね」


「そういう訳じゃないんだけど……ちょっとね。

 オーナーと顔見知りで、入れてもらったの」


 綾女がランニングマシンを止め、手すりに肘を乗せた。


「ってことは、村上さんも『あやかし』混じりなの?」


「私『も』って……佐藤さんこそ『あやかし』なのかしら。

 オーナーのこと、知ってるの?」


 綾女がニコリと微笑んで応える。


「優美さんなら、何度か会ってるわよ?

 でも村上さん、『あやかし』の気配がしないわね。

 よっぽど血が薄いのかしら」


 真理は苦笑をしながら応える。


「私は人間、『あやかし』じゃないわ。

 少なくともそう思って生きてきたもの」


「ふーん……その割には、優美さんが見えたのね?

 人間でも稀に『あやかし』を見る人はいたらしいけど。

 村上さんはどちらなのかしらね」


「どちらでもいいじゃない?

 ――私はそろそろ行くわ。

 何かあったら、お隣同士よろしくね」


 綾女も笑顔で「ええ、機会があれば」と応えた。


 真理は用意しておいたタオルで汗を拭きながら、トレーニングルームから出ていった。





****


 真理は自宅に戻り、シャワーを浴びていた。


 毎日利用するのに、不満はなさそうだ。


 清潔感のあるジムは、真理に好印象を与えていた。


 今回は利用しなかったが、今度はシャワールームを利用してもいいかもしれない。


「――ふぅ」


 シャワーを止め、一息ついた。


 下着姿になり、ベッドに移動し横たわる。


 ――あと一時間くらいかな。


 夕食までの短い時間を、心地良い疲労感に任せて微睡を楽しんだ。



 真理が目を覚ますと、午後六時をだいぶ過ぎていた。


 エアコンは利かせていたが、すっかり体が冷えている。


 軽いくしゃみをした後、真理は服を着てから玄関を出た。


 ――晩御飯は何が出るかな。


 今夜の賄いを楽しみにしながら、真理はエレベーターを下っていった。

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