第7話
「はい、おまちどう。ナポリタンとコーヒーね」
拓海がスパゲティの皿とコーヒーの入ったカップを真理の前に置いた。
真理が弾けるように拓海を見上げて告げる。
「――あの! えーと、昨夜は本当にごめんなさい」
拓海はニコリと微笑んだ。
「いいよ、気にしないで。
きっと飲んで吐き出したいことがあったんでしょ?
誰だってそういう時はあるから」
黙ってうなずいた真理が、コーヒーに口を付ける。
その味に驚いたように真理が告げる。
「これ、ブレンドじゃないの?!」
その味は初日、真理が勧めてもらったマンデリンだった。
すっきりとした苦みと芳醇な香り。間違える訳がない。
「村上さん、ブレンドを飲むとき、なんだか『いまいち』って顔してたからね。
たぶんこっちの方が良いんじゃないかと思って」
自分の表情が気づかないところで観察されていた。
そのことに、真理は恥ずかしくていたたまれない気持ちになっていた。
そんな真理の気配を察したのか、拓海はさっさとカウンターに戻っていく。
「――あ」
真理はその背に手を向けたが、拓海は気にすることもなく開店準備を進めていった。
優美がクスリと笑う。
「どうした? ナポリタンが冷めてしまうぞ?」
「……うん」
ゆっくりと手を下ろした真理は、黙ってフォークを取り、ナポリタンを口にした。
****
ナポリタンを食べ終わった真理が「ごちそうさま」と告げた。
優美もコーヒーを飲み干して告げる。
「ではジムに行こうかの」
真理はうなずいて会計を済ませると、拓海に「またね」と告げて店を出た。
拓海は黙って真理たちが傷テーブルを片付けながら、昨晩のことを思い出す。
――昨晩の真理さん、可愛かったなぁ。
あんな風に女性に甘えられたことなどない。
男の矜持で過ちは犯さずに済ませたが、煩悩を刺激されなかったとは言えない。
酔って自分に体重を預ける真理の感触が、まだ肩に残っていた。
頭を軽く振った拓海はトレーに空の皿とカップを載せ、カウンターに戻っていった。
****
真理と優美を乗せたエレベーターが三階に止まった。
優美が真理の手を引きながら先導した場所は、明るいエントランスだった。
受付の女性が驚いたように告げる。
「あれ、優美さん? どうしたんですか、いったい」
「なに、ほかの会員が来る前に見学させようと思うてな。
儂の知り合いじゃ、紹介割引は効くな?」
受付の女性がおずおずとうなずいた。
「優美さんの紹介なら、通ると思いますけど。
――じゃあ、こちらへどうぞ」
受付の女性がスリッパを用意して、真理と優美の前に置いた。
二人は靴を脱いでスリッパに履き替え、中に案内されて行く。
ソファが置いてある待合スペースを抜けると、更衣室に案内された。
シャワールームが併設されているタイプだ。
「通常はこちらで着替えて頂きます。
スポーツウェアで来店される場合は、靴以外そのままでも大丈夫ですよ」
脱衣所のあとは白い床が輝くトレーニングルームへ向かう。
ランニングマシン、エアロバイク、フリーウェイトエリアなど、順に見ていく。
あまり大掛かりな機材はなく、ある程度に人数が基礎的なトレーニングを積めるような場所だ。
次に案内されたのはスタジオルームだった。
広々とした場所を受付の女性が手で示して告げる。
「ここではヨガと、エアロビクスを行っています」
部屋の隅にはヨガマットが積み上げられている。
主に女性利用者をターゲットにしたジムなのだろう。
最後に受け付けそばの売店も案内された。
こまごまとしたトレーニング用品を扱っているようだ。
「ちょっとした物ならここでそろいます。
それ以外は二回がスポーツショップになってますから、そちらを見て回ると良いですよ」
優美が真理に振り返って告げる。
「どうじゃ? 悪くない場所じゃろう?」
真理がうなずきつつ、受付の女性を見た。
「いい場所だけど、オーナーの姿、見えてるの?」
受付の女性がきょんとしたあと、クスクスと笑いだした。
「ええ、見えてますよ。
私も『あやかし』まじりですから。
ここのオーナーも同じです」
「そ、そう……」
真理の常識がガラガラと音を立てて崩壊していく。
この場所だけが特異なのかもしれないが、こうも身近に『あやかし』が何人も見つかった。
優美が言う通り、『石を投げれば当たる』程度には、『あやかし』が身近なのかもしれない。
受付の女性が「ちょっと待っていてくださいね」と事務所に引っ込み、すぐに戻ってきた。
「こちら、入会申込書です。
利用当日までに提出してください。
優美さんのサインがあれば、紹介割引できると思います」
「どうも……」
真理はおずおずと書類を受け取り手に持った。
優美が真理に告げる。
「ほれ、次は二階のスポーツショップじゃ、ゆくぞ」
「――え?! これから?!」
「金のことなら気にするでない。
このくらいはおごってやる」
真理の手を引く優美が、エレベーターに消えていく。
二人を乗せたエレベーターは、舌へと下っていった。
****
自宅に戻ってきた真理は、肩を落としながらベッドに横になった。
その手にはスポーツショップの袋――中にはスポーツウェアと、ルームシューズの一式。
真理がぼそりと告げる。
「まさかこのビル、テナント全部が『あやかし』経営じゃないでしょうね……」
だが助かったのも確かだ。
気晴らしには体を動かすのが一番だと知っている。
以前はジョギングをしていたが、早朝だった。
今後は夜間に行うことになると思うが、ここは山下公園付近。
治安を考えれば、諦めておくのが妥当に思えた。
腐っても繁華街、観光地だ。
誰と出くわすかわかったもんじゃない。
だが同じビルにあるスポーツジムなら、仕事帰りに立ち寄れる。
汗をかき終わったら軽くシャワーを浴びて、エレベーターで帰宅すればいい。
防犯的にも万全だろう。
ふと気が向いて、スマホを手に取る。
手が自然と拓海へのショートメッセージ画面を開き、文字を打ち込んでいく。
真理:一緒にスポーツジム通わない?
送信してから、全身の毛穴が開いて汗が出ていた。
――何を送信してるの?!
あわててみても、取り消すことなどできない。
あわあわと部屋の中で右往左往してると、スマホの着信音が鳴った。
真理がおそるおそるスマホを覗く。
拓海:いいよ。いつから?
ゆっくりとスマホを手に取り、今度は慎重に文字を打ち込んでいく。
真理:来週、月曜から。
拓海:わかった、用意しておく。
ふぅ、と深いため息をついた真理が、ベッドに倒れ込んだ。
「なんだか、忙しい一日だったなぁ」
昼前に口にする言葉じゃない。
そう気づいたのは、真理の腹が空腹を訴えた時だった。
「お昼……やっぱり、喫茶店かしら」
次の給料日まで、手持ちの金で回していくしかない。
それを考えれば賄いを出してもらうのが、一番手堅いだろう。
――厚意には全力で甘えるって決めたんだし、今さらよね!
真理は気合を入れてベッドから起き上がり、一階に向けて玄関を出た。
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