第6話

 最後の缶ビールを真理が飲み干した。


「……あら? もうないの?」


 拓海が困り果てた笑みで真理に告げる。


「もう飲み過ぎじゃない? 五本目だよ?」


 目が座った真理が拓海の顔に迫る。


「まだ飲み足りないわ!

 ねぇ、この店にお酒はないの?」


「喫茶店だよ? 料理酒しかないよ」


「じゃあ、あなたの家には?」


「そりゃあ、少しはあるけど」


 バンとカウンターを叩いた真理が席を立った。


「決まりね。あなたの部屋で飲み直しましょ」


「ダメだって! じゃあ、僕がコンビニで買ってくるから、それまで待ってて!」


「待てないわ。あそこ、結構歩くじゃない」


 ため息をついた拓海が真理に告げる。


「どうしても?」


「どーしてもよ!」


 弱りはてた拓海が、真理を見つめて考える。


 すっかり酔った真理を、このままここに放置もできない。


 一緒に買い出しに行くのも危ないだろう。


 残った最後の選択肢を、拓海は渋々受け入れた。


「……わかった。でもあまり飲み過ぎないようにね」


 真理は嬉しそうにニコリと微笑んだ。


「それでこそ拓海ね。良い子良い子」


「子ども扱いしないで!

 ――もう、酔っぱらうとたちが悪いのかな」


 真理に肩を貸した拓海が、ゆっくりと歩きだした。


 二人で店を出て鍵を閉めると、エレベーターに乗りこみ、四階に向かう。


 真理は久しぶりに触れる人肌のぬくもりに、安心感を覚えていた。


 ――もう少し、この時間を味わっていたい。


 そんな思いで、体を拓海に預ける。


 拓海はそんな真理の姿に心を乱されながら、彼女を抱えてエレベーターを降りた。





****


 拓海が部屋のロックを開け、真理を担ぎ込む。


 ふわりとコロンの香りが真理の鼻をくすぐった。


「大丈夫? 靴は脱げる?」


「だーいじょうぶだってば」


 乱雑に靴を脱いだ真理が、部屋の中に上がりこむ。


 拓海の部屋は、リビングと個室が二部屋、ダイニングと中くらいのキッチンがついていた。


 真理の部屋より、だいぶ広い。


「なによ、随分といい部屋に住んでるじゃない」


「二人部屋をひとりで借りてるんだよ。

 とにかくソファにでも座って」


 拓海に座らされた真理は、部屋の中を見渡した。


 綺麗に整頓された部屋、リビングの戸棚には本が並んでいる。


 テレビラックには映画のディスクが何本か置いてあるのがわかった。


 シンプルだが、趣味の分かりやすい部屋だ。


「本が好きなの?」


 キッチンで酒を見繕いながら、拓海が応える。


「人並程度だよ。週に一冊読むくらいさ」


 それは充分に『本好き』といえるんじゃないかと真理は思った。


 だが本を集めている様子はない。


 おそらく読み終わったら、古い本は処分しているのだろう。


 リビングのローテーブルの前に、拓海が缶ビールとワインを置いた。


「ちゃんぽんは良くないけど、ビールが足りなければワインもあるよ」


「なによ、あるなら最初から出しなさいよ」


 拓海が置いたワイングラスに、遠慮なく真理がワインを注いでいく。


 香りを堪能したあと、真理の喉をワインが通り過ぎていく。


「――ふぅ、良いワインじゃない。

 高いんじゃないの?」


「飲みやすい銘柄なだけだよ。

 僕の趣味だ」


 拓海は真理の隣に少し離れて座り、缶ビールを開けた。


 そのまま喉越しを味わうように流し込んでいく。


 そのまま黙って、二人は少しの距離を置いて酒を体にためていった。


「……ねぇ、映画でも見ない?」


「はいはい、どんなのがお好み?」


 拓海が立ち上がり、TVラックから映画のディスクをいくつか手に取り、真理に見せる。


 真理はその中から感動巨編のタイトルを選び、指さした。


「これでいいわ。かけてよ」


「オーケイ、ちょっと待ってて」


 拓海がプレイヤーにディスクをセットし、リモコンを操作していく。


 真理の横に戻った拓海が、リモコンをテーブルに置いて缶ビールを手にした。


 そんな拓海の体に、真理が一歩詰め寄り、肩を密着させる。


 拓海が小さく息をついて告げる。


「村上さん、飲み過ぎじゃない?」


「真理って呼んでよ。他人行儀すぎるわよ、拓海くん」


 拓海がため息をついて応える。


「じゃあ真理さん、飲み過ぎだよ。

 明日に響くから、それぐらいにしたら?」


「なによ、映画ぐらいこうして見ても良いじゃない」


 ワイングラスを手にした真理は、もう言うことを聞きそうにない。


 諦めた拓海は、真理の体重を支えながら映画に意識を向けた。





****


 映画が終わり、部屋に静寂が戻った。


 時計を見ると、もう午前になっている。


「村上さん、もう部屋に戻らないと」


 真理の返事はない。


 横を向くと、真理は拓海に身体を預けたまま寝ているようだ。


 その手からワイングラスをそっと奪い、テーブルに置く。


「まいったなぁ……これでも健全な男なんだけど」


 正直に言えば、真理は拓海の好みの外見をしている。


 快活でやや強引な性格も、嫌いじゃない。


 そんな女性が自分に体を預け、酔いつぶれていた。


 場所は自宅で、誰にも邪魔などされはしない。


 拓海は深いため息をつきながら、真理を抱え上げた。


「後で悔やんでも、僕は知らないからな」


 拓海は静かな足取りで、真理を運んでいった。





****


 朝の陽ざしが目に入り、真理の意識が覚醒する。


 ――なんだろう、頭が重たい。


 昨晩なにがあったかをゆっくり思い出し、あわてて起き上がって周囲を見回した。


 自分の部屋のベッドにいる。周囲には誰もいる気配がない。


 深くため息をついた真理が、自己嫌悪に陥っていた。


「最悪……何してんのよ、私」


 拓海に迷惑をかけたことは、一目瞭然だった。


 直接電話をすることもはばかられた真理は、ショートメッセージを拓海に送った。



真理:夕べはごめん。


拓海:気にしないで。



 たったそれだけのやりとり。


 それだけでも、真理は拓海に申し訳ない気持ちが湧いていた。


 ここまで酔いつぶれた真理を運ぶだけでも一苦労だったろう。


 今日も喫茶店は営業日で、拓海は朝が早い。


 自分がどれだけ迷惑をかけたか思い知りながら、真理は着替えを用意してバスルームに向かった。





****


 午前九時、コンビニまで朝食を買いに行こうと、真理がエレベーターを降りた。


 一階のエレベーターホールでは、真理の目の前に優美がたたずんでいた。


「なんじゃ、目が覚めたのか?

 丁度おんしのところに行くところじゃった」


 驚いた真理が尋ねる。


「……何の用?」


「おんし、ジムに興味があると聞いたぞ?

 ここの三階がスポーツジムになっておる。

 割引で入会させてやるから、ついてこい」


「私、朝食がまだなんだけど」


 優美があきれたようにため息をついた。


「なーんじゃ、まだ食うてなかったのか?

 ――ほれ、拓海のところにゆくぞ。

 飯を食うたらジムに行こうぞ」


 優美に手を引っ張られながら、真理があわてて告げる。


「ちょっと待って! 今マスターに顔を合わせる訳には――」


「昨晩の醜態かえ? 聞いたぞ、だいぶ飲んだそうじゃな?

 顔を合わせ辛いのはわかるが、そういうのは早めに謝っておけ」


 そう言われてしまえば、その通りかもしれない。


 真理は足取り重く、『カフェ・ド・アルエット』の扉をくぐった。





****


 軽快なドアベルと共に、真理の視界に拓海の笑顔が飛び込んでくる。


「あれ? オーナー? 出ていったばかりじゃ――なんだ、真理さんか」


 照れ臭くなった真理が顔を背けながら応える。


「マスター、その、名前で呼ぶの止めてもらえる?」


「僕のこと、『拓海くん』って呼ばなくていいの?」


 カッと顔が火照った真理が、あわてて応える。


「あれは! 酔った勢い! 忘れて!」


 クスクスと笑う拓海が応える。


「はいはい――じゃあ村上さん、何食べる?」


「……ナポリタン」


 笑顔でカウンターの奥に消える拓海を盗み見て、真理はため息をついた。


 ――このあと、食べる前に謝らなきゃ。


 優美に手を引かれた真理は、静かにテーブル席に着いた。

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